わたしはあなたに呪いをかける。
死ぬ前の晩には、必ず、あなたに願いを告げると決めている。たった一つ、叶えたいお願いがあるのって、やすっぽい悲劇のヒロインみたいな顔して。
死んでしまう人の願いは、とてもせつない。なぜかって、絶対に叶うことがないからだ。
だからこそ、あなたはそれを忘れられない。多分、生涯それを思い出す、繰り返し、何度も、何度も。
どんな願いがいいか、私は毎日考えている。
冬に死ぬのなら、夏にしか食べられない果物が食べたかったと言うの。
そうしたら、あなたは夏のスーパーでそれを見かけるたび、私を思って苦しくなるでしょ。
雨の日に死ぬのなら、よく晴れた公園を散歩したかったって言うわ。
そうしたら、あなたは晴れた日ほど、私を思って悲しくなるでしょ。
あなたが、自分のすべてを捧げて人を愛せるような人だったら、たぶん私はあなたに世界で一番きれいなものだけ遺していこうとしたと思う。
でも、あなたはそうでもないし。私だって、そうでもない。
だから、あなたに呪いをかける。
できるかぎり、持続力のつよい、息の長い呪いを。
私の本当のたった一つの願いは、多分、
あなたが生涯、私を忘れないこと。
アヤビムラオオスズムシは、『嗚呼、嗚呼』と鳴く。その鳴き声は『ああ』でも『アア』でもなく『嗚呼』なのだと、弥二郎はむかし村の住職に聞いた。
弥二郎の夢は、いつか帝都の大学に通い、昆虫学者になることだった。村の誰一人としてそれを現実離れした夢とは思わないほどに、弥二郎は優秀な子どもであり、そして虫好きで有名だった。弥二郎は日々虫取り網と籠と帳面を持って野山を駆け回っては、帝都から取り寄せた薬を使って捕まえた虫の標本をつくる。
けれど、アヤビムラオオスズムシだけはけして標本にしてはいけないと、以前村の住職にきつく叱られたことがある。
「あら、弥二郎ちゃん、また虫取りに行くの。でもお山の深くまで入っちゃいけないよ、神隠しに遭うからね」
村一番の美人と名高い久が、出掛けの弥次郎にそう声をかけてくる。文日村は、山深い森のただ中にある。だから、頻繁に村人が神隠しにあうのだ。
「うん、わかってるよ。久ねえちゃんは、お寺様んとこに行くの?」
「そうだよ、ふふ、もうすぐ祝言だからね。でも祝言の前に、弥二郎ちゃんは中学に行っちゃうんだねえ」
久はその白い手で弥次郎の頭を撫でながら、名残惜しそうに言った。弥二郎は、もうすぐ尋常小学校を卒業し、中学校に進むことになっている。中学校は山を二つ越えた先のとなり町にあり、とてもではないが文日村からは通えない。しかし中学校の校長が、弥二郎の優秀さに特別目をかけてくれ、弥二郎は校長の家に下宿させてもらうことになったのだ。だから、もうすぐ文日村を出ることになる。
そして久にもまた、近く大きな変化が起こる。久は、村に唯一つの寺である月光寺のあたらしい住職のもとに、もうすぐ嫁ぐのだ。一年と少し前、前の住職に不幸があり、その息子の尭尋が寺を継ぐことになった。尭尋と久は幼い頃からの許婚であり、とても仲が良い。
「住職様は残念だったけど、久ねえちゃんとやっと一緒になれるんだから、尭尋さんは大喜びだね」
「あら、この子は、ませたこと言って」
弥二郎のおでこをぱちんとはたいて照れたように言う久は、とても幸せそうでもある。
前の住職が亡くなるすこし前、帝都で大きな地震があった。天地がひっくり返るような、あの天にそびえる浅草十二階も崩壊してしまったと聞くほどの大地震だ。帝都ほどではないにしろ、文日村もずいぶん揺れて古い蔵がいくつか倒れたし、山では土砂崩れも起きた。
しかも、その後も小さな地震が断続的に続いて、何日も収まらなかった。弥二郎には、それが帝都の学者先生が書いた難しい本に書いてあった「余震」というものなのだと分かっていたけれど、村人たちの多くは釈迦牟尼如来様が怒ってらっしゃるのではないかとずいぶん怯えていた。
そしてそんな折、さらに時機が悪いことに、住職様は急に姿を消したのである。余震のために起きた何度目かの土砂崩れに巻き込まれたのではないかという噂で、じきに尭尋が住職様の死を村人たちに知らせた。重なった悲劇に対する村人たちの動揺は大きいものだったが、けれど不思議と、それを境にぴたりと余震は止んだ。そのような大変な時期を乗り越えて、尭尋と久は、もうじきやっと結ばれるのだ。
「おい、久と弥二郎じゃないか。何をしているの」
噂をすれば、ふらりと現れたのは若い住職である尭尋である。久と並ぶとよく絵になるくらい、尭尋もこんな辺鄙な田舎の村には似合わぬほどに綺麗な顔をしている。尭尋は久と目配せし合うと、ごく自然に彼女の腰に手を回す。
「虫取りに行くんだって。弥二郎ちゃん、お寺の境内に来たら。あそこ、鈴虫がたくさんいるでしょう」
「知ってる?あれね、アヤビムラオオスズムシっていうんだよ!」
弥二郎は大きな声で答える。この文日村でばかり見かける、大柄なその鈴虫に大層な名前をつけたのは、何を隠そう弥二郎なのである。弥二郎は、この鈴虫が文日村の固有種というやつではないかと疑っているのだ。
「ふふ、弥二郎が勝手にそう命名したんだよ。確かにあれは、多分うちの寺にしかいないから。……でも、弥二郎、けしてあの鈴虫を、捕ったり殺したりしてはいけないよ、いいね?」
「あら、そうなの?どうして?」
不思議そうな顔をしてそう聞いたのは久のほうだった。しかし尭尋はあいまいな微笑みを浮かべただけで、なにも言わない。
「とにかく、あまり遠くまで行ってはならないよ、弥二郎。俺も久もお前の父さんも心配するからね」
そう言って、二人は寺に向かって歩いていった。こちらに手を振る久の、着物のたもとから覗く手首の内側が、痣のなりかけのように赤くなっているのがちらちら見えて、弥二郎はふと思い出した。文日村を出ていくことが決まったころに、尭尋さんに不思議なことを言われたこと。
『もし、手首の内側のあたりに、月のうさぎのような痣が浮いて出た時は……となり町にいたとしても、帝都にいたとしても、すぐさま文日に戻ってこなくてはいけないよ。それは、釈迦牟尼如来様に呼ばれたという印だからね』
あれは、一体どういう意味だったのだろうかと、弥二郎は今さら訝しむ。尭尋さんは尋常小学校しか出ていないが、村の誰よりもインテリで、難しい本を山ほど持っている。弥二郎がこれまで蓄えた知識のほぼすべては、借り受けた尭尋さんの蔵書から得たものだと言っても過言ではないほどである。だから、尭尋さんはお坊さまではあるが、科学の道理に即していない話はあまりしない人なのだ。そんな彼があんな話をしたことが、弥二郎には不可解に感じられた。
けれどそれを聞こうかと悩んでいるうちに、幸せな二人は踊るような足取りで行ってしまった。これから二人で暮らすことになる、村の古寺へと。
それから数週間が経ち、弥二郎が村を経つ日までもうほんの数日という頃になって、文日村はひどい長雨に襲われた。となり町まで続く峠道で土砂崩れが起こって、誰も村から出られなくなってしまったばかりか、村のすぐ脇を流れる川の水量は日に日に増して、今にも堰が決壊しそうだということだ。
そしてこんなとき、文日村の村人たちがなぜか一番に頼りにするのは、いつだって月光寺なのだった。大人たちは、毎日寺に集まっては何事か話し合っている。
弥二郎も不安な気持ちになって、一度だけ寺を訪ねた。すると、その時は尭尋さんが一人きりで濡れ縁に立っていて、どこか疲れ果てた様子でこう言った。
「なあ、弥二郎。帝釈天様のために火の中に身を投げたうさぎの話、覚えているか」
弥二郎は神にも仏にもあまり興味は持てなかったが、その話は覚えていた。幼い頃から度々、前の住職様が語って聞かせてくれた、有名な仏教説話である。捧げられるものを何も持たないうさぎが、お腹をすかせた帝釈天様のために、私を食べてください、と言って火の中に飛び込むお話。
「あの話の、どこが素晴らしいのか、弥二郎にはわかるか」
こんな時に何故そんな話をするのだろうと思いながら、弥二郎は首を振った。すると尭尋さんは、どこか虚ろな瞳をして言った。
「それはね、うさぎが誰に強いられたわけでもなく、自らの意思でわが身を犠牲にしたからだ」
雨はまだ降り止まず、尭尋さんの力のない声はすぐに雨音に吸い込まれてしまう。と、同時に、雨音にも負けないほど大きな音で、境内のアヤビムラオオスズムシが一斉に鳴く声が響いた。『嗚呼』 『嗚呼』と。
その翌日、久がいなくなった。増水した川に流されたのではないかという噂だ。そして時を同じくして、嘘のように雨は止んだ。
長雨のせいで、弥二郎が村を立つ日はいくらばかりか遅らされることになった。そしてまたあと数日で村を立つという日に、弥二郎は気づいてしまった。自身の左の手首の内側に、いつの間にか月のうざぎによく似た痣が浮かび上がっているのだ。
釈迦牟尼如来様に呼ばれた印だと言った尭尋の言葉が頭をよぎり、弥二郎はすぐさま月光寺を訪ねた。久がいなくなってからというもの、廃人のように暮らしているという噂の尭尋は、ずいぶんやせ細り、泣き腫らした目で弥二郎を迎えた。
今日も寺の境内では、アヤビムラオオスズムシが盛んに鳴いている。『嗚呼』『嗚呼』『嗚呼』と。
「尭尋さん、僕の手首に、月のうさぎの形の痣が出来たんです」
弥二郎がそう告げると、尭尋はあからさまに狼狽え、そしてガタガタと震え始めた。尭尋は何か悪いものから弥二郎を守ろうとでもするようにその身を掻き抱くと、声を潜めて聞いてくる。
「その話、私以外にはしたか」
「いいや、尭尋さんにしか話してない。父さんだって知らないよ」
「そうか……。なら、よく聞きなさい。痣については誰にも話さずに、村を立ったら、もう二度とここには戻ってきてはいけないよ。お前はたくさん勉強をして、帝都で立派な学者様になるんだ」
顔を上げて見てみれば、尭尋は修羅のような形相をしていた。弥二郎には、もう少しの疑問をはさむ余地もなさそうな様子だ。
だから弥二郎は、代わりに別のことを聞いた。ずっと不思議に思っていたことの一つ、聞きたくても聞けずにいたことを。
「……ねえ、尭尋さん、どうしてお寺の鈴虫の鳴く声は、漢字で『嗚呼』と書くの」
「それはね、彼らには心があって……嘆いているからだよ。――犠牲にされたことを」
『私たちの、秘密の場所で待っています』
そんなメッセージを残して、彼女は消えた。今住んでいるマンションがもうすぐ更新時期なので、彼女との同棲を前提に一回り広い2LDKに賃貸契約をした週末のことだった。
昨晩から何となく様子がおかしいなと思ってはいたが、今朝目が覚めたら、化粧道具とか下着とか細々と俺の部屋に持ち込んでいたものと一緒に、綺麗さっぱりいなくなっていたのだ。
何が原因かは皆目見当がつかないが、怒っているのだろうという気はする。女の子はなんで、みんな何の前触れもなく唐突に怒り始めるのだろう。以前、姉ちゃんにこの問題について話を振ったら『それは何もかもお前が悪い』と言われた。
悪いなら悪いで――俺だって悪いところを直そうという気が無いわけでもないので――はっきり口に出してどこが悪いのかちゃんと言ってほしいと思う。出来れば、溜め込まないで、小分けにして。
そのようなわけで、俺は今、おそらく可及的速やかに『秘密の場所』に行かなければならない状況にある。彼女はそこで俺のことを待っており、つまり俺がそこに現れなければ、多分俺たちの関係は今日で終わるのだろう。
それは嫌だ。彼女のことは好きだし、彼女は簡単に別れるのは惜しいと思うほどにいい女だからだ。美人で、スタイルが良くて、簡単なことですぐ笑って、細かいことによく気がつく。俺なんかにはもったいないと心の底から思えるくらい、素晴らしい人だ。それに、現実的な話をすれば――一人で暮らすには家賃的にも面積的にも相応しくない部屋を、借りてしまったばかりだし。
だから俺は今すぐ『秘密の場所』に行かなければいけない……のだが。
「いや、どこだよ。全然分からん」
街中をあちこち駆けずり回ったあと、俺は呆然と呟いた。
彼女と付き合い始めてからもうすぐ半年になるし、その間俺たちは一緒にいろんなところに行った。インスタでバズってためちゃくちゃ並ぶカフェとか、インスタでバズってためちゃくちゃ混んでるバーとか、インスタでバズってためちゃくちゃ入園料の高いテーマパークとか……。
彼女のようにいつでも完璧に身綺麗にしているタイプの女性とこれまで付き合ったことがなかったから、俺は一緒にどのような場所に行くべきなのかわからなくて、常にSNSにその判断を委ねていた。正直俺にはその良さがさっぱりわからない場所も多かったが、彼女はいつも『あ、ここ、インスタで見たかもー』と嬉しそうにしていたし、あながち間違ってはいなかったと信じている。
つまり俺と彼女にとっての『秘密の場所』となると、それはそれらのインスタ物件のうちどれかではないかと思うのだ。デート中、俺の意識は隣の彼女の顔と胸にばっかり集中していたが、おそらく彼女の方は個々の場所にちゃんと感じるところや思うところがあって、そのどれかを『私たちの秘密の場所』にしたのではないかと思う。あるいは、デートの最中に、二人の間でそれっぽい会話が交わされていた可能性もある――残念ながら、俺のほうにその記憶はさっぱりないのだが。多分、俺のこういうところがだめなのだろう。
こんな俺と、彼女がなぜ付き合うことになったかと言えば、驚くべきことに彼女の方から声をかけられたことがきっかけだった。出会いの場は、奥歯の虫歯の治療のため通っていた駅前の歯医者。彼女はそこで歯科衛生士として働いており、三ヶ月ほどの通院が終了するという日に、俺は彼女に食事に誘われたのだ。見るたびに綺麗な人だなと思っていたから、その時は驚嘆して歓喜すると同時に、もしや美人局かなんかなんじゃないかと疑った。そして幸い、やがてそうではないことがわかった。
俺は、朝から彼女と行った場所を一つ一つ巡った。夜営業の店には入ることは出来なかったが、相変わらず馬鹿みたいに並んでいるカフェの行列までいちいちチェックして、必死に彼女を探した。しかし、彼女はどこにもいなかった。
古びた店の塗装の剥げたU字型カウンターに座り、セルフサービスのお冷をすする。まだ真冬なのに、俺は汗だくだった。
夕方近くになって俺はついに精根尽き果て、彼女の働く歯科の近くにある個人経営の牛丼屋に入っていた。老人に近い年齢のおじさんが一人でやっている、盛りが良くて、味の染み込んだ木綿豆腐がごろごろ乗っているのが特徴の、インスタ映えとは対極にあるような牛丼を出す店だ。彼女と付き合うようになってからというもの、どういうわけか足が遠のいてしまっていたが、本当のことを言えば、俺はこういう店が一番好きだった。
思えば朝から何も食っておらず、ひどく空腹である。牛めし大盛り卵つき、と店の奥に向かって向かって叫ぶと、おじさんが牛めし大盛り卵つきぃ、と復唱する声が聞こえる。
もうお手上げだ、何も思いつかない。あるいは、昨晩のやりとりの中にヒントはないかと思って――そのうちのどれが彼女を怒らせてしまったのだろうかと考える。俺と彼女は部屋で配信のドラマを観ていて、動画のサブスプリクションサービスはアマプラで十分か、それともNetflixも契約すべきかでささいな口論になった。どうでもいい話ではあったが、同棲を予定しているだけあって、そういう細かい生活スタイルもすり合わせておきたいという気持ちがあったのだ。アマプラだけでいいじゃんという俺に、彼女は珍しくNetflixも観れたほうがいいよ、としつこく主張してきて……けれど、それがそこまで怒るようなことだろうか?俺だって、べつに特別強い言葉を使ったつもりもないし……。
そうして悩んでいるうちに、あっという間に牛丼が運ばれてくる。目の前にどん、と置かれたそれはよだれが溢れるような醤油の良い香りをさせていて、俺は手早く箸を割る。と同時に、俺の脳裏に一つの光景が蘇った。昨晩、彼女と見ていたドラマの内容。いわゆるグルメドラマというやつで、美女ではないが愛嬌のある感じの女優が、あちこちの店で食事する様子を坦々と映すだけのものだ。
その中で女優が食べていたのが、これによく似た牛丼だった。牛丼は美味そうだったが、正直女優の食べる姿はそれほど食欲を煽るものでもなく――そのときふと、俺は以前この店でよく見かけていた、ひとりの女の子のことを思い出した。
彼女は整った顔はしていたものの化粧っ気はなく、ボサボサの髪に常にくたびれたスウェットを着て、いつも一人でこの店に来ていた。おじさんにぶっきらぼうに俺と同じ牛めし大盛り卵つきを頼み、箸を口でくわえて荒っぽく割ると、清々しいほどに豪快に運ばれた丼をかき込んでみせる。そこには色気などみじんもなく、何なら少し下品ですらあったかもしれないが、その生々しさが、なんというか……すごく、良かったのだ。なんか、そそられた、あらゆる意味で。凝視するのは失礼だろうと思いつつ、俺は常に彼女に目が釘付けになっていた。
そのドラマを見ながら俺は彼女のことを思い出し、そしてなぜか、目の前の恋人に対して少し後ろめたい気持ちになった。どこか、浮気をしているような気分になったからだろう。だから、なんとなく、取り繕うようにこう言った。
「牛丼かき込んで食うような女の子、正直引くわ」
あのとき、そういえば彼女は、奇妙に沈黙していた。怒っているというのとも違うが、何か息を詰めて、悲しげにしていたというか……。あれは一体なんだったのだろう。
そう思いながら、牛丼を食おうと丼を持ち上げたところで、俺は気がついた。U字型カウンターの真向かいに、あの彼女が座っている。相変わらずくたびれたスウェットを着て、化粧っ気のない顔で、空っぽの丼を前に置いて――。
そのとき、俺はやっと気が付いた。泣きそうな顔でこちらを見ている彼女の顔が、あまりにも見慣れたものであることに。
恐らく間抜けな驚愕の表情を晒しているだろう俺に、彼女は呆れたように笑いかける。そして、こう呟いた――『やっと気付いてくれた』と。
「お紅茶に、胡椒を入れたらどうかしら?」
私のやすらかな居眠りの時間は、そんなアリサの声に台無しにされた。
五月の屋上に、瑞々しく爽やかな風が流れていく。聖アウグクチヌス女学園の校舎の内装は装飾的でどの教室も華やかだが、コンクリートがむき出しの屋上だけは飾り気がなく寒々しい。けれどだからこそ、私にはこの場所こそが、この学園で唯一私に似合いの場所のように感じていた。
今日はすこしだけ風が強い。遮るもののない屋上に無防備に寝転がっていると、時折紺のプリーツスカートがやたらめったら翻るくらいに。そして私の傍らに思案顔で座り込むアリサのスカートも、ふいに風に巻き上がり、柔らかくウェーブした長い髪も空に舞う。と同時に、風に乗るようにして、遠くから少女たちの歌声が聞こえた。ラ、ラ、ラ……と、同じメロディを、何度も繰り返し。
「何だって?」
「お昼のお紅茶にね、胡椒を入れたらいいんじゃないかと思うの」
「……何だって?」
お昼のお紅茶。学園では昼食は基本的に各自弁当を持参する決まりになっているが、食事の際には修道院のシスター達から『お紅茶』の『御恵』がある。その日の日直が、修道院と繋がる渡り廊下まで行って、大きな魔法瓶に紅茶を貰ってくるのだ。そしてそれを、私達は一杯ずつ飲むことを許されている。
「だってリカ、今日日直でしょう?こっそり入れてよ、胡椒。うんとたくさん」
「な……どうして?」
呆然と聞き返すと、アリサは榛色の瞳を眇めて私を睨む。なんて物わかりが悪いのかしら、と今すぐにでも言い出しそうな顔をしながら、代わりに「だって不公平でしょう」と呟いた。
不公平?何が?
さらにそう聞きたいのを我慢して、私はひとまずアリサを抱き寄せて膝の上に座らせる。アリサは心を許した相手に対してはパーソナルスペースという概念が消失する傾向にあり、かつとりあえずスキンシップを図れば機嫌が多少上向きになるからだ。
私は風のせいでぐちゃぐちゃになった彼女の艷やかな栗毛を手櫛で整えながら、もう一度言葉の意味を考える。罪のないクラスメイトたちが弁当の友に飲む紅茶に、アリサが胡椒をうんとたくさん入れたい理由について。
その時、風向きのせいか、再びまた少女たちの歌い声が大きく耳に届いた。ラ、ラ、ラ……。
「……あ、音楽のテスト」
「そうよ、それ」
小さな頭をこてんと私の胸に預けながら、アリサがいじけたような声で言った。昼食の後、今日の五限目の音楽の時間に、歌のテストをすると教師が先週言っていたのだ。
私は突然すべてに合点がいって、それから途端に愉快な気持ちになった。喉の奥から、自然と笑いがこみ上げてくるが、必死に堪える。笑ったらアリサはまた怒るだろう。零れそうになった声を押し留めるように彼女の肩口に鼻先を埋めると、アリサは目ざとく勘づいたようでこちらをまたギロリと睨む。
「笑ったわね?」
「ふ、ふふっ……ごめ、ごめん。でも、でもさぁ……胡椒入れるっていうのは、ちょっと……」
もう抑えられなくなって、私はあからさまに笑い出した。
アリサは気難しくて扱いの難しい子ではあるけれど、歌のテストを控える生徒たちに何の意味もなく胡椒入り紅茶を飲ませようとするほど意地悪ではない。そこにはちゃんと事情があり、動機がある。
「ふふ……だ、大丈夫。アリサ、そ、そんなに下手じゃないよ」
「……嘘。すごく下手なの!でも生まれつきなのよ。こんなの不公平じゃない!」
アリサは抗議するようにコツンコツンと私の肩を小さな手で殴ってくる。細枝のように頼りなく白い腕をしているくせに、存外力が強く、地味に痛い。私は再び振り上げられたその拳を手のひらで受け止めると、歌ってみて、と彼女に囁いた。
「嫌よ、絶対に嫌」
「いいから。どんなアリサでも可愛いよ」
宥めるように柔らかい声で言う。するとアリサはしばらく頬を膨らませて黙り込んだのち、歌い始めた。
ラ、ラ、ラ……、先ほどから繰り返し聞こえる少女たちの歌声と同じ、音楽のテストの課題曲を。
アリサが気にしている通り、彼女のラララは他のものよりすこし個性的で……時折正しいルートを外れ、極端に上がったり、下がったりする。
アリサの透き通るような清浄な声が、メロディを奏でるとなると途端に美しいばかりではいられなくなる人間臭さが――私には、とても好ましく思えた。
けれど、だから大丈夫だよ………と言ったところで、アリサは納得しないだろう。私と違って、正確な呼吸法と発声法と音程を重視する音楽の教師はこれを評価はしないだろうし、同級生たちも笑うかもしれない。
ああ、なんと言ったら、アリサの突飛な思いつきを阻止できるだろう。私がもっと下手に歌って注目を集めるって言ったら、紅茶に胡椒を仕込むことは諦めてくれるだろうか。
そう頭を悩ませつつ、私は膝の上のアリサを気安く抱きしめる。春の屋上に響く調子外れのラララに、耳を澄ませながら。
私の母国であたらしい法律が制定されたと、風の噂で聞いた。なんでも、『国民が王族を連れ去った場合、連れ去られた王族が『同意の上である』と明言すれば、その国民は罪には問われない』という内容だとか。
変な法律よね、と私は我が子に語りかける。今年五歳になるヨシュアは、そもそも法律とは何なのかをまだ理解しきれていないのか、昼食のシチューをガチャガチャとスプーンで掻き回しながら知らんぷりをしている。年相応にあどけない息子の様子が可愛らしくて仕方なく、私は彼の丸い頬をそっと人差し指と親指ではさんだ。
私の母国はクレメアという。クレメアは私が今暮らす東大陸ではなく、その海を挟んだ向こうの西大陸の東岸に位置する、大陸一の大国である。
クレメアにはそれはそれは悪い王様がいて、彼はここ十年余り南側の隣国ノクタに侵略戦争を仕掛けていた。その少し以前、ノクタで恐ろしく美しく、恐ろしく希少な宝石の鉱脈が掘り当てられたことが原因だった。悪い王様はその宝石の虜となり、手段を選ばず、卑劣で残虐な方法でノクタの領土と国民を蹂躙し続けたのだ。戦争はとても長く続き、私はすべてに嫌気が差し、クレメアから逃げ出した。今の夫である、フランと一緒に。
けれど、ここ数年は、その母国の様子もずいぶんと変わったらしい。それもまた、私は風の噂で聞いた。
「こら、ヨシュア。母様の話をちゃんと聞きなさい」
「いいのよ、フラン。それより、隣のトンノさんがまたヨシュアに服をくれたの。見てよ、これ」
ヨシュアの隣で食事をしている夫に、上等な箱に入った男児用のセーラー服を見せる。トンノさんは息子のお下がりだなんて言っていたけれど、どう見ても新品だし、平民が着るには上質すぎる繊細なコットンで仕立てられている。そもそも男児に子供服としてセーラー服を着せるのはクレメアの習慣で、東大陸ではそんなことはしない。
「……ヨシュアのことを、気遣ってくださっているということでしょうか」
「そうなのかしら。脅しとも受け取れなくもないけれど……。まあどっちにしろ、こんなのは着せられないわよね」
「もったいないですが、そうですね。私は姫の判断に従います」
「もう、姫って呼ぶの止めてって言っているでしょう、フラン。ヨシュアが真似をするわ」
私が言うと、フランはとても従順に『申し訳ありません』と謝罪する。もう少しふつうの夫らしく対等に振る舞っていいと何度も伝えているのに、いつまで経ってもこの調子だ。剣の腕はこの世の誰より立つくせに、卑屈なくらい謙虚な態度は昔から変わらない。まあ、そういうところもまた好きなのだけれど。
正直なことを言えば、夫のフランに姫と呼ばれることは嫌いではなかった。どこかビロードのような柔らかさのある彼の低い声でそう呼ばれると、私の胸はかつての使命を思い出して疼き、そして少女の頃からの恋が蘇る。
ところで、トンノさんから『息子のお下がり』を貰うのは、これが初めてではない。一見どこにでもいる平凡な田舎町の奥さんといった風体をした彼女は、しかし妙にクレメアの情勢に詳しいし、何かと私たち家族を気遣って色々なものをくれる。それも、このセーラー服のように、とても田舎の平民が用意できるとは思えないような高級なものばかり。
夫と私は、時々トンノさんを『風』と呼ぶ。ちなみに、『風』は彼女一人ではない。私とフランとヨシュアは、これまで方方を転々として生活しながら、さまざまな『風』に遭遇してきた。『風』に出会うたび、私たちは住む町を変えてきたのだ。
けれどヨシュアが三歳を過ぎた頃からは、じたばた逃げ回るのはやめた。そんなことをせずとも、フランの剣は誰からも私達を守れるほどに強いし、ヨシュアをひとところで落ち着いて育ててやりたかったし――それになにより、少し状況も変化したようだったから。
ちょうどその頃、クレメアは突如侵略戦争を止め、軍を引き上げてノクタと和平合意を結んだあと、長きにわたる暴虐に対して多額の賠償金を支払ったという。クレメアの悪い王様が突然なぜそんな心変わりをしたのか、西大陸どころか東大陸の人々も大いに訝っているのだとか。
それもまた、私は風の噂で聞いた。風は様々な噂を運んでくる。例えばクレメアの悪い王様が、戦時に突如行方不明になった彼のただ一人の姫の捜索に、多額の報奨金をかけているらしいこと。その姫を拐った護衛騎士にもまた法外な懸賞金が掛けられているが、数年経つとその全てを取り下げ、突然に国家運営の方針を大きく転換させ始めたこと。
これまでは大陸一の大国であるがゆえの富と権威を振りかざして周辺の小国に威圧的に振る舞っていたのが、急に協調路線へと舵を切り、悪い王様は人が変わったように良い王様になったのだという。
本当かしら。私はまだ信じられない。あの欲深くて残酷な悪い王様が、本当に改心したのかどうか。
行方不明になる前、クレメアの王のただ一人の姫には、縁談が持ち上がっていた。相手は、武器製造に長けた北の国の若い王。婚姻を通じた同盟を結ぶことが目的の縁談であり、彼女を嫁がせることで、クレメアはノクタを虐げるためのさらなる武器と火薬を手に出来ることになっていた。しかしお姫様がどこかに逃げ出してしまったせいで、その話はすっかりなくなったようだ。
「ねぇ、ヨシュア。お前、王子様になりたい?」
「ん?王子様?……やだー!ボクね、騎士になるんだよ!お父さんみたいな!」
五歳児相応の乱れたテーブルマナーでシチューを零しながら、無邪気に答えるヨシュアの姿に頬がゆるむ。私が同じ年の頃には、すでに何十人もの家庭教師がついていて、音一つ立てずスープを啜ることだって完璧にできていた。けれど、この子はこれでいい。このままでいてほしいと思う。
ところで先ほど、風が少し変わったものを運んできた。高級なセーラー服が収められた箱には、クレメア王家最高位を示す封蠟で綴じられた手紙が紛れ込んでいたのだ。
それは、老いた父からの手紙だった。あの傲慢で冷酷で頑固な父が書いたとは信じられないほど、そこには素直であけすけな懇願の言葉が並んでいた。けして怒ったりはしないから帰ってきて欲しい、孫の顔が見たい、私は反省した、もうあんなことはしないから、と。
どうしようかしら、と私は悩む。平凡な田舎町での平民の暮らしを、私たちは存外気に入っている。
それに、けしてあの父を侮ることは出来ない。城の敷居を跨いだが最後、あの人はヨシュアを取り上げ、フランを断頭台に上げ、私を生涯監禁するかもしれない。かつて私が知っていた父は、それくらいのことはする人だったのだ。
けれどそのうち、ちょっと顔を見せに帰ってあげてもいいかもしれないわね。手紙の震える文字を思い出しながら、私は少しだけそう思い始めている。