「お紅茶に、胡椒を入れたらどうかしら?」
私のやすらかな居眠りの時間は、そんなアリサの声に台無しにされた。
五月の屋上に、瑞々しく爽やかな風が流れていく。聖アウグクチヌス女学園の校舎の内装は装飾的でどの教室も華やかだが、コンクリートがむき出しの屋上だけは飾り気がなく寒々しい。けれどだからこそ、私にはこの場所こそが、この学園で唯一私に似合いの場所のように感じていた。
今日はすこしだけ風が強い。遮るもののない屋上に無防備に寝転がっていると、時折紺のプリーツスカートがやたらめったら翻るくらいに。そして私の傍らに思案顔で座り込むアリサのスカートも、ふいに風に巻き上がり、柔らかくウェーブした長い髪も空に舞う。と同時に、風に乗るようにして、遠くから少女たちの歌声が聞こえた。ラ、ラ、ラ……と、同じメロディを、何度も繰り返し。
「何だって?」
「お昼のお紅茶にね、胡椒を入れたらいいんじゃないかと思うの」
「……何だって?」
お昼のお紅茶。学園では昼食は基本的に各自弁当を持参する決まりになっているが、食事の際には修道院のシスター達から『お紅茶』の『御恵』がある。その日の日直が、修道院と繋がる渡り廊下まで行って、大きな魔法瓶に紅茶を貰ってくるのだ。そしてそれを、私達は一杯ずつ飲むことを許されている。
「だってリカ、今日日直でしょう?こっそり入れてよ、胡椒。うんとたくさん」
「な……どうして?」
呆然と聞き返すと、アリサは榛色の瞳を眇めて私を睨む。なんて物わかりが悪いのかしら、と今すぐにでも言い出しそうな顔をしながら、代わりに「だって不公平でしょう」と呟いた。
不公平?何が?
さらにそう聞きたいのを我慢して、私はひとまずアリサを抱き寄せて膝の上に座らせる。アリサは心を許した相手に対してはパーソナルスペースという概念が消失する傾向にあり、かつとりあえずスキンシップを図れば機嫌が多少上向きになるからだ。
私は風のせいでぐちゃぐちゃになった彼女の艷やかな栗毛を手櫛で整えながら、もう一度言葉の意味を考える。罪のないクラスメイトたちが弁当の友に飲む紅茶に、アリサが胡椒をうんとたくさん入れたい理由について。
その時、風向きのせいか、再びまた少女たちの歌い声が大きく耳に届いた。ラ、ラ、ラ……。
「……あ、音楽のテスト」
「そうよ、それ」
小さな頭をこてんと私の胸に預けながら、アリサがいじけたような声で言った。昼食の後、今日の五限目の音楽の時間に、歌のテストをすると教師が先週言っていたのだ。
私は突然すべてに合点がいって、それから途端に愉快な気持ちになった。喉の奥から、自然と笑いがこみ上げてくるが、必死に堪える。笑ったらアリサはまた怒るだろう。零れそうになった声を押し留めるように彼女の肩口に鼻先を埋めると、アリサは目ざとく勘づいたようでこちらをまたギロリと睨む。
「笑ったわね?」
「ふ、ふふっ……ごめ、ごめん。でも、でもさぁ……胡椒入れるっていうのは、ちょっと……」
もう抑えられなくなって、私はあからさまに笑い出した。
アリサは気難しくて扱いの難しい子ではあるけれど、歌のテストを控える生徒たちに何の意味もなく胡椒入り紅茶を飲ませようとするほど意地悪ではない。そこにはちゃんと事情があり、動機がある。
「ふふ……だ、大丈夫。アリサ、そ、そんなに下手じゃないよ」
「……嘘。すごく下手なの!でも生まれつきなのよ。こんなの不公平じゃない!」
アリサは抗議するようにコツンコツンと私の肩を小さな手で殴ってくる。細枝のように頼りなく白い腕をしているくせに、存外力が強く、地味に痛い。私は再び振り上げられたその拳を手のひらで受け止めると、歌ってみて、と彼女に囁いた。
「嫌よ、絶対に嫌」
「いいから。どんなアリサでも可愛いよ」
宥めるように柔らかい声で言う。するとアリサはしばらく頬を膨らませて黙り込んだのち、歌い始めた。
ラ、ラ、ラ……、先ほどから繰り返し聞こえる少女たちの歌声と同じ、音楽のテストの課題曲を。
アリサが気にしている通り、彼女のラララは他のものよりすこし個性的で……時折正しいルートを外れ、極端に上がったり、下がったりする。
アリサの透き通るような清浄な声が、メロディを奏でるとなると途端に美しいばかりではいられなくなる人間臭さが――私には、とても好ましく思えた。
けれど、だから大丈夫だよ………と言ったところで、アリサは納得しないだろう。私と違って、正確な呼吸法と発声法と音程を重視する音楽の教師はこれを評価はしないだろうし、同級生たちも笑うかもしれない。
ああ、なんと言ったら、アリサの突飛な思いつきを阻止できるだろう。私がもっと下手に歌って注目を集めるって言ったら、紅茶に胡椒を仕込むことは諦めてくれるだろうか。
そう頭を悩ませつつ、私は膝の上のアリサを気安く抱きしめる。春の屋上に響く調子外れのラララに、耳を澄ませながら。
3/7/2025, 4:37:41 PM