火木金

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11/12/2024, 10:48:46 PM

生死がかかった状況、絶体絶命といえるような状況は凡そフィクションの世界の中だけのもので、自分のような平凡で、凡庸で、月並みな日常を送っている一般人には縁遠いものだと思っていた。

非日常。日常に非ず。名は体をあらわすというように非日常とは日常から逸脱した世界のことだ。自分にとっての日常、日々繰り返されるなんの変哲もない世界。そこからの脱出をイメージさせるような、そんな夢のような世界のことだ。退屈で億劫で憂鬱な、学校と家を行き来するだけの毎日。

田舎だから大した娯楽もなく、インターネットばかりを見つめて現実逃避をする。それも繰り返すとただただ虚しいばかりで、趣味といえる趣味は殺風景な田舎のあぜ道を無目的に散歩するくらいのものだった。その滑稽さといったらなく、みっともない自分に酔うのを楽しむといった具合で自分の性格は見事に拗れていった。

実のところ、人生が充実していないかというとそうでもないのだ。田舎は田舎でも限界集落という表現からはかなり縁遠く、1、2時間に一回は電車だってやってくる。若者も多くはないが少なくもない、とも思う。

週に二度、まだ日が出ないくらいの早朝に、電車に乗って都会へ行く。目的はアルバイトだ。そのアルバイトの目的は、金銭というより刺激だ。つまりは都会に行く口実としてのアルバイトなのだ。親には給料の一部をある程度渡せばなにも文句は言わない。むしろその辺は田舎にしては寛容である親であるので感謝している。しかし、誰もが知っている世界的なバーガーショップでのアルバイトも、自分の退屈を壊すほどの刺激ではなかった。

友人にも恵まれている。昼食を共にする友人もいるし、放課後になれば一緒に遊ぶ友人もいる。みんなが幼馴染同士のようなもので、友達といえば友達だし、しかし高校生であるので、それなりに色恋沙汰も起きてきた。都会の広い交友関係から見ればかなり狭いこの村での恋愛は、まるで昼ドラのように映るかもしれないが、それでも関係が拗れることはなく、仲の良い関係は保たれている。

これは田舎すべてに言えることではなく、自分の周りが心根の善い者ばかりだからだろう。だから、友人にも恵まれている。


「夜は外に出るな」

親からの忠告。自分の家庭特有のものではなく、この村では夜に外に出るのは禁止されている。おかげでアルバイトも朝から昼過ぎの時間帯に限定されているため大迷惑だ。しかし決まりは決まり。自分の都合の為だけに破ろうとも思わないし、ましてや変えようとも思わない。

父親は猟師。母親は都会で働いている。正反対の二人だが不思議と仲は良く、そんな二人に育てられた僕も実際、両親のことが好きだ。父の銃はかっこいい。撃鉄をがちりと鳴らし、爆発音を立てて発射する。まるで大砲だ。母もかっこいい。スーツが似合っていて、家の中では父より強い。

ただ、その日は事情があった。夜に外に出なくてはいけない用事が、親の言いつけを無視してまで外に出なければならない理由があったのだ。

「夜、神社の前で会いたい」

好きな女の子からのメッセージ。何度もいうが高校生。携帯電話のひとつくらいは持っている。恋愛経験が皆無といって良いほどに乏しい男の自分からすれば、まず二人きりで会うという時点でそれはデートだ。逢い引きだ。そしてそれが夜ともなれば少なからず、憎からず想い合う男女の密会といっても過言ではないのではなかろうか。自分はそう思いたい。

だから、夜に外に出た。この村に神社はひとつしかない。それも有名どころの神様を祀るものではなくて、土着の神様だ。何を司っているかも定かではないが、それでも村の人達は老若男女、神社を綺麗に保ち、神様を信仰している。自分は無宗教だが、そういう村の神事に関わることは嫌ではない。純粋に何かを信じるということは、人を優しくするし、強くもすると信じているからだ。

「お待たせ、待った?」

携帯電話の灯りだけが頼りではあったが、そうはいっても生まれて十数年暮らした村だ。迷うことなく、畑の間のあぜ道を、合間を縫うようにジグザグと歩行し待ち合わせ場所の鳥居前に到着した。

「ううん。そんなに待ってないよ。10分も待ってない。」

普段は5分前行動をモットーとする自分からすれば、相手の方が先に着いているというだけで多少の罪悪感に駆られてしまう。

「そっか。それで、なんの用?」

しかし敢えて明るく振る舞う。客観的に考えて、小さいことに負い目を感じてオドオドするような人間は相手を困らせると思うからだ。というか気持ち悪がられたくない。

「特に用事はないんだけどね、なんとなく、会いたいなって。」

嬉しいが、悲しい。それは彼女の顔が、とても寂しそうに見えたからだ。彼女はこの村でいちばん頭が良い。この言い方だとそこまで凄いように感じないかもしれない。具体的には全国模試で一桁台の順位を当たり前のように叩き出すくらいに頭が良い。はっきりいって、自分を含めてこの村のすべて人間と比べても脳味噌の構造からして全く違うのだと思う。

「夜に家の外なんかに出たら怒られちゃうな。」

「私はきっと怒られないから大丈夫。えへへ。」

自分の知る限り最も劇的で、刺激的な人間の彼女は、はにかんでそう言った。しかしそれは、

「ごめん。無神経だった。」

「気にしないで?たしかに君は怒られるわけだから、間違ったことは言っていないんだしね。」

悪戯な笑顔。わざとらしい、笑顔。

「それなら良かった。いや良くないけど、じゃあ、何について話そうか?」

「うーん、君を楽しませられる話題、わたしはそんなに持ってないんだよな〜。」

「なんか意地悪な言い方だな。僕は君と話しているだけでなにより楽しいんだから、そんなことは気にしなくていい。」

「直球過ぎない、照れるとか通り越してちょっと引く。私のこと好き過ぎでしょ。」

言いながらも、顔を背けてこちらを見ない。夜だからそもそも顔なんて自分の方を向いていようと確認できないけれど、きっと照れている。彼女は賢いが、複雑ではない。むしろ単純、素直で可愛い女の子なのだ。

「まあね。」

とはいえこんなキザなセリフ、夜の、顔が見えないような暗い場所でしか言えないようなセリフを放った自分の方もしっかり照れているので、ぶっきらぼうな返事になってしまい、その後はしばらく沈黙が続いた。

「わたし、夜が好き。夜に家の外に居る時間が好き。自由で、生きているって感じがして、好き。」

家の外。彼女は頭が良い。良過ぎるくらいに頭が良い。この村で起きるような日常茶飯事な問題は、彼女一人で総て解決できてしまうくらいに。子どもはおろか、大人も出る幕がない。だから、嫌われた。

出来過ぎている彼女。完璧に判断、行動できる彼女。人類が人工知能の万能さに驚異するように、その無制限の可能性を脅威と感じるように、間違わず、賢く、誰にでも平等で、優しい彼女は嫌われた。

自分はこの村に嫌気がさして都会に行くほどだから、かっこつけたがりなのだ。というか格好よくなりたい。この村同様矮小で、井の中の蛙ではあるものの、その中においてはとびきり大きい英雄願望を持っている自信がある。未だに人生どころか世界の主人公が自分だと思ってしまうときがあるほどの中二病だ。

「初めて夜に外に出た。17歳にもなるのに。なんかもったいなかったな。夜ってこんなに静かなんだな。」

「ふふ、でしょ?夜ってこんなに優しいんだよ。」

彼女は賢いだけではなく、可愛いだけでもなく、詩的でもあった。自分は彼女の理外の知性も、あざとい可愛さも、すべて好きだった。この村の退屈さを作っている要因のすべてが彼女には該当しない。この村の中にいながら、彼女はこの村の外にいるのだ。だから、自分は彼女のことなんか嫌いになれるわけがないのだ。

「さっきからその言い方、かなりの常習犯だな?」

「ばれちゃった?」

「悪い子だな。」

「ええ〜それほどでも〜。」

「いや、褒めてないけど。」

褒めていない。けれど、彼女にとっては「良い子」と褒められるよりも、「悪い子」と褒められる方が嬉しいのだろう。

「せっかくだからさ、お参りしていかない?」

「階段とか見えにくいし危ないだろ。それに決まりを破って参拝とか、バチが当たりそうじゃないか?」

「君って神様とか信じてないんでしょ?だったらだいじょうぶだいじょうぶ。」

「そういう問題じゃないだろ。それに、僕は信じていないけど、信じている人達に失礼だ。」

「ふーん。君のそういう真面目なところ、好きだけど。今はちょっと嫌い。空気読まない、生真面目、誠実野郎め。ぶーぶー。」

「褒めてない?」

彼女はきっと村の人達が嫌いだ。きっと信じている人達のことも嫌いだ。両者は同一人物達だから。

「まあ、いいよ。一人で行かせるのはもっと良くないし。」

それに、もっと一緒に居たいし。

「やった〜!優しい!この誠実野郎めこのこの〜!」

「バカにしてない?」

はしゃぐ彼女の声色はとても楽しげで、それがなんだかすごく白々しくて、きっとこれは、彼女なりの現実逃避なのだろうと思った。けれど、大好きな彼女に巻き込まれるなら本望だ。それに自分だって現実は好きじゃない。このまま二人で駆け落ちしたいくらいだ。

「じゃあ、行こっか。」

彼女はそういって鳥居をくぐり、階段を登る。自分は彼女の真後ろに陣取って、同じペースで階段を登る。万が一彼女が転んだ際、受け止められるようにだ。

「なんか真後ろに立たれるとぞわぞわする。隣にきてよ。」

「別にいいだろ。」

「よくない、きもい、隣きて。」

こいつ。人の善意を無視しやがって。そんなところも嫌いになれない。むしろ好きだ。でも彼女が死んだら世界で一番悲しむのは自分だから、彼女の後ろは譲らない。

「ちょっと無視しないでよ。聞いてんの?」

「聞いてる聞いてる、いいから歩け。」

「ばーか。」

夜は静かだ。鳥居は山の麓に建っている。村から山への入場門のような印象だ。階段は直線状に、山頂へと伸びている。山と言っても小高い山で、田舎育ちの健脚であれば問題ない。十分かかるかどうかだ。

階段の左右は鬱蒼とした森。風が草葉を揺らし、さわさわと、誰かが話しているようだ。まるで自分と彼女を噂しているかのようだった。

「着いた着いた。ちょっと疲れた。」

「僕も。今日は部活もあったし。」

「部活っていっても小一時間でしょ?」

「それでも夏だから暑いし、疲れてるもんは疲れてるんだよ。」

「ふーん。なら辞めちゃえばいいのに。図書室は涼しいよ?」

「ありがたいお誘いだけどパス。」

自分はサッカー部に入っている。田舎だけに土地だけは無駄に広いから、少人数の学校の癖にグラウンドにはプロの試合で使われるようなコートがある。部員は二チームに分かれても少し余るくらいで、民家に当てるわけにもいかないから野球部などは存在しないのもあって、学校の運動部はサッカー部と陸上部の二つしかない。

運動はあまり好きではないし、家でゲームをしている方が好きだが、やはり小さい社会だ。積極的に輪の中に入る努力をせずに良好な関係を得るというのもまた我儘な話であるから、仕方無しに所属している。

「雰囲気あるな。」

「そうだね。雰囲気ある。荘厳というか、なんというか、本当に神様がいそうだよね。」

「結構ちょろいんだな。」

「ちょっと、バカにしてるでしょ。」

「いや別に、そんなことはないけど?」

「かっこつけちゃって、こういう時は素直にすごーい!って感動しとくもんなの、分かったなら返事!」

「はいはいはいはい。」

「はいは一回!多過ぎ!」

「はい。」

「よろしい。」

実は自分も、階段を登りきった時に彼女と同じような感想を抱いていた。夜でもしっかりとそびえ立っている神社の堂々とした姿は、そのまま村人の持つ神への畏敬を表しているようだったからだ。ただ、それを認めるのも癪であったし、なにより彼女と他愛ない会話をしたかったので適当に返事をした。

「じゃあ、お参りしよっか。お金持ってきた?」

「一応。神社だし、お賽銭くらいはしないといけないとは思ってたし。」

「なんだ、最初から登る気満々だったんじゃん。素直じゃないな〜。」

「うるさい。あ、五円玉ない。」

「ご縁がないね〜。」

「やかましいわ。」

「じゃあ、ここはお姉さんが奢ってあげよう!感謝しろよ少年?」

「たった五円でそこまで威張れる人間を僕はお前以外に知らないよ。それに同い年だろ。なんだその唐突なキャラ付け。」

「お前呼ばわりしないでください。あと五円もバカにしないでください。時代が時代なら、五円だって大金だったんだからね?」

「今は平成だろ。」

「ふん。」

いじけた。まあ、プロレスのような会話だったから、彼女もこちらを本気で言い負かすつもりでは無かったのだろう。都合が悪くなるとすぐ知らんぷりをする悪役を演じるとは、中々皮肉的だ。

「二礼二拍手一礼だっけか。正しいやり方。」

「そうだよ。まあ、そもそもこの神社がどういう流れを汲んでいるか分からないけど、失礼にはならないでしょ。大事なのは気持ちだよ、気持ち。」

「そういうもんか。」

二礼二拍手一礼。その間に、神様にお願い事をする。普段から神様を信じていない自分が神頼みをすることは、なんだか無礼というか、それこそバチが当たりそうだったけれど、なにも頼まないというのもそれはそれで失礼にあたりそうだったので、小さいお願い事をした。

彼女が、幸せになりますように。

小さい小さい願い事。自分は彼女にとっての幸せがなにか分からないけれど、それでも彼女が幸せになるのが大変であっては欲しくない。簡単であって欲しい。だから、小さい願い事。というよりむしろ、祈りだ。

「君はなにを願ったのかな、少年。」

「そのキャラまだ続けるんだ。てか教えないぞ。教えたら叶わなくなるとかいうだろ。」

「君の方こそちょろいね。信じちゃって不安になっちゃって可愛いね。」

「すごいバカにしてるだろ。」

「なにを言うか、褒めてるんだよ。」

「お前は、なにを願ったんだ?」

「またお前呼ばわり。わたしと同じように君って呼ぶか、名前で呼ぶかにしてよ。」

「ただの口癖だ。」

「野蛮人め。」

「不快にさせたなら謝るけど、話を逸らそうって言ったってそうはいかないぞ。」

「なんだって。」

「わざとらしいな。だから、なにを願ったんだ?それとも言えないのか?じゃあ君だって信じちゃって不安になっちゃって可愛いじゃないか。」

「そういうわけじゃないよ。ただ、」

「ただ?」

「恥ずかしくって。」

「はあ?」

「はあ?とはなにさ。乙女の恥じらいだぞ。ありがたがりなよ。」

「自分で自分を乙女っていうやつはなんとやらだな。」

「はい意地悪。嫌いになっちゃうよ?」

「反省はしない。」

「まったくもう。」

この期に及んで願い事を教えようとしない。本気で嫌なのか、それともまさか、なにも願っていないのか?だとしたらちょっとかっこいいな。惚れ直しちゃいそうだ。

「じゃあ、帰るか。」

「え?あ、うん。帰ろう。」

二人で来た道を引き返す。階段を降る。行きとは違い今度は自分が前に陣取る。理由は同様、彼女が足を滑らせた時の為だ。

「隣りもーらい。」

「あっこら。」

「心配し過ぎ。なんならわたしが前でもいいんだぜ。」

かっこいいなおい。まあ、仕方がないか。ここで前を取り合ってしまえば転倒の危険性が高まって本末転倒だ。それに隣りも悪くない。

「ついでに利き手も貰っちゃうぜ。」

「言い方が物騒だな、あとその何々だぜってなんだよ。」

「照れんなよ。可愛いな。」

さりげなく手を繋がれてしまった。さっきから彼女がかっこいい。キザだ。夜の散歩でハイにでもなっているのだろうか。

「照れてない。」

「照れてる。」

「照れてないって。顔見えないだろ。」

「その言い方、照れてるって言っているようなものだぜ、少年。」

「もう喋り方がよく分からなくなっちゃってるじゃん。」

変な話し方を全部盛りにしたような彼女の口調が可笑しかった。

「ぐぅ、戸惑うならまだしも楽しまれると恥ずかしい。」

彼女のぐうの音が出た。

「そろそろ下に着くから、手を離そう。」

「別に誰も見てないからいいじゃん。」

「いくら外出禁止の時間だからって、見回りの大人くらいはいるだろ。ただ見つかるだけならまだしも、手を繋いでいるところなんて見られたら恥ずかしいだろ。」

「わたしとだから?」

「そうだよ。」

「そんな、ひどいよ。」

彼女はいきなり、震えた声で呟いた。しまった、失言だった。自分の意図するところは、好きな人と手を繋いでいるところを目撃されてしまうことに対する恥ずかしさであったが、彼女からすれば、それは、嫌われ者の自分と一緒にいるところを見られてしまうのが恥ずかしいという意味に感じてしまうかもしれない。

「いや、違う、お前だから嫌ってわけじゃなくて、いや、嫌なんだが、お前が恥ずかしいんじゃなくて、いや、恥ずかしいんだが、」

「焦り過ぎ。あと、お前って言い過ぎ。」

顔を手で覆う姿勢で立ち止まっていた彼女が急に普段通りの声でそう言った。

「騙したな。」

「素直で可愛いね。」

「お前な。」

「だから、お前って言い過ぎ。あと、わたしのこと好き過ぎ。」

「ぐぅ。」

今度は自分がぐうの音を出してしまった。

「わたしのお願い事、教えて欲しい?」

「言いたくないんじゃなかったのか?」

「いや、恥ずかしいだけで嫌ではないよ。それに君も今恥ずかしい思いをしたわけだし、おあいこにしてあげようと思ってね。優しいでしょ?」

自作自演というか、マッチポンプというか。まあ、教えてもらえるのなら教えてもらおう。

「じゃあ、知りたい。」

「いいよ。」

彼女はやけにすんなり快諾した。自分の予想では、言い方がなっていない。教えてくださいでしょ〜?とかそういう無駄なやり取りが数回挟まると思っていた。

彼女は沈黙している。本人曰く恥ずかしいらしいので、急かすのも良くないと思い、しばらく、帰りの階段の半分を少し過ぎたくらいのところで立ち止まって黙った。二人して黙ってしまった。

さわさわ、ぱきぱき、ぱきぱき、ざわざわ。

行きと同じく、森の話し声が聞こえる。やはり、自分達を噂しているようにしか聞こえない。それくらい、今この世界には自分と彼女しか居ないように感じた。

「この村を出たいって、お願いした。」

彼女は、ひどく暗い声で、唸るように、言った。

「わたしはこの村が窮屈で、息苦しくて、好きじゃない。お母さんもお父さんも、おじいちゃんもおばあちゃんも、お兄ちゃんもお姉ちゃんも、妹も弟も、学校のみんなも、この村のみんな、私のことが嫌いなのが、辛い。」

声は震えていない。好きじゃない、と彼女は言った。嫌いとは言わなかった。言えなかったのだろう。彼女の優しくて、臆病で、可愛いところだ。泣けばいいのに、他でもない自分の前で、心のままに泣いてくれたら、そういう気持ち悪い事を思考しながら、黙って聞き続ける。

「神様なんて信じてない。居るなら嫌い。でも、居るなら叶えて欲しい。それくらい望んだっていいと思わない?」

それくらい。それは、小さい願い事という意味か。ならば何故、君は神に願ったんだ。自分の祈りも同罪ではあるけれど、他に頼るべき人がいるじゃないか。他でもなく、頼るべき自分がいるじゃないか。

きっと彼女は、実現し得ないと悟っている。諦めている。賢いから、頭が良いから、一生、この暗い村から解放されない事を知ってしまっている。だから、ありえないからこそ、神に願ったんだろう。それはむしろ祈りというよりも、叫びだ。

「僕も神様を信じていない。居るとしたらとも思わない。だから、君の願い事を神様は叶えない。」

彼女は黙ったままだ。

「ひどいよ、って、言わないのか?」

「言わないよ。本当のことだから。」

冷たい声だ。真夏の夜だというのに、真冬の顔を引っぱたかれているような風を思わせる冷たさ。空気を吸い込んで肺の芯から体が冷えるような感覚になった。でも、言わなければならない。

「神は居ない。死んでもいない。多分最初から居ない。」

彼女の目があるであろう位置を、まっすぐ見据えて、続ける。

「けど、僕がいる。お前に較べたら頭も悪いし運動も出来ないし、何一つ勝てないけど、それでも傍にいる事は出来る。お前を傍に置くことはできる。僕が都会に行くなら、お前はその隣りにいる。お前が都会に出ていくならば、僕をお前の隣りに置いてくれ。」

「なにそれ。かっこつけすぎ。あと、わたしのこと、」

「好き過ぎだ。大好きだ。お前の全部が好きだ。」

「なにそれ。なにそれ。」

「返事を聞かせて欲しい。」

彼女もおそらく、自分の目があるであろう位置を見据えて、言う。

「そんなの、好きに決まってるじゃん。わたしだって、好き過ぎなくらい大好きだよ。」

「案外照れるな。すごい嬉しい。ありがとう。」

彼女は泣いている。ようやく泣いている。泣きながら、笑っている。それが可笑しくて、僕も笑ってしまう。

「ほんとはね、続きがあったんだ。」

「続きって、願い事に?」

「うん。ここから出してくださいって、君と一緒に。わたしに勝手に連れて行かせてくださいって。」

「本当に?」

「あっ、信じてないでしょ。」

「そりゃ出来過ぎだろうとは思うよ。」

「ばーか。」

どうしよう。すごく楽しい。このままずっと、永遠に彼女と話していたい。立ち止まっていたい。けど、それは駄目だ。帰らなければいけない。帰らなければ、次の出発ができない。第一、まだ日付は変わっていない頃だろうし、このまま朝まで夜に居るのは危ない気がする。

「帰ろう。」

「ヴン。」

「すごい不満そうだな。」

「当たり前でしょ。」

「当たり前だな。家まで送るよ。帰ろう。」

「淡白だなぁ。将来は亭主関白になりそう。」

「語呂だけで話すなよ。ならないよ。」

さっきまでは四本の指を束ねて無造作に手を繋いでいた。しかし、今は五指を絡めている。ちょっとだけ、変な気分になってしまっているというか、恋人が出来た勢いでハイになってしまっているのだろうか。

「着いたね。」

「着いたな。」

彼女と他愛ない話を続けているうちに、あっという間に麓に着いた。鳥居をくぐって、彼女の家に向かう。彼女の隣りを歩いて。

「携帯電話って便利だよねえ。」

「懐中電灯とまではいかないけど、便利だね。」

あぜ道だ。来た道とは違う、彼女と一緒に、彼女の家へ行く道。

かさかさ、ぱきぱき、ぱきぱき、がさがさ。

また森が話してい

おかしい。もう、周りは森ではない。確かに右側に神社がある山、左側に畑といった感じの、村の外周を歩いている状況であるので、森と言えば森ではあるが、僕の利き手の、右手。彼女が握っている、右手。僕の右側に居る彼女。その更に向こう側から、およそ四方が森でしか聞こえないくらいの大きい音が響いている。

「危ない!」

「えっ」

僕は咄嗟に、強引に彼女をこちらに引き寄せ、自分の体を前に出す。ここが階段でなくて良かった。

ざく

聞こえてきたのは、風が草葉を揺らす音でも、落ちた木の枝が軋む音でもなく、大きな爪が僕の肉を抉る音だった。

「熊だ。」

熊だった。いやいや、ここにきてようやく得心がいったというか、僕の退屈を加速させる要因の一つであった夜の外出禁止は、どうやら理にかなっていたようだ。理不尽ではなくむしろ、法。村人を守るための理であったようだ。

「え、えあ、あ、あ、あああ!!!」

「落ち着け、心配するな、大丈夫だ。一旦深呼吸をしろ。」

自分に言い聞かせるように、彼女を諭す。心配の必要はない。心配とはつまり、これからどうすればいいのかという不安からくる衝動だ。だから、本当に心配をする必要はないのだ。

なぜなら、獣の爪は、ぼくの、はらわたまで、とどいている。

「血が、血が出てる、死んじゃうよ!!」

彼女は後ろから自分に抱きついた。自分は立っていられるわけもなく、抱きつかれた衝撃のまま倒れ込む。

「嫌だ、嫌だよ!」

「うるさいな。」

本当にうるさい。泣いている。君に、そんなふうには泣いて欲しくないのに。まるで、授業で見た子殺しの皇帝の絵画のような体勢で、彼女は自分を抱いている。

「逃げろ。僕が時間を稼ぐ。」

「嫌だ!!絶対に嫌だ!!」

「分かってんだろ、お前は頭が良いんだから、僕が助からないことくらい分かるだろ。」

「だったら、だったらわたしもいっしょに」

「バカ言ってんじゃねえよ!!」

大声の出し過ぎで血が吹き出す。もちろん口ではなく、胸の穴から。

がさがさ、ざっざっ、ざっざっ、どすどす。

大声の出し過ぎだ。おかげで熊を刺激してしまった。初撃を終えて、尚「獲物」を確実に仕留めるために、様子を見ていた熊がこちらに近ずいてくる。熊の顔は暗くて見ることができない。熊の突進の際に弾け飛んだ携帯電話は遥か後ろの畑の上でうつ伏せになっている。だから熊の顔は見ることができない。

「バカじゃない!!バカ!!!」

暗闇から、暗闇よりも暗い何かが近付いて来る。深淵だ。覗くつもりもなければ覗くことだってできないこの暗闇の中、獣が嗅覚だけを頼りに獲物に近ずいて来る。

「逃げてくれ。頼む。」

バチが当たったのかもしれない。禁止された夜の外出。この獣は、禁忌を冒した二人の村人を罰するために山の神から遣わされたのかもしれない。これでは彼女が幸せになれない。幸せにすることも、出来ない。祈りは届かず、神は居るのか居ないのか理不尽なのか当然なのか、分からないままに死んでしまう。

「一緒に死ぬ。死ぬから。そしたら、」

そしたら、なんだ。

「そしたら、一緒にこの村から出れるもの。」

彼女の声は震えていない。死を前に錯乱したのかと、一瞬見損ないそうになったが、それも違うようだ。なんて愛が深い女なんだ。頭が悪い。完璧じゃない。最善でもなければ次善でもない。無駄だ。彼女の抵抗は徒労に終わる。けれど、僕を抱きしめる彼女の心臓は
強く鼓動していて、その生命力に、温かさに、僕は眠たくなってしまう。

「目を閉じちゃだめ!!!」

「僕を死なせたいとか死なせたくないのかどっちなんだよ。」

「死なせたくないに決まってるでしょ。死なせない!!!」

彼女だけは、生き延びて欲しい。逃げ延びて欲しい。けれどもう指一本ピクリとも動かない。もう自分の体は死んでいるのかもしれない。意識だけが魂となってこの惨状を眺めているのかもしれない。

熊がくる。立ち上がる。大きいな。かっこいい。

しゃりん、しゃりん。

遠くで、二回、鈴の音が聞こえた。

熊が後ずさる。立ち上がったまま。確か熊は鈴の音が苦手なんだったか。いつかテレビの番組で、登山者が熊対策に鈴を携帯しているのを見たことがある。突然の音というのも相まって、熊は驚いたようだ。

「今の、聞こえた?」

「ぉぅ。」

かすれ声、というか死んじゃうから喋らせないで欲しい。けれど、指一本を動かすことは出来なくとも喉を震わす程度の命は残っているようだ。

「あの鈴の音、あの神社の。」

そう、彼女の言うとおり、たった今聞こえた二回分の鈴の音は間違いなく、先ほど参拝した神社の鈴だ。夜中だし、正式な参拝でもないし、なんだか大きな音を出すのは憚られると思い鳴らさなかった鈴の音が、この村中に響き渡る程の大きな音を立てて鳴った。それにしたって鳴り過ぎだ。いくら神社の鈴が大きいからといってこんな大きな音、鳴らないだろう。

がさがさ、ざっざっ、ざっざっ、ざっざっ。

少しの時間稼ぎにはなったようだが、冷静さを取り戻した獣は再びこちらへと行進を始める。二足歩行で、ゆっくりと。しかし、おそらく、この獣は神の遣いではないだろう。ただの獣だ。ただの熊だ。

「良かった。」

「何が良かったのさ。今から死んじゃうんだよ、わたし達。」

静かな声で僕たちは話す。

「今まで君が、熊と出遭わなくてよかった。そしたら守れなかったから。」

「なにそれ。」

彼女は可笑しそうに、乾いた声で続けた。

「わたしのこと、好き過ぎ。」

本望だ。そもそも人間一人に出来ることには限りがある。僕も、彼女も、精一杯生きた。一緒にこの村を出れるなら、一緒に死ねるなら、情けないけど、本望だ。なんて。

「いや、」

絞り出す。もうとっくに死んだ体を無理矢理に蘇らせて、絞り出す。震え声でも鳴き声でもなく、大声を。僕が、彼女を助けるために。これは神から与えられた試練だ。チャンスだ。ならば、乗り越えるべきは、先ほどの鈴の音。

ぷるぷるぷる、ぷるぷるぷる、ぷるぷるぷる

これは今聞こえた音ではない。今「も」鳴っている音だ。鈴の音が聞こえる前から、鈴の音が聞こえた後まで。

きっとあの鈴の音は、神が起こした奇跡なのだろう。この土壇場で、僕は神を信じることにした。

「あ、ああ、あああ」

しかしそれは、救いを求めるためでは無い。神頼みでもない。祈りでもない。これは、叫びだ。

「ああああ!!!!ここだああ!!!!!!」

残った命を全て燃やして、あの福音を凌駕するほどの大きな音を出した。きっと、僕の叫びはこの村を越えて、世界中に響き渡るだろう。そう確信できるほど、部活でも出したことの無いくらい、人生でいちばんの大声だった。

ざっざっざっざっざっざっざっざっ

獣も恐らく勘づいているだろう。この「獲物」は、諦めてはいないと。生き延びようとしているどころか、むしろ、この自分を「殺す」算段までもを用意していると。この大声は、断末魔ではなく、号令。人が獣を殺すための勝鬨であると、言葉を持たぬまま本能で理解している。

ざっざっざっざっざっざっざっざっ

だから、先程までのように一歩一歩慎重に様子を伺うような事はしない。一秒でも速く、この「敵」を、殺さなければならない。二足歩行のまま、それでいて、全速力で、獣は、津波のように、覆い被さるように敵に爪を立てる。恐怖を断つために、命を絶つために。

しかし今回は、その刃は僕には届かない。

がちり。

遠くで撃鉄が起こされた。しかし神より近い距離で。

どかん。

大砲のように大きい音が鳴った。しかし大砲に撃鉄などない。だから、分かる。これは銃だ。鉄砲だ。それも、鳩一羽殺すことできないただの豆鉄砲とは違う、本物の、人が獣を殺すための銃。この田舎で僕が唯一誇れる父の銃。

「夜は外に出るなと言っただろう。」

人生最後に聞く言葉が親からの説教だなんて、なんだか色気も味気もなくて不満だが、満足だ。彼女を救えた。それだけで、満足だ。

そうして僕は、死んだ。





ここからは答え合わせの時間だ。熊の初撃にはたきおとされ、うつ伏せになった携帯は、ライトが上側のまま停止した。しかし、自分にはその携帯が鳴らす音が聞こえていた。電話の呼び出し音だ。そこで恐らく、今夜の見回り当番が父で、しかも出発の際に無断外出がバレてしまったであろう事を確信した。

父はひとまず見回りをしながら息子を探すだろう。だから、自分達が獣に食い殺される前に父が到着するかどうか、これはそういう勝負だと理解した。しかし、一手足りない。父に居場所を伝える術はなかった。

そして奇跡は起きた。福音の鈴。この異常の奇跡を見逃す父では無い。おそらく、父はひとまず息子の捜索を放棄してでも神社に向かうだろう。そしてその通り道には、自分達がいる。

鳴らし続けられている携帯。父は獣よりも鋭い野生の勘で、この異常事態に息子が関わっていることまでもを察知したのだろう。だとすれば、息子の捜索を放棄してもいないのだろう。

それを確信し、残された気力、体力、生命力の全てを燃やし尽くして叫んだ。ぼんやりと薄く光る携帯が映し出す蜃気楼のような獣の輪郭。しかし、偉大なる父にはそれで十分だった。位置を把握し、撃鉄を起こし、撃つ。そうして彼女は助かった。

彼女達は、助かった。

あれ?彼女、達?







「あれ?」

目を覚ますと、知らない天井だった。というか、さっきまで見ていたいやに説明口調な夢があまりにも間抜けであったので、起き抜け第一声も間抜けになってしまった。

「え、起きてる?生きてる?本当に生きてる?」

そんな自分の間抜けな声で目覚めたのか、座ったまま部屋の壁に寄りかかって眠っていた彼女が、間抜けな質問を投げかけてくる。

「どうだろう。生きてるのかな。」

「生きてるよ。わたしも君も。生きてるよ。本当に、生きてる。」

「とりあえず、お医者さん呼ぼう。」

胸にはぎっちりと包帯が巻いてあった。胸にぽっかりと空いた穴の感覚がない。おそらく塞がっているのだろう。そして、冷静になった頭で周りを見渡すと、ここが病室である事も分かった。それも都会の病院の。

目覚めたのは正午過ぎ、呼び出してすぐに医者が病室まですっ飛んできた。説明によると、とりあえず峠は越えて、ひとまず命に別状はないとのこと。しかし、今後一切激しい運動はできなくなるとのことだった。

そして夕方頃になると遅れて母がすっ飛んできた。父もすっ飛んできている最中らしい。自分が生きていることに泣いて喜んでくれて、なんだかこちらまで泣きそうになってしまった。ちなみに隣りにいた彼女は泣いていた。

熊の危険性から夜に外出禁止をしていたこと。そもそもそれをしっかり子供に伝えていなかった親の責任や、そうした因習とも言える村の空気感、そして自分の運動禁止。そういった事もあって僕は都会に引っ越すことになった。

母と父は村に残るそうだが、父は獣の皮やらで工芸品を作る仕事をしているため、金銭的には問題なく、さらに今まで親に渡していたアルバイトの給料の一部はいつかの自分の独り立ちの為に保管しておいてくれていたらしく、新生活の元手として有難く頂いた。学費等は親が面倒を見続けてくれるらしく、自分は今までより少しだけアルバイトを増やすくらいで生活の質を全く落とさずに済みそうだった。

その辺は田舎にしては寛容な親であるので感謝している。

こうして自分の一人暮らしは、かなりスムーズに開始した、のだが。

「一人暮らしじゃないだろ、少年。」

変な喋り方のやつが家にいる。

「お前が勝手に住み着いているだけだろ、お嬢ちゃん。」

「むっ、いいでしょ、別に。わたしだってバイトでお金入れてるし、高校だって特待生で無料だし。」

そう。正確には一人暮らしではなく二人暮らし。同棲だ。もちろん自分としては結婚を前提に考えている。

「でも、まさかあっさり許可が出るなんてな。」

「思ったより嫌われてたみたい。それも通り越して、無関心みたいな。ラッキーだね。」

今日は珍しく、二人の学校やらアルバイトやらの休日が被ったので、ゆっくり優雅に朝食をとっている。ちなみに食事は当番制で、今日は自分が作った洋風の朝食だ。

「ごちそうさまでした。美味しかった!」

「お粗末様でした。そりゃ良かったよ。」

食後のコーヒーを済ませた後、自分達はベランダで風に当たっていた。

「本格的に寒くなってきたねえ〜。顔を引っぱたかれてるみたい。」

「そうだなぁ。」

明日から十一月が始まる。あの夏のことは一生忘れることはない。あの村を、あの過去を忘れることはできない。けれどこれからは隣りに彼女がいる。彼女の隣りには僕がいる。

「ねえ。」

賢くて、可愛くて、詩的な彼女は、悪戯なわざとらしい笑顔でキザなセリフを吐いた。

「神様って、信じる?」

陽の光が差している。ベランダはおろか、リビングにも影は一つとして見当たらない。もう顔を隠すことはできないけど、僕もキザなセリフを吐くことにする。

「多分、居ないよ。居ても要らない。」

「なんで?」

「これからは、隣りでずっと、僕が守るから。」

「ばーかばーか。ほんと、ばかだよ。」

「馬鹿って言い過ぎだよお前、あと、」

「お前って言いすぎだよきみ、あと、」

「「僕/わたしのこと好き過ぎ。」」

ごく普通の一般人の、ごく普通なスリル。もう二度と絶体絶命なんて味わいたくないけれど、確かにあれは、非日常で、僕は、あの世界の主人公だった。