人生の中で、どうしてもどうにもならない時はある。
そんな時は、正しく状況を分析した上で、
どうもしないという選択が有効な場合がある。
状況、環境、そうしたものが作り上げる逆境は、
時という激流によって移り変わる流動性のあるものであるからだ。
どうもしない自分を恥じるべきでは無い。
胸を張って何事かを放棄すべき瞬間はある。
選択は慎重に、それでいて大胆に。
そして、できるだけ格好つけましょう。
どうか、その貴方だけの選択が、いつか未来の貴方の背中を押しますように。
風が強い場所だった。
私の故郷は何の変哲もない港町で、有名な物も人も無くて、退屈なだけの場所だった。同じような人と同じような毎日を過ごすだけ。誕生日や大晦日を何度繰り返したところで、自分の中身はひとつも成長していないかもしれない不安が常にあった。
そんな町が嫌で、両手の指で数えきれる程度の同級生と高校を卒業した後、私は逃げるように上京した。
東京は都会だった。テレビで憧れていた風景ばかりで、自分も何かの物語の登場人物になれたような気がした。場所が変われば全てが変わるんだと、就いたばかりの仕事に精を出し続けた。
結局、何も変わらなかった。どれだけ人が多くとも、大切にできる人なんてたかが両手の指で数えきれる程度のもので。それは他人も同じことで、誰かの特別になる事はどこに居たって難しい。
毎朝毎晩、電車の中も交差点の中も会社の中も、動く壁のような人だかりに押し潰されそうだった。こんなことなら東京になんて来なければよかったと何度も思った。
風が強い日だった。
なんとかはろー警報かなにかが出ているようで、朝起きたら窓がガタガタと揺れていた。この暴風雨ではさすがに会社も学校も全部休みのようで、当然ながら外には誰も居なかった。
何を思ったのか、傘もささずに外に出た。退屈から逃げてきたはずなのに、結局また同じような毎日に囚われている。逃げたかったのかもしれない。ずぶ濡れになって、張り付いたようなシャツは、私の全身を気色悪く凍えさせた。
このままどこかへ行ってしまおうか、どこへ行けるというんだろうか、精々徒歩五分の最寄り駅くらいだろうか。そんな事を考えながら歩いていたら、風が吹いた。
台風だというのに、特に際立って強い風が吹いた。そのまま体がぶわりと持ち上げられ、そのまま投げ飛ばされてしまいそうな、そんな懐かしい風が吹いた。
肌がベタつくような、髪がめちゃくちゃになるような風。港町の強い潮風。そういえば、あの風も嫌いだった。
今、私の背中を強く押しているこの風はどこから吹いているのだろうか。もしかしたらこの風は、あの遠い故郷と繋がっているんじゃないだろうか。
同じような、同じような毎日。
同じような風が背中を押す。
風に押されて街を出て、行き場がないまま今も風に押されている。
こんなに強い風だから、きっとどこまでも吹いていけるだろう。そしてどこまで吹いても、どこかと繋がっているのだろう。
たまには、風に逆らってみるのもいいかもしれない。
一歩も前に進めないくらい強い風に立ち向かいながら、息もできないくらい強い風に喘ぎながら、それがなんだか可笑しくて、大声を出しながら家に帰った。
人を愛すべしと、そう育てられてきた。
人の生命は尊くその人生は眩しいのだと、そう教えられてきた。
愛を注ぐという表現がある。初めてそれを知った時
私はなんとなく水瓶を傾ける自分の姿を想像した。
注ぐなら注がれる相手もいるものだ。
注いだら注いだ分だけ、水瓶からは愛がなくなる。
別に奪られただとか、そんなことは思わない。
きっとなにもしなくとも少しずつ気化してしまっていただろうから。
ただ、ひたすら水瓶を傾け続けた。
愛をそそぐとは、愛をささぐということらしい。
少しずつ私の中から何かが無くなっていく。
はじめに、自分が好きではなくなってしまった。
つぎに、友人を尊敬できなくなってしまった。
最後には、誰かに憧れる事すら忘れてしまった。
人に愛されるべしと、そう育てられてはこなかった。
己の生命は尊くその人生は輝くべきだと、そう教えられてもこなかった。
いっそのこと水瓶を割ってしまえばいいと、何度考えた事だろう。
欠片になることが出来たなら、どれだけ楽になれるだろう。
水瓶ひとつじゃ足りない程に、注ぎ続けてきた。
湧き上がる愛情では到底まかなえない量の愛情を。
けれど、この水瓶が空になることは無かった。
気付かぬうちに、知らぬうちに。
はたまた目を逸らしているうちに。
注がれた何かがあるから。
部屋の片隅で生きている。
暗くなったら隠れるように起きて、明るくなったら逃げるように寝る。そんな生活。
カーテンを閉め切って真っ暗になった部屋の中で、唯一、パソコンの光だけを頼りに今日もネットサーフィンをする。
外には出ない。いじめられたとか、怖い目にあったとかそんな特別なことはない。ただなんとなく面倒くさくなって、いつのまにか取り返しがつかなくなっていた。
毎日毎日、同じような毎日。みんなが生きている一日分の頑張りに、私の何日分を差し出せば対等になるのだろう。
部屋の片隅。社会の端っこ。でも、私の世界の中心。
いつかこのカーテンを開く時が来る。
いつかこの部屋の外に出て、広くて明るくて怖い世界を生きていかなくてはいけない時が来る。
そんないつかを想いながら、でも今日はまだ怖いからこの世界の中心でうずくまりながら息をしている。
逆さま。そんな言葉が似合う女の子だった。
小柄な躯からは考えられない程、苛烈な性格だった。
自分が辛い時は他人に優しくする。絵に書いた主人公のようだった。
周りが言い難いことは自分から言い出し、周りが解決出来ることには手を出さない。まるで、その存在感と裏腹に、自分が居なくてもいい世界を良しとしているような、そんな態度でもあった。
普通じゃない。普通じゃない優しさを持っているからこそ、彼女が普通じゃないなにかを抱えていることは周りの皆もうっすらと理解していた。勿論、僕もだ。そしてそんな彼女に惹かれているのはやはり、僕だけでもなかった。人気者だったのだ。
棺桶に入っている彼女は、もう逆さまではない。頭も足も、どちらがどちらか分からない。分かることは、まっ逆さまに落ちたらしい、ということだけだった。
他人を助けるだけ助けて、何も求めず死んでいった。原因は家庭環境のせいらしい。でも、死なせたのは僕のせいだ。助けてもらっておいて、その恩を返そうとはしなかった。いつか、未来で返そうと思っていたから。当たり前のように彼女と一緒にいる未来を考えていたけれど、どうやらそれも彼女にとっては、僕にとっても逆さまだったみたいだった。
葬式を終えて、独りの帰り道。彼女の顔と声を思い浮かべながら、夕焼けに染められた赤い紅い、赫い道を歩いている。僕では彼女を助けられなかったのだろうかとか、そもそも助けるなんて考え方をしている時点で彼女との未来は有り得なかったのかとか、もしものことばかりを考える。
最初から最後まで逆さまだった彼女。きっと彼女にとって、生きるよりも死ぬほうが幸せだったのかもしれない。もしくは、幸せを望まないから死んだのかもしれない。
どちらかは分からないけれど願わくば、前者であってほしいなと意味も分からないことを考えながら、意味も分かりたくないことを考えながら僕は歩き続けた。