はっぴいー はろういんっ! 妻の声が華やいでいる。
再会からもうすぐ二月。常ならむ姿で笑い合う部下たちを見ていると、我々に起きた身の上の変化など、まるで夢でも見ていたかのようだ。
『奥方様も狐の面が欲しいそうですよ。』
天狗が微笑みながら徳利を差し出す。
各々考えた衣装を見せ合い、一頻りあれこれ批評したりじゃれ合ったり。狙い通り、妻は大層喜んでくれたようだ。
祭りの慣例に倣い、彼女は我々の畑で収穫した南瓜を蒸したり焼いたり潰したりして拵えた菓子を振る舞ってくれている。肴になるようにと、皮の金平も。忙しくしていて衣装を仕込む暇がなかったのが残念なようだ。
『…あれには日向の方が似合うさ。』
幽霊も一つ目小僧も雪女も、妻の菓子を頬張って笑い合っている。手懐けられている。日を浴びて育ったものを、日向の笑みを称えた女に与えられて。
思えば、いつしか農民の暮らしを徴する税の増減でしか見なくなっていたのかもしれない。しかし何度戦が起こって踏みつけられても、それが終わって荒れ地へ放たれても、消して絶えることがないのは彼らの営み。
…そう今の、我々の生き方だ。
朧な雲から月が顔を出す。もう、お前を厭う理由もないね。
これからは酒を嗜む口実になったり、妻の肌を照らしたりしておくれよ。
金平と盃を天狗に譲って縁を離れる。妻が両手で持った饅頭の大皿から一つ取って頬張った。
やっぱり南瓜餡だ。甘いね、美味しいよ。
でもお前、配ってばかりで食べていないんじゃないかい?
南瓜の甘みの残る口で、弧を描く唇に素早く吸い付く。
えっ、だか、はっ、だかいう声が起こり、一つ目の面はくすくす言ってひらひらと揺れていた。
まん丸な目と口と、真っ赤な頬を隠すように狐の面を掛けてやる。…耳の赤いのは隠れないね、ごめんよ。
【理想郷】
数ヶ月前に拾った女芸人は城内の者たちにもよく馴染んだ。一国の城主相手に真っ向、契約書による制約なぞ求めてきた面白いやつだ。弁が立ち、化粧や衣装で姿もくるくる変えて見せるので実に楽しい。
『あれを奥に迎えるとしたら何とする?』
室の膝へ寝転びながら問うてみると、随分お気に召したのですね、とはぐらかされた。澄まして見せておるが、平素と違い視線は合わない。拗ねておる。
美しい面を下から見つめていれば、暫くして、微かな吐息とともに言葉が降ってきた。
―――殿のお望みとあらば、不自由はさせません、と。
…愛いやつめ。儂があれに情がある訳無かろうが。
そもそも奥の事はそなたの領分、儂一人の望みをごり押すことでもない。
指で頬を撫で、あやしてやる。黒く大きな瞳が睫毛の影を落として此方を見た。戸惑いと悲しみが溜息に乗って届く。
そう剥れるな。儂が側室にと口にした時、あやつが何と言ったか教えてやろう。
『あのお美しい御方様から目移りするような殿方は御免被ると、けんもほろろであったわ。』
まあ、と室は複雑な顔をした。…が、儂が笑えば揃ってくつくつと笑い出す。
よしよし、それで良い。そもそもあれを留め置くのは、そなたを笑わせるためよ。儂が口説けと命じた男が、殊の外手こずっておるゆえな。
ならば私が口説きましょうかと、悪戯な微笑みで室が言う。
少年の姿で側に置いたら楽しそうです、などと言い出したゆえ苦笑した。ことに依っては浮気であろう?
『儂を裏切れば死ぞ。』
室は愉快そうに、まあ怖い、とまた笑った。
【もう一つの物語】
灯火が消えた。部屋に二人、肌を触れ合わせている。
色っぽい雰囲気なら……いやせめて、彼女の髪を撫でて優しい言葉を掛けてやっていたら…どんなに良かったか!
私のしたことは逆だった。彼女を押し倒し馬乗りになって、細い首に手を掛ける。言え、と低い声で圧をかけた。
『何故、他人のために毒なぞ飲んだ。』
周りの目を欺き由緒ある家から出奔しようとした何処ぞの姫の替え玉となり、その死を偽装するために。
毒に耐性があるから意識不明で済んだ。とはいえ耐性を付けるためには、長い時間をかけて毒を体になじませなくてはならない。私だけでなく部下たちも、体調を崩しがちな女に負担をかけないよう、滋養のあるものを食べさせ休養を十分に取らせ気を配ってきた。それなのにその不調が、日頃の服毒の結果だというのは許し難い。
姫様の…と私の下で女が呟く。許嫁は母君と通じていた、父君はそれを知っていて嫁がせようとしていたんだ、と。
不遇……否、それは確かに不幸だろう。
だが、だからといって、なぜ君が。女は表情を消し、淡々と言葉を続ける。
母と疎遠で、父に見捨てられ、恋も知らない
友は離れて行き、ただ生き延びるために、毒に親しむ
そういう少女を救いたかった
かつての自分を、その孤独を救いたかった―――と。
虚ろな目が閉じる。私が暴いた女の秘密、その全て。
……灯火が消えた。
闇の中で軽い体を抱き起こし、そのままその背を掻き抱く。
そうか。もういいよ、何も言わないで。
…ごめんね。いつもの君の屈託ない笑顔が、こんな寂しい覚悟の上に貼り付いていたなんて知らなかった。
腕の中の髪を撫でる。彼女は人形の様に脱力して、抱き返してはくれなかった。どうかもうしないで、と願い縋る心を叱咤する。髪の中から柔らかい耳を探り出し、指で撫でながら唇を寄せた。
【暗がりの中で】
『出来たらそのまま客へ出してくれ!』
給仕姿の同級生が怒鳴る。満員御礼、外には行列。彼を始め接客の担当者は卓の間を息つく間もなく動いている。
しかしその状況で、厨が暇なわけがない。
どうして俺が給仕なんか!!!と怒鳴り返すと、男性客に大人気の麗しい顔を歪めた " 男 " が、
『お前の " もりもり!生ショートケーキ " をご注文だ。
一回くらいお客様の顔を見ろ!』
と吐き捨てた。別の厨担当者に、どうせ聞かんからとっとと行け!と言われ、考える間も惜しくなり手に付いた生クリームを拭う。混雑を縫って辿り着いた卓で、思いも寄らない顔を見た。ひらり、と手を振られる。
『やあ。』
くっ、くく……!!!!思わず叫びそうになり既で堪える。仮にも客と店員だ。なんで此処に? 関係が良いわけではない俺達が総出で居ると知っているはずなのに。
『……っ、お待たせいたしました。』
感情を押し殺し皿を持ち直した時、二度目の驚きが襲った。
こいつ、女連れ!!!
フォークをとり、ほらおあがりよ、と一口分のケーキを女に差し出す奴を見て、いい気なもんだと驚き怒り呆れを同時に飲み込む。ごゆっくり、と呟いて最速で厨に戻った。
…それしかなかった。俺は忙しいんだ!
殺気立つ厨に戻ってほっと息をつく。再びホイップに戻ろうとした時、爽やかな香りと共にぽんっと肩に手が置かれた。
『お前の卓だそうだ…頼んだ。』
また俺なのかよ!!!!!
【紅茶の香り】
不思議な話を聞いた。ここ最近、上司の上司(つまり我々の長)は人の話に不思議な返しをするらしい。
否、然して是、と。
飄々としてはいるが、普段曖昧な物言いはしない方だ。上司が妙に思い聞き返したところ、更に妙な反応だったらしい。罰の悪い顔で照れていた、と。
『おおかたあの女(ひと)絡みだろう。』
付き合いの長い上司が言うならそうなのだろう。
それっきり忘れていたその話を思い出したのは今日の午後、野外訓練の帰り道でのことだ。色付き始めた山の木々に、西陽がかかって輝いていて、思った時には言葉にしていた。
きれいですね!と。
『そうでもないが、そうだね。』
あっと声に出し、慌てて口を塞ぐ。長は私の顔をしばらく見つめ、ついにお前にまでばれたか、と呟いた。
お前に " まで " とはなんですか。別に気にしていなかったが、そんな言い方をされては気になる。バレたのが最後なら答えを聞いたって良いだろう。しばらく言い渋った後、上司は言った。ちょっとした "あいことば " だ、と。
『 " 美しい " と言うのは、見目麗しいことじゃないそうだ。』
彼の女(ひと)曰く、美しいということは、
生きる歓びを知り、迷いがなく、誇り高いこと。
…あの女(ひと)は、焼け爛れてしまったこの方を美しい、と呼んだのだろうか。そうに違いない。だから答えは、
" ちがう そして その通り " 。
なんだか悔しい。…鼻の奥がつんと痛い。
『全く嫌味だよねぇ。あんな綺麗な娘に言われてもさ。』
言葉とは裏腹に長の目は微笑んでいた。
…帰ったら上司に教えてやろう。
あの人、泣いてしまうかもしれないけれど。
【愛言葉】