午後の陽射しが校舎を撫でてゆく。
部活動に励む生徒たちの掛け声や、教室に残ってお喋りに興じる女生徒たちの声がさざめいて流れていく。
昨日、かつての学友から電話があった。彼の息子が、この学校へ進学が決まったそうだ。
数年前、家に招かれ初めて合った時、穴が空くほど私の顔を見つめながら、懸命に話しかけてきた男の子。
今生で出会うよりずっと以前から変わらない、生真面目で礼儀正しく、頑固な性質(たち)を見せられて、くらりと目眩がしたものだ。
『あの子が学校に来るんですか?』
電話を切ってすぐに委細を話すと、妻の声は華やいだ。嬉しいのだろう。私だって、それは嬉しい。心から。しかし…
戸惑う気持ちを拭い切れない。
再び縁を繋ぐことは、果たして、あれにとって良いことだろうか?ただひたすらに、一途に、誰かに身を尽くすような人生を繰り返させる羽目になるとしたら?
その夜、不安を吐露する私の声を、妻は静かに聞いていてくれた。
開け放った教室で動画を撮っている男子生徒たちへ向けて、立てた親指を背後へ振る。 " は、や、く、か、え、れ "
舌を出しながら教室を出て行く彼らから、罪のない忍び笑いが漏れていた。
あれはもう、彼らと大差ない身体つきになったろう。そう思うとふと、あの夜の妻の言葉が思い出された。
『……良いじゃないですか。あの子の決めたことならば。』
互いの肩書が少し変わっただけで、大切な事は変わりません、と笑う妻の顔は眩しかった。
……そうか。そうだな。お前の言う通りだよ。
あれは元々、一度決めたら梃子でも動かない男だった。
ふっと息が漏れる。憂いの去った空は、黄昏に燃えていた。
【放課後】
淡い光がゆれている。朝が来ているのだ。
微睡みの中で、それまで見ていた夢がぼやけてゆく。
『――んおにいさまー!』
『おだてな――も、わた―がはらう――』
目覚めると、ぺらぺらの薄いカーテンが朝日に透けていた。いつも通りの平日の朝。支度をし、急いで出勤すると、隣の席から、いつもの声が掛かった。おはよう。
『おはようございます。』
今日も先輩より遅れてしまった。気まずくて謝罪をしたら、先輩はうふふ、と笑う。いいよ。私、近いの。と言って。
優しくて、明るくて、いい人だ。入社してからずっと、その印象は変わらない。何度目だったか部署の飲み会で、嫌な事とかストレスが溜まったらどうしているんですか、と聞いたことがある。先輩は目を細めて笑い、
『夢で素敵な男の子に会って癒やしてもらうの。』
と言っていた。はぐらかされたのだと思う。
そう言えば、揺れる光の中に居る夢は、入社して今の部屋に住み始めてから見るようになった。いつもぼやけている、でも優しい、多分、いい夢。
先輩のキーボードが軽快な音を立てる。どうしてか、にやりとした悪戯な笑顔を見、自分をからかう明るい笑い声を聞いたような気がして、その横顔から慌てて目を逸らした。
…そんな姿は、見たことがない筈なのに。
まだ人も疎らなオフィスの窓越しに、淡い光がゆれている。
先輩の目尻が濡れたように光っている。
……働こう。
よく働いてたくさん稼いで、いつか、ご飯を奢ると言ったら彼女は頷いてくれるだろうか。
【カーテン】
奥女中の一人が、あの娘(こ)に縋って泣いていた。
はて、他の者なら好いた男を奪い合った末の修羅場にみえなくもない。が、あの娘(こ)に限っては無い話だ。
それに何だか様子がおかしい。
『おお、遂にやりおった!』
城主の覗きに付き合わされている状況もおかしい。
女中は涙に暮れて座り込み、あの娘(こ)の袴を掴んで顔を埋めている。十中八九は目を逸らす有り様なのに、この殿は何をやってるの?
『あの女中は近々、誰ぞに呉れてやるゆえ心配するな。』
近侍が数人やって来て女中の肩を支え、その内一人があの娘(こ)に付き添って去っていった。
残るは訳知り顔の殿ばかり。恐れながらと説明を求めると、知らんのか?と束の間呆れ、にたり、と人の悪い笑みを浮かべる。
『あの女中、あやつに懸想して一夜の情けを求めておったのよ。』
えっ?! 抱いてくれって?!?!?!
女人が、女の子に? イヤイヤ奥ではそういう事もあるとは知っているし、あの娘(こ)はいかにも男装の麗人という風だけれども!!!!!
薔薇は薔薇は気高く……いや百合か、などと混乱しながら急いで詰め所へ戻り、部下に報連相を問い質す。
面の皮の厚い(面一枚分!)部下は、まさかご存知ないとはと素っ惚け、
『恋敵に不自由はしませんぞ。腕の見せ所ですな。』
と、宣った。冗談じゃないよ!!!!!
【涙の理由】
自分の事を情けない、なんて思うのはもう嫌だ。
一角の…とまでは言わないけど、誰の目にも恥ずかしくない男になりたい。傷だらけになっても僅かな銭を投げるように施される日々で、よくそんな事を思ったなぁ。
土の上に大の字で転がって、碌でもないあの頃を思い出す。
『今日は終いだ。』
着ているものを洗っておけよ、だって。
上司ってものは容赦がない。キビシイ。毎日ボロボロくたくたになるまで鍛錬鍛錬、出来なきゃ死ぬぞなんて何度言われたっけ?
でも、決めちゃったしなぁ、この人についてくって。
初めて、自分で。
顔に冷たいものが触れて、唇がビリッとした。目を開けると白い手拭い。あと、白い、細い手。
えっ、やだなぁ。そんな心配そうな顔しないでよ。
『…ありがと。』 うわ俺、声ガッラガラ!!!
少なくとも今は、よっぽどまともだ。毎日扱かれて死に体なのも自分だけじゃないし、傷を作れば可愛い女の子が診てくれるし。…たまに、二人だけでお団子でも食べに行きたいなぁ、なんて夢も見られる。
日陰者には違いないけど、まだヘボだけど、まともな人間に成れたような気がしてる。だんだん嬉しくなってきて、笑ったらまた唇がビリビリいって泣き笑い。
ごめん、手拭い汚しちゃって。 …え? 君のじゃないの?
『あいつ、本気で辛い時ほどヘラヘラしやがる。』
上司が…あの人がぁ? 言ってたって?
……だめじゃん、俺!!!
まともどころじゃない、一角の男にならないと!!!
とっておきの、秘密兵器の、バッチリ決まった、懐刀の、…
とにかく、右腕にならないと!!!!!
今までずっと触れずにいた手をぎゅっと握って飛び起きた。
【ココロオドル】
弓を引く。繰り返し、繰り返し。
幼い内に身に付けたことは、長く自分を助けてくれる、とは父の言だ。その通りだったと改めて思う。
『精が出るね。』
振り返り、声の主に一礼。すぐに気付く。憂いの気配。
あの女はまだ目覚めぬらしい。
数刻前、あれは死装束に解いた髪、死人の顔色で担ぎ込まれた。死んだ、と思った。ぐにゃりとした体を抱き抱え、医師を呼ばわる獣じみた光る眼を見るまで。
上司は、手持ち無沙汰な様子で縁側に腰掛けた。眼は平素の落ち着きを取り戻していたが、視線は力なく、肩は落ちている。親しい者にしか気付けぬ程の変化。
おそらく、付き切りの看護をできる人間からあぶれてしまったのだろう。元来我々の仕事は、性質(たち)が違うから仕方がない。…仕方ない、が。
できることが、ない。その苦しみを知っている。
この方がかつて生死の間にあった時、私はどっち付かずの若造で、側で世話をすることも仕事を肩代わりすることも、他の何も、何も、できなかった。
持っていた弓を差し出す。その場凌ぎの、稚拙な気休めに。
上司は目を見開き、少し笑って手を揺らした。気を遣うな、と言うように。
『お前の事はいつでも、頼もしいと思っているよ。』
いいえ、わたしは、あのひから、
いつだって、これしか、おもいつかないのです。
妬み嫉み羨みは、不思議とない。
代わりに、堪らない切なさが胸から吹き出した。
おい、馬鹿女。解っているのか。
この方に想われていることを。私に認められていることを。
その幸甚を。
やり場のない感情は矢尻の形を取り、巻藁を強く貫いた。
【力を込めて】