ふと目覚めた。そして眠っていたと気付いた。
上がってきた部下からの報告書に目を通したのは覚えている。取り纏めて明朝一番に上司へ届けるつもりだった。
『こんな所で寝て、お前。仕事熱心も大概だよ。』
その上司が背後に居るものだから、思わずびくりと体が跳ねる。文机に肘をぶつけた。
自分相手に気配を殺しきれる者はそう居ないが、その一人が直属の上司なのだからタチが悪い。
まあ、そうでなくては、別の意味で頭が痛いに違いないが。
『いいよいいよ。仕事は終えてくれたんだし。』
お疲れさま。貰っていくね、と件の報告書を揺らして立ち上がり、出て行きながら言葉を次いだ。
『あ、そうそう。先刻お前の家に使いを遣ってね。』
久方ぶりに父と会えると、子供たちが喜んでいる頃だよ。
告げられた突然の休暇に再度驚き、慌ててその背中を呼び止める。振り向いた上司の目は、緩く弧を描いていた。
『頑張ったらね、その分ご褒美が有るものらしい。』
私も欲しいから、邪魔をするんじゃないよ。
そう言って今度こそ、彼は去っていった。
今まですっかり忘れていた、うたた寝の夢の断片が蘇る。
大切な御方。もう会えない人。
あの上司が甘えることを許されたであろう、最後の人。
幼かったあの頃のように、あの子に口添えしご褒美を呉れる女(ひと)が居るのです、と彼の人へ伝えたい。
…いや、次は必ず伝えよう。きっと死ぬまで繰り返し、夢で会うだろうから。
ごゆっくり!と、見送ってくれた部下の笑顔を背に家路につく。上司がその恋人へするように、早く帰って妻の髪の香を吸いたい。
【過ぎた日を想う】
向き合っていた書面から顔を上げると、眉間が皺を刻み目の疲れを訴える。
夜が本領の身とは言え、最近はすっかり昼の人となった。
数日前に行われた月見の宴を思い出す。
秋の訪れを感じさせる落ち着いた設えを手前に、煌煌と照り輝く満月。その姿は、十分に日を浴びて実った果実にも似て、今にも果汁が滴り落ちるかと見えたものだ。
しかし酒が入れば常ならむ、と言おうか。
次第に、酔いにまかせた歌声と合いの手、笑い声の轟く飲み騒ぎとなっていった。
そんな様子を、どうかお笑いください、としたためた所だったのだ。
首を数回傾けて解すと、夜風にあたりながら目を休めようと部屋を出る。
月は既に傾き、星が輝いていた。
貴女は眠っているだろう、と、不意に意識が語りかける。
自分の文に間を空けず、律儀に返事をくれる貴女は。
思えばあの日も、同じ人を想っていた。
中秋の名月ともなれば、きっと彼女も見上げていただろう。
けれど。
その健やかな眠りを守る星、瞳と髪に照り映える陽。
その下に同じく自分も居る事を思えば、全ては等しく特別な事象。
そこまで思いを巡らせて、頭を一つ振り考えるのを止めた。
文に込めるべき思いを、空へ馳せていても意味がない。
一度、強く目を閉じ、また開いた。
星は変わらず輝いている。
文机の上のものを書き上げて、朝には馬借へ託さなければ。
貴女と同じ夜の中で、少しでも長く眠りたい。
【星座】
異国の男女、異国の旋律。
その中で彼女は異国の言葉で歌い、踊っている。
『友よ、忘れないで』という詩だと言う。
郷里へと帰りゆく一団を送るには、ふさわしいと思った。
『何だか、あちらの人のようですね。』
傍らで部下がぽつりと呟く。
何の隔たりもないというのに、我等は一歩も動けない。
当たり前に調子を合わせ、楽の音に体を揺らし、同じ詩を口遊む人々。咲き綻ぶような笑顔の女。
何処にもつけ入る隙は無い。
『邪魔をするのは野暮だよ。』
割って入る理由も手立ても思い付かないしね。
細く長くため息をつく。
深入りせず油断なく冷静に見極めを、だなんて口にしたのは誰だったやら。
今や躍起になって、その自由を縛り囲い込む始末。
わかっていたつもりだった。
君はいつでも、何処へでも、
この手の及ばぬ、遠くへでも行ってしまえる。
それこそ山でも海でも越えて。
今の私は、それがとっても気に入らないよ。
穴よ空けよとばかりに見つめる。
ほんのちらりと、目配せの一つくらい呉れてもいいのに。
そうしたら、ほんの少しは、大目に見たのに。
もう、無理だ。ああ、駄目だね。腹は決まった。
旅立つ日など、来させはしない。
ここに居て、君を見ている。私の気が済むまで。
たとえ朽ちるまでだとしても。
それを忘れさせはしない。
ふぉうぎぶ、みーまい、ふれんど。あんだすたん。
【踊りませんか?】
『良い話だと思うよ。』
此処の住心地は悪くないでしょ、と男は続ける。
この地に留まり我らが主に仕えよ、と。
根無し草の身に、こんな機会はきっと二度と訪れない。
それでも女は静かに目を伏せ、浮かない顔をした。
『長く留まれば煩わされるよ。』
良い事は起こらない。今までずっとそうだった、と。
『そうなったら、言ってくれ。』
私に。そら見たことか、と。
苦虫を噛んだ顔を見せてあげるよ、と男は言った。
『君に居てほしいんだ。』
困ったように眉尻を下げる。
『せめてもう半年……契約更新には同意して。』
少しの沈黙の後、女も同じ顔で微笑んだ。
烏が呆れたように鳴き飛び立つ。
じきに遥か向こうの森の影と同化するのだろう。
『随分、日が短くなった。』
夕陽は沈みきっていた。
夜の帳に押し返されながら、僅かな残り火をこちらに差し出している。『今』に縋るように。
鳥は去り、風は流れ、黄昏は、止められない。
それでも細い糸を千切れぬように手繰りながら、男はそれを解き解す猶予が僅かばかりできたことに安堵した。
『もう半分の季節も、きっと悪くないよ』
君に、ここに居たいと思ってもらう事になるから。
濃く伸びていた二人の影は、もう夜闇に溶けてなくなっていた。
【たそがれ】