《観察日記》
(刀剣乱舞/鶯丸)
「今日も大包平は馬鹿やってるなぁ」
鶯丸は、本丸中に響き渡る大包平の声を聞いて、一口お茶を飲み、サラサラとノートに何かを書く。
そのノートは大包平の観察日記である。
もちろん大包平本人は知らない。知れば取り上げるだろうから隠しているのだ。
中身は大包平が天下五剣に挑もうとしてただとか、戦で誉を取っただとか、馬当番に苦戦してたとか。
そんな大包平のことを観察しては書き留める事が、鶯丸は茶を飲むことの次に好きなのだ。
《向かい合わせの己》
(刀剣乱舞/地蔵行平)
地蔵行平という刀剣男士は、腰元に2振りの"己"がある。
一振は常日頃振るう打刀。
もう一振は抜刀出来ぬよう、紐で結ばれた太刀。
その刀について、とある本丸の審神者が一度尋ねたことがあった。
「何故、抜けぬ太刀を持って顕現したのか」
地蔵行平は、「気付けば太刀を吊るしたまま顕現していたのだが....」と前置きをしつつ、続けてこう答えた。
「この太刀は、いわばもうひとつの吾なのだろう。
向かい合わせで吾の中に住むモノの形なのだと思う」
明確な答えではない。しかし審神者にとってはその言葉だけでも十分な答えになった。
それは、《地蔵菩薩と閻魔大王が同一視されること》である。
複数の地蔵行平の存在の示唆の可能性もある。
が、2振りだけではなかったはず。
ならば答えは 地蔵菩薩そのものになろうとする彼の中に、
死者の善悪の裁きを下す閻魔の姿も内包されているということでは無いだろうか。
(あの時代の刀は、皆 大蛇(オロチ)と言ったのは誰だったか....)
地蔵と閻魔。対極の姿を与えられてなお、全てを救わんともがきながら生きるのが、地蔵行平なのだろう。
《この手が届かないこと》
(刀剣男士/平野藤四郎)
平野藤四郎は正しく"忠臣"という短刀で、
実戦より警護を得意としているが、弱い訳では無い。
短刀ならではの機動力と間合いがあるからこそ、守れるものがある。
けれども守れるのはこの腕が届く範囲だけだ。
打刀や太刀のような背丈があれば守れるもの、遠ざけられるものがあるのに、短刀の小さな背丈では足りない時もある。
それを痛感した時、平野藤四郎は己の不甲斐なさや
この姿に対して、やるせない気持ちになるのだ。
《あの海にもう一度》
(刀剣乱舞/千代金丸)
とある本丸は二十四節気に合わせて景趣を変えるだけでなく、刀剣男士の要望で景趣を変えることがある。
ある夏の暑い日。近侍の千代金丸が、審神者へ頼み事をしてきた。
「景趣を海の見えるものにさせてくれないか?」
聞くと、この前浦島虎徹と話した時に沖縄の海が恋しくなったらしい。
審神者はその願いに応え、景趣を【展望の間・海辺】に変更した。
千代金丸のように綺麗な青水色の海面と、心が安らぐ波の音が聞こえる景趣。
千代金丸は景趣の海辺を見ると、
「琉球の海も、こんな眩しい色で。こんな匂いがしていたなぁ....」と呟いた。
けれどもこの海は所詮は幻で、作り物。
本物の沖縄の海にはなれない。
いつか千代金丸も治金丸も北谷菜切も連れて
あの美しい海を一緒に見れる日が来る事を願い、
今は仮初の海を3振りに見せるのだ。
《裏返しの言葉》
(刀剣乱舞/鯰尾藤四郎)
「俺の名前は鯰尾藤四郎。燃えて記憶が一部ないけど、過去なんか振り返ってやりませんよ!」
明るく真っ直ぐな性格。
世話焼きで実に脇差らしい刀剣男士。
けれどもやはり彼は失われた記憶がどうしてもひっかかっていたと知ったのは、修行へ旅立った後に送られてきた手紙だった。
そして3通目で、かつての主・豊臣秀頼に出くわしたあと
記憶を取り戻したと綴られていた。
燃える大坂城とその中で死する秀頼と、何も出来ず燃えてゆくかつての自分を。
それでも前を向き。今の主のために刃を振るう。
それが極めた鯰尾藤四郎なのだ。
「大坂まで行って、記憶を取り戻してきた鯰尾藤四郎。
記憶が戻ってきたからって、過去は過去。俺は今をしっかり歩むだけだ!」
もう、その言葉に裏はない。