ああ、世界の端っこは
どんな匂いがするのだろう
ねぇ、あの雲の高さなら
この暑さも嘘なのかな
この道はどこまでいったなら
突き当たりに出会うだろう
なあ、この空の青色は
どこから藍に染まるかな
心は世界の端っこへ
退屈な日々は雲の向こうへ
遥かなどこかの岬を
この道の果てを夢想する
もう心地よい日常は食べ飽きた
飽き性ですまないね
お上品な日常も、
鉛色の心臓も、
なにもかも、この身体ごと全て、
第三宇宙速度で投げ出そう。
さあ、ゲテモノのフルコースを。
高く、高く、
遠く、遠く、
この世界の外まで、
神の目すら逃れるほど遠くへ、
僕を連れ去ってくれ。
(冒険)
この世には、頃合いをみて手放すべきものと、醜くとも手放してはならないもの、惜しくとも時に手放すべきもの、そして、そもそも持たざるべきもの、つまり手に入れてしまったならすぐにでも手放すべきものがある。
頃合いをみて手放すべきものとは、快楽の為の道楽である。醜くとも手放してはならないものは、自尊心や傲慢さである。惜しくとも時に手放すべきものは、物質的な財産である。そして、そもそも持たざるべきものとは、他人への期待である。
他人への期待ほど質の悪いものはない。そして、ここでの他人とは真の意味での他人、つまり自分以外の全ての人間であり、家族や親友、命の恩人すらこれに含む。それは、己を醜くし、破滅の色を滲ませるだけで、何の益にもならないからだ。
三島由紀夫「金閣寺」より
"小刻みにゆく塩垂れた帯の背を眺めながら、母を殊更醜くしているものは何だと私は考えた。母を醜くしているのは、・・・・・・それは希望だった。湿った淡紅色の、たえず痒みを与える、この世の何ものにも負けない、汚れた皮膚に巣喰っている頑固な皮癬のような希望、不治の希望であった。"
(手放す勇気)
上腕二頭筋が痙攣する。
この悲しみと怒りと、不安と、絶望と、苛立ちと、哀しみが混ざって、
胸骨の下、横隔膜の上、心臓の表面あたりから競り上がってくるもの、
感情になる前の何か、泣きたくなる何か、
これがたぶん、きっと孤毒だ。
泣きたい。
泣いてしまえれば、流してしまえるのに。
生温い、鈍色の、鉛のように重たい涙に、
溶けて流れてくれるのに。
毒を飲み込む。
(孤毒)
今日という日にはやはり
あの日の話をしなければならないと思うのですけれど
僕は当時はまだ七つか八つで
それもテレビで見ていただけでしたから
何だか大変なことが起こったとは思いつつも
それがどれほどかということがあまりわかっていませんでした。
この頃はようやくこの日付も日常に馴染んできた気がしますが
これを復興の証ととるか記憶の風化ととるかは
やはり当事者か否かで大きく変わってくるのだろうと思います。
さて、暗い話をするつもりもないので
好きな音楽というか、曲の話を少しさせてください。
キミナシビジョンという曲があります。
これはあの日、大切な人を失った恐らく思春期の青年の曲なのですが
この曲の歌詞の一節が好きなのです。
明日の天気予報は晴れのち大雨です
僕は外に出ませんので関係ないですけど
今から君に会いに眠りにつきますから
あの雲と雲の隙間だけは開けておいて下さい
奇遇にも今日は雨でしたから
ちょうどこの青年のことを思い浮かべたという具合であります。
夕方の天気予報では
明日は春の陽気ということで
今晩にも雲は晴れるやもしれません。
もしその雲の隙間から星が覗くなら
それはきっと「君」に違いないでしょう。
亡くなった人はみんな、お星さまになるんだよ、と
僕らはそう教わりましたから。
(星)
鴨川沿いを歩いて下る。
日は暮れ泥んで、
日陰は、その領域を拡げていく。
修道院やら幼稚園やらの影が
河川敷を呑み込んでいって、
やがてその影は
病棟やアパートの影と一体になっていく。
一刻ごとに拡がる日陰は、
まるでひとつのケモノのように、
しかして全く無機質に、
やがて川面の煌めきすらも呑み干していく。
そうして残されたわずかな日向にも
ついには日陰が染み出していって、
とうとうひとつの世界を成した。
ところで今宵は新月であって、
この世界で煌めくものは
今やもはや寒空に浮かぶ
寂しげな金星だけである。
しかしながら
この削ぎ落とされた世界に残った金星の
何と気高く美しいことか。
この夜という世界では
たったその金星の表だけが
唯一の日向なのだ。
あんな輝きが我が手にあれば、
あるいはその一片でも
我が人生が抱擁するというなら、
きっとそれを
幸せと呼ぶに違いない。
(日陰)