やさしい雨音
雨は嫌いだ。服は濡れるし、じめじめするし、湿気が多くて、どことなく気持ち悪い。それなのに、さっきまで晴れていた空には、どんよりとした雲が覆い被さって、あっという間に雨模様となってしまった。明日は出かけようか、と昨日君と話していたはずなのに、今は二人で窓際のテーブルに座って雨を眺めている。
「結構降ってるわねえ」
「何で降るかなあ。出かけたかったのに」
「いいじゃない、雨は好きよ私」
「なんで?」
君は僕の問いには答えず、ただ静かに外を見ていた。
「ほら、聞こえるでしょう」
「?」
「雨の音。ちゃんと聞くと、結構面白いのよ。地面がアスファルトだったら硬い音がするし、水辺だったら水が跳ねる音がする。トタン屋根だったら、すごくうるさい」
へえ、と相槌を打った。確かに、雨の音なんて気にしたこともなかった。
「ああ、でも傘に落ちる雨の音は好きだな。聞いてると楽しくなる」
「ええ」
「あと、雨の匂いも好きだ。独特な匂いだけど」
考えてみると、雨も意外と悪くないな、なんて。
君は嬉しそうな顔で、笑っていた。
「嫌って思うより、好きだな、って思うことを見つけた方が、きっと楽よ」
うん、と頷いて、窓の外を眺めた。庭は土の地面で、三本の木と、いくつか低木も植えている。
耳を澄ますと、天から降り注ぐ水が地面に染み込んでいく様な、やさしい雨音がした。
光輝け、暗闇で
夜空にちらちらと瞬く星々を見ていた。山の端が黒く縁取られて、星空だけが絵画のように鮮やかだった。山の澄んだ空気に、街中では見えない細かな星もはっきりとしている。君は隣で望遠鏡を覗き込んでいた。
週末。地元で有名な、星の綺麗な高原に来ていた。私を誘った彼は自前の本格的な望遠鏡を担いできたので驚いた。彼は星が好きなのだ。
「綺麗だね」
もう何度言ったかわからない言葉を口にのせた。彼はうんざりすることもなく、うんと頷いてくれる。何気ない言葉に同意してくれる人がいるというのは、心地いいものなのだ。日付が変わって少し経った頃、ここに着いて、もう数時間経っただろうか。流れ星は、後半夜に見やすいと聞いて来たのに、残念ながらまだ一つもお目にかかれてはいない。
「あれは、さそり座」
星座に疎い私に、彼は空を手でなぞりながら教えてくれた。名も無い星の集まりだった空に、段々と星座が頭のなかに描かれて形取られていくのが、不思議だった。そして、彼の語り口が、本当に楽しそうなのだ。黒の深い彼の瞳に、星空が浮かんでいるようにも見えた。
その瞳の黒が溶け込んだような空の端が、だんだんと白々と霞んでくる。あんなに煌めいていた星々はあっという間に色を失って、その影は深まっていく。登ってくる朝日が恨めしかった。
「今だけは、朝が来なければいいのに」
「うん、そうかもね」
彼の反応が薄かったのに視線を向けると、彼の目は薄れゆく星に細められていた。
「星は、消える訳じゃない。暗闇だからこそ、星は綺麗なんだ。昼でも、光り続ける。ただ、僕らの目には見えないだけで」
そうか、と私は頷いた。手を伸ばしてまだ明るい一等星をそっとなぞった。
夜が明ける。朝焼けが、薄れゆく星を指した手を茜色に染めた。
酸素
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
百年前の夏目漱石ですら、こんな風に言っていたのだから、往々にして世の中そう変わらないものである。とにかく、この世は生きにくい。でも、私が世渡り下手なだけかもしれない。
子供の頃の方がもっと世界は鮮やかだったと、今ではしみじみ思う。度の低いレンズから高いレンズに変えた時のように、今では、よりくっきりと、見たいものも見たくないものも見える視力を得てしまった。解像度の低いままの方が、世界はきっと綺麗だった。
子供の頃で思い出したのは、地球温暖化が叫ばれてもう何年経ったかな、ということだった。物心ついた頃から温暖化、温暖化と学ばされていた気がする。二酸化炭素は増え続けて、酸素は、どうなのだろう。そちらの方面に明るくないから分からない。あの頃から地球は変わっただろうか。
息がしずらい、と思う。息の苦しい場所が、段々と増えて来たように思う。その場所に止まったままでは、不要な二酸化炭素ばかり増え続けて、必要な酸素ばかりが消費されていく。風通しが必要なのだ。どこか遠くへ行きたい。出来れば、酸素一杯の森の中とか。でも、それは難しいだろうから、少しでも、息のしやすい場所へ行きたいと願う。生きるために必要な酸素を求めて。
未来への船
宇宙船地球号。燃料はいつまで持つのだろう。未来へはいけるのだろうか。
静かなる森へ
荒涼とした峻厳な森に、気付けば私は迷い込んでいた。幾重にも重なる茂った葉に光は遮られ、行く道の先は酷く冥冥として、恐ろしいほどに静かである。どうして私がこの森にやって来たのか、おおよそ見当はついている。其れは私の罪深さの所為であろう。太陽の黙するこの森で私は恐ろしさに震えていた。
幸いにも、道のりの中途、ある御方に出会った。
「どうか、そこのお方。お助け下さい」
かの人は助けを求めた私に優しげに微笑むと、掠れた声で、私について来なさい、と言った。私はこの森の奥、その先へ行くべきだという。彼は私を導く先達であり、聡明で博識であった。美しく端正な面に微笑を浮かべ、師は私を導いた。
「ついておいで。恐れずとも良い。お前の行先は祝福されているのだから」
「どうしてそう言い切れるのです」
「私はある御方に命を受けてお前を導きに来たのだ。そのお方はお前の愛した御方だよ」
嗚呼、と溜息が漏れる。彼女の美しい目を思い出した。天を流れる星を閉じ込めたかのような、美しい目。
「ああ、なんて情け深い御方であったことだろう。私は貴女に会いたい」
「その為に、お前はこの先を進むのだ」
師の言葉に陰鬱な森を見渡すと、先の情熱の花が萎んでいくかのように恐ろしさが体のうちに湧き上がって来た。師は私の恐れを感じ取ったのか、情愛に富んだ目で此方を見つめた。
「私がお前についているのだから、安心なさい。お前はこの先にある、見るべきものを見なければならないのだから」
師は私の手を取り、優しく握り締めた。その温もりに、不思議と力が湧いてくる。
師に手を引かれ、私は漸く森深くへ進んで行った。
「先生、この先には何があるのですか」
「この先は、憂の国だ。罪深き人が未来永劫、此処に苦しんでいる。一度入ったものは、もう二度と戻れない」
「私の罪はどうなるのです」
「あの御方に会えば分かるだろう」
しばらく歩くと門が見えて来た。永遠で満ちていた世界に初めて創造された、地獄の門。
「さあ、行こう」
優しい師の目配せに、私は頷いた。
Lasciate ogne speranza, voi ch'intrate.
───迷いは捨てた。ただ進むのみ。
迷走しました。なにこれ。