桜
川沿いの桜の下に寝そべっている彼の着物の裾に、はらりと花弁が一つ落ちた。私も隣に座って、桜の散るのをただ眺めている。彼は目を開いて、小さく笑った。
「まさか、今日来てくれるとは思わなかったなあ。いつも誘っても来ないから」
「ほら、もう散ってきてるでしょう。そろそろ見納めやから」
「会いに来てくれたわけではないの」
「桜を見にきたのよ」
散りゆく桜は美しい。見納めと言ったのも間違いではないかしら、と思った。
「もうすぐやったね」
「ええ」
私ももう大人になる。親に告げられた許婚と、最近また顔を合わせた。桜の様に、私も身じまいの時が近づいていた。
「散ってしまうのは惜しいなあ」
「落花の風情とも言いますやないの」
目の前をひらひらと桃色の花弁が舞い落ちていく。
「君への僕の想いも、散ってしまうやろか」
「散ってしまった方がいいわ」
「花が落ちたら、水も流れてくれればいいのに」
「…口が上手やねえ。軽薄なのよ、貴方は」
「つれないなあ」
へらり、と笑う彼の声は低くて綺麗だ。
桜は刹那を生きるから綺麗なのだろう。散るからこそ終わりがあるからこそ美しい。では、私は…?
「また来年も、一緒に見られるやろか」
「さあ…」
きっと難しいだろう。口には出せなかった。
春のやわらかな風がただ二人の間を吹き抜けては、桜の花をまた散らしていった。
古都
春風とともに
柔らかな春の眠りから覚めて、少し肌寒い明け方の中、寝床から起き上がった。日はまだ登ったばかりで、窓から見える山の端はしらじらと春霞にぼやけている。散歩にでも行こうかと思い立ち、身支度をして外に出た。
朝が好きだ。一日の中で一等好きな時間かもしれない。
朝の澄んだ空気を吸い込む。少し冷たくて、鼻の奥がつんとする。人も草木もまだ起きていない様で、本当に静かだ。物哀しく、寂しく、ほんの少し泣きたくなる様な感じがするのが、好きだ。
田んぼのあぜ道を歩く。ぬるい春の風が頬を滑っていく。道端に咲く名も知らぬ野花を風は静かに揺らしていった。山も未だ眠っている。花は蕾の中で静かに春を待ち、鳥は巣で身を寄せ合い眠りについているのだろう。風はきっと、彼らを見て来たのだと思う。春の訪れを運び、その中で暮らすあまねくものたちを、柔らかく祝福してやったのだろうと。
春風とともに運ばれて来るものは、春の息吹なのだろうかと、ふと思った。
帰路に着く頃には、日は上り切って、朝が訪れていた。春の盛りまで、あともう少しだろう。
涙
「ほら、泣かないで」
転んでしまって泣きじゃくる子供を、お母さんであろう女性が優しく慰めている。まだ幼くおぼつかない足取りながら、その子は立ち上がって再び歩き出した。
公園のベンチで辺りを眺めながら、ぼんやりと待ちぼうけをしている。その子供は再び元気に駆けずり回っていた。微笑ましいと思うと同時に、酷く羨ましいと思う。
泣くことは子供の本分だろう。子供はまだいい、でも大人が泣くのは、いただけない。泣くのはみっともない、と言う。泣くのを我慢するのが美徳なのか。枕を濡らして眠る、と言うけれど、一人の時ぐらいしか泣いてはいけないのか。だとしたら、なんて寂しい。
「あ、」
泣いていた事などけろっと忘れて、はしゃいでいたあの子供がまた転んでしまった。再びの大泣き。お母さんも慌てて駆け寄る。
「馬鹿な子ねえ」
お母さんは今度は「泣かないで」とは言わなかった。ただ、優しく抱きしめては、頭を撫でていた。
その子供が、泣きながらも酷く嬉しそうにはにかんだのを見た。
人前で泣く事は恥ずかしい事かもしれない。それでも、涙は勝手に出てくるものだ。人がいようがいまいが。そして、出来ればその涙を拭ってくれる人がそばに居ればどれだけ良いだろう。
日が少し傾く。あの子供は帰ってしまって、公園は静かだった。遠くから、人影が歩いてくるのが見える。
「ごめん、待った?」
待ち合わせ時間丁度。此方が早すぎただけの事だから、ううん、と首を振る。
「良かった。行こう」
歩き出すその背中を見る。もし、この人が泣いてしまった時、その涙を拭える人になれれば良いなと思った。
春爛漫
祖父母の家の近くに、桜の綺麗な場所がある。こじんまりとした校舎と校庭の周りを、ぐるりと囲うように桜が植えられている。小学校だったらしい。今はもう廃校になっている。
春休み、よく母や妹と散歩がてらお花見に行ったのを覚えている。校庭の中に入ると視界一杯が桜に彩られて、毎年此処に来ると、今年も春が来たと感じた。
古くはなっていたが、幾つか遊具もあって、妹と遊んだ。昔の子供達も、この遊具で遊んで、この桜の花を見ていたのかと思うと、感慨深いものがある。
よく、日本の桜はどれも同じ遺伝子を持っていて、日本全国の桜は同じだ、と聞くけれど、遠い昔の人々とも同じ花を見ていると思うと、より一層綺麗に目に映った。
七色
昼下がり、人気のない神社の社の軒下で少年は雨宿りをしている。突然降り出した空模様を窺っていると、張り出た軒から落ちた大きな雨の雫が睫毛を掠めて、慌てて目を瞑った。
「ごめん、遅くなった」
雨垂れの中からふいに声がした。いつの間にか、白い単衣に赤い耳飾りの少年が欄干に静かに立っている。大丈夫だよ、と返すともう一人の少年は生憎の雨だね、と耳飾りを揺らしながら空を仰いだ。
二人は友人で、よくこの神社で遊んでいる。赤い耳飾りの少年には此処でしか会えないから、神社以外の遊び場所を彼らは知らない。
少年は揺れる耳飾りを見つめた。この子は不思議な子だ。会いに来れば大抵はこの子はいるけれど、たまにふらっと何処かへ行ってしまう。居なくなったと思えばすぐに戻ってくることもあるし、二、三日全く姿が見えないこともある。掴みどころが無くて、ふいに消えてしまいそうな感じがする。でも、この子と此処で遊ぶこの時間が少年は何よりも好きだった。今日はすぐに現れてくれたみたいだ。
「これじゃ遊べないね」
「大丈夫、もうすぐ止むよ」
その言葉通りにだんだんと雨足が弱まり、直ぐに雨は止んだ。
「そうだ、待たせたお詫びに良いものを見せよう」
耳飾りの少年は空を見上げた。それにつられて見上げると、雲間から薄日が差し込み、神社を淡く照らし出した。ずっと見ていたけれど、だんだんと晴れていくばかりで特に何も起きない。
「何も見えないよ」
「あれ、…虹を出したんだけど」
虹?虹なんて何処にも見えない。
「ああ、間違えた。ここがふもとなんだ」
「ふもと?」
「そう。ここが虹の端。この神社から虹が出てる」
「…それは凄いけど、ここからじゃ見えない」
それもそうだ、なんて間の抜けた返事を返された。ごめんね、と謝られたが、虹が見えなくて少年は寂しかった。
「虹を見るには角度が必要だからね。ある程度の距離が必要なんだ。近すぎると見えなくなるから」
よく分からなくて少年は首を傾げた。この子はたまに難しい事を言う。
「離れてみるくらいがちょうど良い。いつか分かる様になるよ」
少年がそう言うなら、きっとそうなのだろう。
「そんなことより、せっかく晴れたんだ。遊ぼう」
二人は雨上がりの中、陽の光の中へ走り出した。