海に引き寄せられるように、誰もいない駅で降りていた。
夜の海は、果てしなく深い色が広がっていて、冷たい潮風と共に心地よい音を運んでくる。
裸足で浜辺を歩く。誘われるようにして海へと入っていった足は、冷たい水に拐われていくようだった。
つう、と頬を伝った涙は皮肉にも暖かくて、余計な思い出まで連れてくる。……ちがう。余計な思い出、なんて意地を張れるほど今の私は強くない。
淡くて、儚くて、手繰り寄せたら消えてしまいそうな思い出をそっと胸に抱いて、夜の海でひとり、泣いていた。
なんで私より先に死んでんだよ、ばか。
私が生きる意味またなくなっちゃったじゃんか。
私の自殺阻止しといて、最後まで責任もってよ。
どうせなら一緒に死にたかった。
夜の海に吸い込まれていく。
前のときとちがうのは、こんなにも涙が溢れるということ。
大嫌いだ、ばか。
でも、ありがとう。
最後の涙は冷たい夜の海に溶けていった。
─夜の海─ #34
走るのに疲れたら、速度を落とせばいい。
ときには楽して自転車に乗るのもいいかもしれない。
でも、決して止まって下を向いてはいけない。
いつも私たちの周りは美しいものであふれている。
苦しくなったら周りを見回せばいい。
それでもう少しだけ生きてみようと思える。
人の生とはそんな単純なものだったりする。
─自転車に乗って─ ♯33
泣けなかった。笑えなかった。
今日も俺は鏡を壊す。自分を壊す。
エイソプトロフォビア。言い換えると、鏡恐怖症。俺がなった原因は分からない。
たぶん募りに募っていた苛々のせいだ。
鏡を壊しても病気だから仕方ない、と。
無条件で鏡を壊していい世界は俺にとって素晴らしいものだった。
パリンッ
心地よい音と共にぴりっとガラスが刺さった快感が走る。
それと同時に俺のなかでなにか壊れていく。
もっともっと。
もっと壊れていけ。
最初から狂っていたのは、俺のほうか。
はたまた、世界のほうか。
きっと誰もが心の奥底で眠らせている。
世界の綻びは今日も広がるばかりだ。
─心の健康─ #32
「あと、どのくらい弾けるかわからない」
嘲笑とともに吐き出す。
「あと、どれくらいきみに逢えるかわからないんだっ」
声を上げて泣いた俺に、ピアノの少女はそっと微笑んで音を弾けさせていく。
大丈夫だよ、とでも言われている気分だった。
ピアノを弾いているとき彼女はいつも不思議と隣にやってきていつの間にか一緒に弾いているのだ。
きみの奏でる音楽は繊細で透き通ってて清涼感のある夏を連想させた。
もうぜんぶぜんぶ忘れて今だけはこの時間に浸っていよう。この命が尽きるまで、きみと。
─君の奏でる音楽─ #31
夏はきらいだ。
どうしたってあの夏のことを、麦わらの彼女のことを、思い出してしまうから。
事故だった。
公園に行く予定だった彼女は、行く途中で赤信号の歩道に飛び出してしまった。
だから麦わら帽子を見ると苦しくなる。
俺がしっかりしていればと何度も悔やんだ。
夏は罪悪感で潰されそうになる。
…ああ、なんであの夏きちんと前を見ていなかったんだろう。
きちんと周りを見ていたら、あの子をはねることもなかったのに。
俺が滅多に運転をしない理由はこんなとこだ。
─麦わら帽子─ #30