あるまじろまんじろう

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10/8/2023, 1:55:34 PM

 背もたれによりかかり、天井に腕をのばすと、ぐっと伸びて、そのまま脱力して息を吐いた。かすかな眠気を感じ、目頭を揉んで、今度は鼻で深く呼吸をした。
大きな仕事を終えた達成感に浸ったまま、久しぶりに仕事を思い出さずにすみそうな翌日に思いをはせる。昼までゆっくり寝て、自炊をして、家で長たらしく休みを堪能する自身を想像してみる。一先ず、緩んでいた脳を切り換えて、再びパソコンに向かった。机の隅に放置されていたスマホの、液晶画面がパッと光り、目についたのは上司からのメッセージを知らせる表示だった。



束の間の休息

10/7/2023, 11:37:12 AM

 朝、アトリエで筆を握り、キャンバスに色をのせたヨネが、
「あ」
とかすかな叫び声をあげた。 
「失敗した?」
 間違えたところに塗ってしまったのか、と思った。
「いいえ」
ヨネは何事もなかったように、賑やかに色づいたパレットから新たに色をとり、ゆるりとキャンバスに筆をのせた。ゆるり、という形容はヨネの場合、決して誇張ではない。極まって活動的で、はつらつたるヨネは、こうしてキャンバスに描きだす時だけは気だるそうに振る舞う。ヨネは左手に筆を握ったまま、右手の指で小さな唇をふにふに触った。何か考えているとき、無意識に行う癖だ。ヨネは、ゆったりとした足取りでキャンバスから離れ、遠くから絵をながめ、またゆったりと戻ってきては色をのせた。
「もうすぐ完成?」
 キャンバスを覗き込む。ヨネはこちらを一瞥して、一言、うん、と返事をすると、興味がなさそうに作業を再開した。少し離れて、ヨネの横顔が見渡せる位置に設置された椅子へ腰掛けた。変わらず筆を動かしていた気だるげなヨネの瞳が、唐突に力強く煌めく。ゆったりとした振る舞いは一変して、熱心に、全身をのりだしてキャンバスに筆を走らせる。絵が完成間際になった時にだけ見ることができるヨネの一面だ。完成間際。ヨネはその瞬間に力を込めて、一気に描ききる。私は大層それが気に入っていた。



力を込めて

10/7/2023, 5:16:03 AM

 とさ、と、静かに着地をする音が聞こえた。紅葉の帳が降りる逢魔が時、決まって静かに現れては、いつの間にか消えている音。縁側に座る私の、すぐ隣にいる音の主は、いつもただ黙って私を見ている。私はゆっくりと立ち上がると、数歩ほど歩いてみる。ガサガサ、と落ち葉を踏む音が静かに響いた。

「こうして会うのも、今日で最後になりそうね」

 縁側に座り、私を見る男は、罰が悪そうに立ち上がると私の手をとり縁側へ連れ戻した。そよ風が頬を撫でる。この心地よい風は、あと少しで肌を刺すような冷たい風に変わるのだ。

「何か、喋ってくださいよ。私だけ話をするのは寂しいわ。それとも、何か怒っているの」

 男は気まずそうに息を吐いた。

「怒ってないよ、……ただ、僕が今までここにきてたの、バレてたんやなって恥ずかしくなっただけ」

 握った手の感触。どこか力の抜けた、ゆるりとした声色は出会った時と何ら変わらず、どこか可笑しくて、くすり、と笑った。

「……ほんと、いやんなるわ。人間が生きられる時間は短い」
「まあ、貴方からするとそうね」

 私は、随分昔に機能しなくなった瞳を彼に向けて微笑んだ。彼は、私の手をぎゅっと握った。ひんやりとした外気に寒くなった体を震わせると、彼が私の背中に羽毛をまわすのが分かった。

「今年は、もうここへ来ないんでしょう。明るい話がしたいわ。ほら、思い出話とか、ね」
「……呑気やな。君は。来年の秋までもたないって、医者から聞いた。……最後って、君も分かってるやろ」

 男はむっとした口調で吐き捨てた。私は困ったように笑って、でも何も言わなかった。

「……最後くらい、なんかないの。もっと生きたいとか、死にたくないとか……そんなん。……一応、僕妖怪だから、君のお願い、一つなら叶えてやれるけど」

 背中にまわった羽毛にぎゅっと力が入った。そうねぇ、と呟いて、お願いを考える。今、彼はどんな表情で私を見ているのだろう。初めて出会った時から胡散臭い薄ら笑いばかりしていた彼は、今。

「じゃあ、思い出話に付き合ってほしいわ」

―――

 畳の上に敷かれた布団。横たわる彼女の傍らで、妖怪は呆然と座っていた。去年の今頃、妖怪は彼女と思い出話をした。話した思い出は出会った時のものばかりで、それでも彼女は嬉しそうに笑った。

 彼女は、肝の座った少女だった。唐突に彼女の前に表れた妖怪に、自分も十分に食べれていないだろうに、少ない飯を恵んでやるくらいには、強かな娘だった。妖怪が少女を好きになるのに、時間はかからなかった。寿命について意識しだしたのも、このごろだ。少女の寿命はあとたった数十年でつきる。数千年生きてきた妖怪には、その事実がたまらなくつらく感じた。これ以上好きにならぬように、妖怪は少女が成人を迎えるのと同時に忽然と姿を消した。少しだけ離れて、結局戻ってきた時には彼女は年をとっていて、事故で失明していた。それから秋の間は彼女を見守って、怖じ気づいて離れ、また秋に彼女のもとへ戻る、を繰り返していた。そんな調子だったので、思い出話をしたいと言われた時、妖怪は何も言えなかった。

 距離を取っていた時間も、全部。彼女にあてていればよかった。そして、かなうなら彼女と共に年をとりたかった。後悔する時は、いつもこうだ。

 彼女は春を迎えるとほどなくして息を引き取った。妖怪は思い出を語れなかったあの日から、彼女の側にいることを決めた。久しぶりに、一緒に桜をみた。ほどなくして青葉にかわり、また紅葉の帳をおろすのだろう。

 妖怪は静かに目を閉じた。



過ぎた日を想う

10/6/2023, 6:36:22 AM

 すぐ近くに地面を踏む音が聞こえ、クラウディオスは開いていた本を閉じた。腰掛けた体勢はそのまま、肩から音の方へふりかえり、姿を隠したつもりでいる彼を視界にいれる。

「弓が見えてるよ、ディッパー」

 ディッパーと呼ばれた少年は、悪戯っぽい笑顔を浮かべて岩の影から顔を覗かせた。クラウディオスは本に顔を戻し、再びページを開く。ディッパーはその様子を岩の影からつまらなそうに見つめ、ついには、傍らの弓を掴んでクラウディオスの隣へ座りこんだ。

「すごいねぇ、トレミー。君はどうしていつも、僕の隠れた場所が分かるの」

 ディッパーは弓をそっと地面に置いて、体操座りでクラウディオスの愛称を呼ぶ。クラウディオスはそれに一瞥もくれず読書にふけるが、ディッパーは変わらず弓を人撫でした。

「トレミーはなんでも分かるんだってヴィルゴにいったらねぇ、あのこ、ふんって笑ったんだ。僕は隠れるのが下手だから、すぐ分かるのよってさ」

 クラウディオスはページを捲った。ディッパーは本にびっしり詰まった文字を読んでみるが、クラウディオスにしか読めない文字だったので、すぐに新しい話を始めた。ディッパーはクラウディオスと話をする時間を気に入っていた。毎日こうしてクラウディオスの元へやって来ては、話をして帰ってゆくのだ。

「以前の僕なら分からなかった。ヴィルゴは僕のことバカにして笑ってるて」

 クラウディオスは文章をおう目をとめ、相変わらず感情の読み取れない瞳でディッパーに視線をやった。うつ向くディッパーはそれに気がつかぬまま、一度吐き出して止まらなくなった感情を吐露する。

「賢くなったら、もっと皆とお話できると思ってたけど、実際は、見えていた世界が変わってしまっただけなんだよ」

 ディッパーは弓を撫でた。

「僕、まだこれから賢くなるだろ。その度に好きな人たちの本当をみてしまうなら、やっぱり僕賢くなるの嫌だな」

 クラウディオスは読んでいた本をディッパーの膝の上にのせた。分厚いそれはずっしりとディッパーの膝に重さを伝え、ディッパーはクラウディオスを見上げた。

「もうそろそろ、新しい子が加わるよ」

 無意識だろう、寂しげな表情とは打ってかわって目を輝かせ始めたディッパーに、クラウディオスは不器用に微笑んでみせた。その可笑しな表情をみて、年相応に笑顔で笑うディッパー。

 ディッパーは本の上、びっしり詰まった文字を指の腹で撫でる。文字こそ分からないが、おそらくここに『新しい子』についての情報がのっているのだろう。

「どんな星座なの」

 クラウディオスはページを捲り、文字を指差した。ディッパーは文字を読めないのでクラウディオスの音読を静かに聞いた。

「彼は蠍座。名前はアンタレス。君と気が合うだろうね。きっと隠れるコツを教えてくれるよ」

 クラウディオスはディッパーのさらりとした頭髪を指でとく。嬉しそうに頭を預けるディッパーに、クラウディオスはそれとね、と続けた。

「先にばらしてしまうのはつまらないけど、思い詰めているようだし、教えることにした。君はまだ賢くなる。これは、自覚してるね」

 ディッパーは頷いた。

「うん。でも、嫌なんだ。ヴィルゴの笑顔が、喜びからくるものじゃなくって、僕のことバカにしたものだって、気付きたくなかった」

 クラウディオスは静かに目線を落とすとディッパーの膝の上から本を取り戻した。

「いいかい、ディッパー。善と悪、これは人間ならば必ずもつ二面性だ。どちらかしかない人なんていないのに、私たちは他人と関わりをもつ時、どちらか一面しか見られなくなることがある」

 ……一面、と繰り返して呟いたディッパーは、クラウディオスを見上げた。

「今の君には悪いところしか映らないのだろうけど、君とヴィルゴが友人だったのは、勘違いじゃないと思うよ。――ヴィルゴとは、もう会いたくないのか。君が好きに決めなさい」

 ディッパーは黙り込んだ。沈黙を守りながらも、雄弁にものを語る瞳にクラウディオスは気がつく。

「トレミー、君やっぱり凄いや」

 礼を言って走り去ってゆく背中は見送らずに、クラウディオスは新しいページを開いた。



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