ひなまつり
私の家では3月3日になると必ず雛人形が飾られた。
何十段もある豪華なものではないけれど、3段の可愛らしい雛人形。
物心ついた時からあって、私は母に尋ねた。
「この雛人形って誰が買ってくれたの?」
「あぁ…それね、おじいちゃんが買ってくれたのよ。」
母方のおじいちゃん。
気難しくて、誰に対しても素っ気なくて冷たくて、苦手だった。
「おじいちゃんがね、あなたが産まれてすぐに買ってくれたの。高いのは買ってやれないけれど、毎年ひなまつりの時には飾ってやってくれって。…あぁ見えて、あなたのこと大好きだったのよ。」
そんなの知らなかった。
勝手に嫌われてると思って距離を置いてたのに。
私は仏間に行って仏壇にお線香をあげた。
「おじいちゃん、今まで誤解しててごめんね。毎年、素敵なひなまつりをありがとう。」
たった1つの希望
絶望を通り越して俺の心は動かなくなった。
虚無。
ただ何も感じない。
硝煙と血の匂い、瓦礫まみれでまともに歩く場所すら無い道、まるで物のようにそこらじゅうに転がる息絶えた人。
俺はただフラフラ彷徨っていた。
もう自分が生きた人間なのか、死んで亡霊になったのか、よくわからない。
「……ギャア、オギャア!オギャア!」
瓦礫の山の中から微かに声が聞こえた。
中には赤ん坊が。まだ生きてる。
その瞬間、俺は息を吹き返したようにハッとして瓦礫の山を必死にどかして赤ん坊を救出した。
「オギャア!オギャア!」
「あ、……生きてる。生きてる!よかった…。」
近くに倒れていたのは親だろうか、瓦礫に潰されてもう息はしていなかった。
腕に抱いた赤ん坊の暖かさは自分が、そしてこの子が生きていることを実感させた。
いつ死んでもいいと思っていたけど、この子の命を守りたいと思った。
生きたいと思った。
虚無だった俺の心に、小さなたった1つの希望が芽生えた。
欲望
彼女の腕が僕の首に絡まる。
それはまるで蛇が首に巻きついて絞め殺そうとする勢いで。
彼女の腕がキツく締め上げるほど、僕の口からは
あられもない嬌声が漏れる。
あぁ、僕はどうしようもない奴だ。
そんな淫らな妄想をして、やるせない気持ちになって、もどかしくて自らを慰める。
僕は別に殺されたいわけでも死にたいわけでもない。
ただ、死ぬほどの快楽を味わいたいだけ。
誰も知らない欲望にまみれた本来の僕の姿。
けれど、誰だって持っているはずだ。
他人には絶対に言えない危険な欲望を。
君の欲望はいったいどういうものなのかな?
僕はおぞましい欲望を秘めながら、何食わぬ顔して、目の前で美味しそうにコーヒーを飲む君に笑いかける。
遠くの街へ
今日、産まれた時から育ってきた街を離れる。
遠くの街への期待と不安。
離れる寂しさ。
離れていく慣れ親しんだ街並みを、複雑な感情で眺める。
車や電車、バスを乗り継いで私は遠くの街へやって来た。
部屋に荷物を置いて、手ぶらで街を散策する。
見たことない景色、知らないお店、怪しい裏路地、まるで異世界に来たみたい。
明日から、この異世界でどんな物語が待っているんだろう。
帰り道は自然と足が軽くなった。
現実逃避
私は先生に救われた。
先生の、あの言葉に────
「逃げたっていいんだよ。こんな言葉知ってるか?…逃げるが勝ち。」
からかうけど真剣に私と向き合ってくれた唯一の先生。
学校という閉鎖的な世界が息苦しくて、無理して笑って周りと歩幅を合わせて、いつの間にか私の心はすり減って、限界に近づいていた。
そんな時に先生は私に救いの手を差し伸べてくれた。
気持ちを打ち明けた時。
なんとなく、否定されるんじゃないかと弱気になったけれど、意外にも先生は逃げる事を肯定してくれた。
私が先生のその言葉にどれほど救われたのか、きっと先生はわからないだろうけど、「逃げていい」
そう言われた瞬間、私の心を縛っていた鎖や重りが無くなって、とても呼吸が楽になった。