ゆきぼし

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3/17/2026, 1:26:54 PM

ぱしん、と乾いた音がその場の空気を変えた。その音は紛れもない眼鏡をかけた少女の行動によって発せられたものだ。
少女の前にはミルクティーのような色をしてゆるくカールされた髪が目立つ少女が、左頬を赤くしたまま呆然と立ちすくんでいる。
しかしすぐにはっとするとミルクティーの髪色をした彼女は眼鏡をかけた少女を睨みつけ、同じようにその少女の左頬を叩いた。
そして先程の鋭い目つきが嘘のように、大きな瞳から涙がボロボロと溢れていた。綺麗なミルクティー色の髪もボサボサになっている。
そんな様子など気にすることなく、眼鏡をかけた少女は少し深く息を吸ってから落ち着いた声で言い放った。

「泣かないよ、私はあなたみたいに弱くないから。」

そう言って少女は落書きだらけでボロボロの参考書が入れられてる鞄を手に持ち、講義室を出て行った。

梅雨の時期の空は基本的に淀んでいる気がする。雨雲から逃げるように閑散とした場所に建っているマンションの5階を目指した。可愛いらしいキーホルダーがついた鍵を鍵穴に差し込んで回して、靴を乱雑に脱ぎ捨てる。
ドタドタと廊下を過ぎてリビングへの扉を開けると、大きなソファの背もたれに腕を回すような体制をした人物が座っていた。
その人は眼鏡の少女を見ると、ニヤリとしながら「おかえり」と言った。ハスキーで少し低めなその声色に、胸にあった異物が流れるような感覚を覚える。

「…ただいま。」
「ずいぶん楽しそうなことになったみたいね。」
「何それ、嫌味?」
「まさかまさか。」

そう言ってテーブルにあったタバコを1本取り出し、ライターで火をつけた。タバコの煙と共に微かなブルーベリーのような甘ったるい匂いが香ってくる。

「で、何があったの?またいじめの延長線?」

緩やかな口ぶりとは裏腹に質問の内容は鋭い。そのチグハグさに少女は顔を顰めたが、振り払うように首を横に振った。否定の意味も込めて。

「違う。いじめぐらいならあんなことしない。」
「ぐらいって…本当、負けん気が強いって言うか、なんて言うか。で、何があったのよ。」

その質問にどう答えていいか分からなくなった。素直に言っていいものなのか。でもそうしてしまったら、目の前のこの人が傷つくかもしれない。
そう思うと何故か喉が張り付いて言葉が出てこなくなった。

「……また、アタシのことで何か言われたんだ?」

そんな台詞に少女は否定が出来なかった。否定出来なかった代わりにソファに膝立ちをしながら、その人の肩に頭を乗せるようにして抱きついた。

「…あいつら、ナツさんのこと、バカにした。」
「あらら、それはまた…1回あんたの忘れ物届けに行っただけなのにすっかり有名人ね。大学1年生って暇なの?」
「知らない。あいつらは暇なんじゃない?」
「まあ、暇じゃなきゃ他人のことなんて見る余裕ないわよね。」

そう言ってナツと呼ばれたその人は少女の頭を撫でた。少しゴツゴツとした手は、未だに目の前の綺麗な顔とはかけ離れていて違和感を覚えてしまう。それでも安心する温もりであることには変わりなかった。

「で?具体的には何だって?」
「…変態のオカマだって。オカマなのに女が好きで、女みたいな顔とか話し方なのに女と付き合ってるなんて変態に決まってるって。」
「あら、思ってたより辛辣。」
「…だから、ぶってやった。」

拗ねたようなその口ぶりにナツは吹き出した。そして大声で笑い出したのだ。
それとは正反対に少女はどんどん顔が歪んでいく。

「あっははは!!!あんたやるじゃん!」
「…うるさいな、笑わないでよ。」
「んぐ、んふふ…ごめんごめん。でも、かっこいいんだもの。愛されてるのね、私。」
「…当たり前でしょ、馬鹿。」
「あらら、ずいぶん素直。明日は雨かしら?」

「嫌ーねー」と大袈裟に嘆いて見せる。その様子に少女はまた顔を歪めて、子供のように顔を背けた。

「さーて笑わせてもらったし、愛されていることも分かったことだし?今日の夜ご飯はオムライスにでもしようかなあ。」

わざとらしい言い方であるにも関わらず“オムライス”という言葉に少女はぴくりと反応する。それを見逃さないように続けて「ケチャップじゃなくて、デミグラスソースのやつがいいわねえ」と言えば少女の顔は完全にナツの方を向く。

「本当?オムライス。」
「ええ、本当。」
「……デミグラスソース、たっぷりがいい。」
「もちろん知ってる。晴れてきたし、一緒に材料の買い出し行く?」

そう言って立ち上がるナツに釣られてベランダの窓を見れば、分厚かった雲はなくなり晴れ間が差していた。
その眩しさに大学で我慢してた涙が出そうになるのを、「行く」という言葉と共に飲み込んだのだった。

3/17/2026, 7:02:58 AM

その少女は怖がりである自分があまり好きではなかった。

例えば、夜眠ろうとベッドへ潜り込めば何かが自分の足を掴んでくるような感覚がして、毛布を足に絡めないと眠れない。
そのせいで暑くなり何度夜中に目が覚めたかは、もう覚えていないくらいだ。

1人で数キロ先の店へおつかいに行くのも怖くてたまらなかった。家の近くにある小さな公園がある所までは行ったことがあるが、そこからは踏み出したこともなかったからだ。

もしも、意地悪な子がいて追いかけられたらどうしよう。
もしも、迷子になったらどうしよう。
もしも、悪い大人に捕まったらどうしよう。
もしも、頼まれたものが売り切れだったらどうしよう。

そんな不安がずっと、影のように付き纏ってくる。
“もしも”が、もし起きてしまったらどうすればいいのだろうか。大人に聞いても「怖がりすぎだ」、「もう11歳になるのだからしっかりしなさい」と一蹴されてしまう。
しかし、祖父だけは少女を否定しないでいてくれる。絵を生業としている祖父のアトリエへ行けば、涙で目が潤んでいる少女の背中をタバコと絵の具の匂いがする手で撫でてくれた。そんな祖父が少女は大好きだった。
目を腫らした少女は絵を描き続けている祖父に背中から声をかける。

「なんでおじいちゃんは、“しっかりしろ”って言わないの?」

そんな少女の問いに祖父は白髪の頭を掻いて困ったように笑いながら「うーん」と唸った。

「なんでって、言われてもなあ。」
「だって皆言うよ?お母さんもお父さんも…隣の家のお姉さんにもこの間言われた。」
「はは、そりゃ手厳しいね。」
「だから、おじいちゃんだけなの。“しっかりしなさい”って言わないの。」

「なんで?」と続けると、祖父はやはり困ったような顔をして笑っている。
絵の具が乗った筆をサイドテーブルへ置いて立ち上がり少女へ近づくと、“よっこいせ”と言いながらしゃがむ。いつも見上げている祖父と違って少女より少しだけ目線が低くなり、不思議な感覚がした。

「怖がりはね、悪いことじゃないんだよ。」
「…そうなの?」
「そうなんだよ。みんな、怖がりな部分はどこかに必ずあるんだ。」
「みんな?」

そう聞き返すと祖父は「みんな」と優しい目をして繰り返した。

「例えば君のお父さんはね、君ぐらいの歳の頃は犬が怖かったんだ。野良犬に追いかけられたことがあってね。」
「犬?あんなに可愛いのに。」
「ははは、そうだね。可愛いのに、怖いんだ。」
「ふうん…。」
「隣の家のお姉さんはそうだなあ…。多分、虫とかは怖がりそうだね。若い女性には多いから。」
「……あ、そういえばこの間家にクモが入ってきたからって取ってって言われた。」
「そうだろう?みんな、何かしら怖いものがあるんだ。」

祖父は優しい目をして少女の頭を撫でた。
タバコと絵の具、今日はそこに少しだけ香ばしい甘い匂いもする。きっと、おやつにクッキーを食べたのだろう。
そうか、みんな怖いものがあるんだ。
祖父の言葉はまるで魔法のように少女に溶け込んでいった。

「じゃあ、みんな怖がりなのに何で隠してるの?」
「それが大人になるってことなのかもしれないね。」
「怖がりだと大人になれない?」
「まさか、そんなことないよ。歳をとると隠し事が上手くなるんだ。だからみんな、怖いと思っていても何でもないふりをしているんだよ。」
「ふうん。」

「変なの」と少女が顔を顰めれば祖父は声をあげて笑った。そして「そうだね」とまた優しい目をするのだ。

「大人って…やだね。」
「そうだね。卑怯とまではいかないけど、いけ好かない感じがしてしまうね。」
「……大人になりたくない。怖くなってきた。」

ぽつりと呟いたその言葉は少女の本心なのだろう。また1つ、怖いものができてしまった。
しかしそんな少女とは違って祖父は明るい声で「そうかな?」と言う。

「案外楽しいものだよ、大人も。」
「…卑怯なのに?」
「卑怯でも怖がりでも、大人になると見えてくるものがまた違ってくるさ。」
「……そんなもん?」
「はっはっ、そんなもんだよ。」

笑いながら祖父は立ち上がって、また絵に向かい合った。様々な暗めの青色が見えるそれを見て、そういえば「夜の海を描いているんだよ」と昨日聞いたのを思い出す。夜の海なんて、とんでもなく怖いものを書くんだな、と少女は思った。

少女は祖父を追いかけるように絵に近づく。祖父の横から絵を覗き込むとただ暗い青だけの絵だと思っていたそれは、全く違っていた。
画面の半分以上が夜や海とは正反対のピンクや黄色など明るい色で埋め尽くされている。
少女は思わず「わあ」と声が溢れた。

「これ、夜?」
「うん、そうだよ。」
「海?」
「うん、夜の海。」
「あ、これクラゲ?」
「おお、よく分かったね。正解。」

ピンクと黄色、紫などが重なる部分に水色で複数の可愛らしいクラゲが描かれている。その絵は少女が思い浮かべる海よりも鮮やかだった。
そういえば本物の夜の海を見たことがないな、とふと思う。

「夜の海ってこんなにカラフルで綺麗なの?」
「ん?んー、難しいね。綺麗なのは間違いないけど、カラフルかって言われると…うーん…。」
「じゃあ何でおじいちゃんの海は色んな色があるの?」
「おじいちゃんにはこうやって見えてるからね。」
「そう、なの?」

少女は驚いた。ただ暗いだけだと思っていた夜の海は祖父の目にはこんなに色鮮やかに映っているらしい。
少女の口は自然と「じゃあ今度一緒に行こう」と動いていた。
ついさっきまでは海、ましてや夜に行くなんて考えもしなかった。しかし、祖父の目に映る夜の海を自分も見たいと思ったのだ。
興奮しながらそう告げれば祖父は少し意地悪な顔をして「もう少しだけ大人になったらね」と答えるのだった。

3/15/2026, 1:53:16 PM

「何もな…。」

そう呟いた声は、澄んでいるであろう空気に溶けていった。
私は今、真夏のど田舎の道を1人で歩いている。
なぜ田舎にいるのかと言うと、まあ、人間らしい生活をするために祖母の家に避難しているからだ。

5年くらい前、お風呂が壊れた。
でも歩いて20分くらいのところに銭湯があるから、問題ない。

3年前、洗濯機が壊れた。
でも歩いて5分くらいのところにコインランドリーがあるから、これも問題ない。

そして一昨日、とうとうトイレが壊れた。
初日は何とかなった。
水分をあまり摂らないようにして散歩や買い物ついでにお店のを借りる。
だが2日目。何だかふと、馬鹿らしいと感じて涙が出てきそうになってしまったのだ。
風呂も洗濯もトイレも、本来なら家で全て済ませられるもの。
トイレなんて特に人間の尊厳に関わる部分ではないのか?
それなのに私は、何か理由がないとトイレに行くことも出来ない。
そう考えたら、何だかたまらなくなってとうとう涙が溢れた。

もちろん働いてはいる。だが、今のご時世いくらあってもお金は足りない。
加えて私1人の給料で母も養っているため、尚更お金なんてない。
家が壊れても修理を頼めないほどに。
情けなくて、また涙が出そうになって慌てて唇を噛んだ。

そしてトイレが壊れた2日目の夜、祖母の家に避難することに決めた。
せめて人間らしく暮らしたくて、逃げたのだ。
仕事もリモートで出来るためネット環境さえ整っていれば問題ない。
何年か前におじさんが契約をしてくれていたので、仕事も休まず続けることが出来ている。

祖母の家はとても快適だった。
お風呂に入れて、洗濯もできて、何よりトイレにも行ける。
こんなことがとてつもなく幸せだと感じるほどに、私の生活は普通からかけ離れていた。

ただ一点烏滸がましいとは思うが、不便なことがある。
それは田舎故に近隣に店がないのだ。
最寄りのコンビニはトンネルを抜けてしばらく行ったところにしかない。
スーパーなんかもないため、週に一回程度おじさんが買い物に行っているらしかった。

そして私はトンネルを抜けた先にあるコンビニから帰宅している最中だった。
不運なことに、予定日より早く月のものが来てしまったのだ。何枚かは持ってきていたのだが足りない。それに3日後がおじさんが買い物へ行く日だったのでそこへ着いて行って買おうと思っていたのだ。
そしてそんな日に限って、おじさんは区か何かの集まりへ行ってしまって不在。
そのため私は今、この長い田舎道を歩いているのだ。
コンビニ以外は精米所やお菓子やゴム手袋など雑多な品揃えをしている店が一軒ある程度だった。トンネルの付近まで来てしまえばそんな店もなく、青々とした草木があるだけだが。

カシスオレンジのような空をした夕焼けの中を歩いていたはずなのに長いトンネルを抜ける頃には、すっかり濃紺色に染まっていた。

少ない街頭と時々通る車以外、明かりがなくて不安になり音楽アプリを開いて好きなアーティストの曲を大きめの音で再生する。
あと5分ほどで祖母の家に着く頃、何となく空を見上げた。

「わあ、すご。」

真っ暗な空には星が溢れていた。
そういえば小さい頃はよく、祖母の家で天体観測をしていた気がする。
小学生になると理科の教科書を持ち出して、“あれがこの星かな”なんて従姉妹と話していた。

「空なんてずっと見てなかったな。」

夜空を眺める余裕すら、私の生活にはなかったのだ。
それが今、こうやって眺めることが出来ている。
星を見て、“綺麗だな”と感じることが出来る。
それだけでも十分なのかもしれない。
きっと明日からも、母を養う生活やちょっとした不自由さは変わらないのだろう。

それでも幸せとはきっと、今、この瞬間のようなことの積み重ねなのだ。
そう思いながら流行りの音楽を歌い、星と共に幸せな普通の生活へと戻っていくのだった。

3/14/2026, 12:33:20 PM

春になりかけているとはいえ、朝はまだ肌寒い。
目を開け側にあるスマホを手に取ると「6:09」と表示された。
土曜日で休みなのにいつも通りの時間に目が覚めてしまうのは、5日も続く仕事のせいなのだろう。

もう一度寝てしまおうか。

そう思って寝返りを打つと、すぐ横の胸下あたりに自分以外の温もりを感じた。
思わず手を伸ばすと、ふわふわとした感覚と同時に小さな鼻息が指先をかすめた。

「あ、ここで寝てたんだ。」

そう呟くと側にあるふわふわはもぞもぞと布団から出てくる。
枕元までくると、グッと背中を丸めて伸ばすような動きをしてからブルブルと体を震わせた。

“おはよう”と少し掠れた声で挨拶すると、いつもの、あの安らかな瞳がこちらを見ているのが分かった。
掛け布団を軽く持ち上げてもう一度入ってきてくれるのを待つが、そんなつもりはないのか真っ直ぐ自分の食器が並べられている場所へと歩いていく。

もう少し寝ようと思ったのにな、なんて思いながら起き上がり、あの子のご飯を準備するのだ。

ねえ、今日は休みなんだ。
ずっと一緒にいれるよ、何しよっか。

そんなことを聞けば、“にゃー”と可愛らしい返事が返ってきて私は思わず笑みが溢れた。