ゆきぼし

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「何もな…。」

そう呟いた声は、澄んでいるであろう空気に溶けていった。
私は今、真夏のど田舎の道を1人で歩いている。
なぜ田舎にいるのかと言うと、まあ、人間らしい生活をするために祖母の家に避難しているからだ。

5年くらい前、お風呂が壊れた。
でも歩いて20分くらいのところに銭湯があるから、問題ない。

3年前、洗濯機が壊れた。
でも歩いて5分くらいのところにコインランドリーがあるから、これも問題ない。

そして一昨日、とうとうトイレが壊れた。
初日は何とかなった。
水分をあまり摂らないようにして散歩や買い物ついでにお店のを借りる。
だが2日目。何だかふと、馬鹿らしいと感じて涙が出てきそうになってしまったのだ。
風呂も洗濯もトイレも、本来なら家で全て済ませられるもの。
トイレなんて特に人間の尊厳に関わる部分ではないのか?
それなのに私は、何か理由がないとトイレに行くことも出来ない。
そう考えたら、何だかたまらなくなってとうとう涙が溢れた。

もちろん働いてはいる。だが、今のご時世いくらあってもお金は足りない。
加えて私1人の給料で母も養っているため、尚更お金なんてない。
家が壊れても修理を頼めないほどに。
情けなくて、また涙が出そうになって慌てて唇を噛んだ。

そしてトイレが壊れた2日目の夜、祖母の家に避難することに決めた。
せめて人間らしく暮らしたくて、逃げたのだ。
仕事もリモートで出来るためネット環境さえ整っていれば問題ない。
何年か前におじさんが契約をしてくれていたので、仕事も休まず続けることが出来ている。

祖母の家はとても快適だった。
お風呂に入れて、洗濯もできて、何よりトイレにも行ける。
こんなことがとてつもなく幸せだと感じるほどに、私の生活は普通からかけ離れていた。

ただ一点烏滸がましいとは思うが、不便なことがある。
それは田舎故に近隣に店がないのだ。
最寄りのコンビニはトンネルを抜けてしばらく行ったところにしかない。
スーパーなんかもないため、週に一回程度おじさんが買い物に行っているらしかった。

そして私はトンネルを抜けた先にあるコンビニから帰宅している最中だった。
不運なことに、予定日より早く月のものが来てしまったのだ。何枚かは持ってきていたのだが足りない。それに3日後がおじさんが買い物へ行く日だったのでそこへ着いて行って買おうと思っていたのだ。
そしてそんな日に限って、おじさんは区か何かの集まりへ行ってしまって不在。
そのため私は今、この長い田舎道を歩いているのだ。
コンビニ以外は精米所やお菓子やゴム手袋など雑多な品揃えをしている店が一軒ある程度だった。トンネルの付近まで来てしまえばそんな店もなく、青々とした草木があるだけだが。

カシスオレンジのような空をした夕焼けの中を歩いていたはずなのに長いトンネルを抜ける頃には、すっかり濃紺色に染まっていた。

少ない街頭と時々通る車以外、明かりがなくて不安になり音楽アプリを開いて好きなアーティストの曲を大きめの音で再生する。
あと5分ほどで祖母の家に着く頃、何となく空を見上げた。

「わあ、すご。」

真っ暗な空には星が溢れていた。
そういえば小さい頃はよく、祖母の家で天体観測をしていた気がする。
小学生になると理科の教科書を持ち出して、“あれがこの星かな”なんて従姉妹と話していた。

「空なんてずっと見てなかったな。」

夜空を眺める余裕すら、私の生活にはなかったのだ。
それが今、こうやって眺めることが出来ている。
星を見て、“綺麗だな”と感じることが出来る。
それだけでも十分なのかもしれない。
きっと明日からも、母を養う生活やちょっとした不自由さは変わらないのだろう。

それでも幸せとはきっと、今、この瞬間のようなことの積み重ねなのだ。
そう思いながら流行りの音楽を歌い、星と共に幸せな普通の生活へと戻っていくのだった。

3/15/2026, 1:53:16 PM