ゆきぼし

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ぱしん、と乾いた音がその場の空気を変えた。その音は紛れもない眼鏡をかけた少女の行動によって発せられたものだ。
少女の前にはミルクティーのような色をしてゆるくカールされた髪が目立つ少女が、左頬を赤くしたまま呆然と立ちすくんでいる。
しかしすぐにはっとするとミルクティーの髪色をした彼女は眼鏡をかけた少女を睨みつけ、同じようにその少女の左頬を叩いた。
そして先程の鋭い目つきが嘘のように、大きな瞳から涙がボロボロと溢れていた。綺麗なミルクティー色の髪もボサボサになっている。
そんな様子など気にすることなく、眼鏡をかけた少女は少し深く息を吸ってから落ち着いた声で言い放った。

「泣かないよ、私はあなたみたいに弱くないから。」

そう言って少女は落書きだらけでボロボロの参考書が入れられてる鞄を手に持ち、講義室を出て行った。

梅雨の時期の空は基本的に淀んでいる気がする。雨雲から逃げるように閑散とした場所に建っているマンションの5階を目指した。可愛いらしいキーホルダーがついた鍵を鍵穴に差し込んで回して、靴を乱雑に脱ぎ捨てる。
ドタドタと廊下を過ぎてリビングへの扉を開けると、大きなソファの背もたれに腕を回すような体制をした人物が座っていた。
その人は眼鏡の少女を見ると、ニヤリとしながら「おかえり」と言った。ハスキーで少し低めなその声色に、胸にあった異物が流れるような感覚を覚える。

「…ただいま。」
「ずいぶん楽しそうなことになったみたいね。」
「何それ、嫌味?」
「まさかまさか。」

そう言ってテーブルにあったタバコを1本取り出し、ライターで火をつけた。タバコの煙と共に微かなブルーベリーのような甘ったるい匂いが香ってくる。

「で、何があったの?またいじめの延長線?」

緩やかな口ぶりとは裏腹に質問の内容は鋭い。そのチグハグさに少女は顔を顰めたが、振り払うように首を横に振った。否定の意味も込めて。

「違う。いじめぐらいならあんなことしない。」
「ぐらいって…本当、負けん気が強いって言うか、なんて言うか。で、何があったのよ。」

その質問にどう答えていいか分からなくなった。素直に言っていいものなのか。でもそうしてしまったら、目の前のこの人が傷つくかもしれない。
そう思うと何故か喉が張り付いて言葉が出てこなくなった。

「……また、アタシのことで何か言われたんだ?」

そんな台詞に少女は否定が出来なかった。否定出来なかった代わりにソファに膝立ちをしながら、その人の肩に頭を乗せるようにして抱きついた。

「…あいつら、ナツさんのこと、バカにした。」
「あらら、それはまた…1回あんたの忘れ物届けに行っただけなのにすっかり有名人ね。大学1年生って暇なの?」
「知らない。あいつらは暇なんじゃない?」
「まあ、暇じゃなきゃ他人のことなんて見る余裕ないわよね。」

そう言ってナツと呼ばれたその人は少女の頭を撫でた。少しゴツゴツとした手は、未だに目の前の綺麗な顔とはかけ離れていて違和感を覚えてしまう。それでも安心する温もりであることには変わりなかった。

「で?具体的には何だって?」
「…変態のオカマだって。オカマなのに女が好きで、女みたいな顔とか話し方なのに女と付き合ってるなんて変態に決まってるって。」
「あら、思ってたより辛辣。」
「…だから、ぶってやった。」

拗ねたようなその口ぶりにナツは吹き出した。そして大声で笑い出したのだ。
それとは正反対に少女はどんどん顔が歪んでいく。

「あっははは!!!あんたやるじゃん!」
「…うるさいな、笑わないでよ。」
「んぐ、んふふ…ごめんごめん。でも、かっこいいんだもの。愛されてるのね、私。」
「…当たり前でしょ、馬鹿。」
「あらら、ずいぶん素直。明日は雨かしら?」

「嫌ーねー」と大袈裟に嘆いて見せる。その様子に少女はまた顔を歪めて、子供のように顔を背けた。

「さーて笑わせてもらったし、愛されていることも分かったことだし?今日の夜ご飯はオムライスにでもしようかなあ。」

わざとらしい言い方であるにも関わらず“オムライス”という言葉に少女はぴくりと反応する。それを見逃さないように続けて「ケチャップじゃなくて、デミグラスソースのやつがいいわねえ」と言えば少女の顔は完全にナツの方を向く。

「本当?オムライス。」
「ええ、本当。」
「……デミグラスソース、たっぷりがいい。」
「もちろん知ってる。晴れてきたし、一緒に材料の買い出し行く?」

そう言って立ち上がるナツに釣られてベランダの窓を見れば、分厚かった雲はなくなり晴れ間が差していた。
その眩しさに大学で我慢してた涙が出そうになるのを、「行く」という言葉と共に飲み込んだのだった。

3/17/2026, 1:26:54 PM