その少女は怖がりである自分があまり好きではなかった。
例えば、夜眠ろうとベッドへ潜り込めば何かが自分の足を掴んでくるような感覚がして、毛布を足に絡めないと眠れない。
そのせいで暑くなり何度夜中に目が覚めたかは、もう覚えていないくらいだ。
1人で数キロ先の店へおつかいに行くのも怖くてたまらなかった。家の近くにある小さな公園がある所までは行ったことがあるが、そこからは踏み出したこともなかったからだ。
もしも、意地悪な子がいて追いかけられたらどうしよう。
もしも、迷子になったらどうしよう。
もしも、悪い大人に捕まったらどうしよう。
もしも、頼まれたものが売り切れだったらどうしよう。
そんな不安がずっと、影のように付き纏ってくる。
“もしも”が、もし起きてしまったらどうすればいいのだろうか。大人に聞いても「怖がりすぎだ」、「もう11歳になるのだからしっかりしなさい」と一蹴されてしまう。
しかし、祖父だけは少女を否定しないでいてくれる。絵を生業としている祖父のアトリエへ行けば、涙で目が潤んでいる少女の背中をタバコと絵の具の匂いがする手で撫でてくれた。そんな祖父が少女は大好きだった。
目を腫らした少女は絵を描き続けている祖父に背中から声をかける。
「なんでおじいちゃんは、“しっかりしろ”って言わないの?」
そんな少女の問いに祖父は白髪の頭を掻いて困ったように笑いながら「うーん」と唸った。
「なんでって、言われてもなあ。」
「だって皆言うよ?お母さんもお父さんも…隣の家のお姉さんにもこの間言われた。」
「はは、そりゃ手厳しいね。」
「だから、おじいちゃんだけなの。“しっかりしなさい”って言わないの。」
「なんで?」と続けると、祖父はやはり困ったような顔をして笑っている。
絵の具が乗った筆をサイドテーブルへ置いて立ち上がり少女へ近づくと、“よっこいせ”と言いながらしゃがむ。いつも見上げている祖父と違って少女より少しだけ目線が低くなり、不思議な感覚がした。
「怖がりはね、悪いことじゃないんだよ。」
「…そうなの?」
「そうなんだよ。みんな、怖がりな部分はどこかに必ずあるんだ。」
「みんな?」
そう聞き返すと祖父は「みんな」と優しい目をして繰り返した。
「例えば君のお父さんはね、君ぐらいの歳の頃は犬が怖かったんだ。野良犬に追いかけられたことがあってね。」
「犬?あんなに可愛いのに。」
「ははは、そうだね。可愛いのに、怖いんだ。」
「ふうん…。」
「隣の家のお姉さんはそうだなあ…。多分、虫とかは怖がりそうだね。若い女性には多いから。」
「……あ、そういえばこの間家にクモが入ってきたからって取ってって言われた。」
「そうだろう?みんな、何かしら怖いものがあるんだ。」
祖父は優しい目をして少女の頭を撫でた。
タバコと絵の具、今日はそこに少しだけ香ばしい甘い匂いもする。きっと、おやつにクッキーを食べたのだろう。
そうか、みんな怖いものがあるんだ。
祖父の言葉はまるで魔法のように少女に溶け込んでいった。
「じゃあ、みんな怖がりなのに何で隠してるの?」
「それが大人になるってことなのかもしれないね。」
「怖がりだと大人になれない?」
「まさか、そんなことないよ。歳をとると隠し事が上手くなるんだ。だからみんな、怖いと思っていても何でもないふりをしているんだよ。」
「ふうん。」
「変なの」と少女が顔を顰めれば祖父は声をあげて笑った。そして「そうだね」とまた優しい目をするのだ。
「大人って…やだね。」
「そうだね。卑怯とまではいかないけど、いけ好かない感じがしてしまうね。」
「……大人になりたくない。怖くなってきた。」
ぽつりと呟いたその言葉は少女の本心なのだろう。また1つ、怖いものができてしまった。
しかしそんな少女とは違って祖父は明るい声で「そうかな?」と言う。
「案外楽しいものだよ、大人も。」
「…卑怯なのに?」
「卑怯でも怖がりでも、大人になると見えてくるものがまた違ってくるさ。」
「……そんなもん?」
「はっはっ、そんなもんだよ。」
笑いながら祖父は立ち上がって、また絵に向かい合った。様々な暗めの青色が見えるそれを見て、そういえば「夜の海を描いているんだよ」と昨日聞いたのを思い出す。夜の海なんて、とんでもなく怖いものを書くんだな、と少女は思った。
少女は祖父を追いかけるように絵に近づく。祖父の横から絵を覗き込むとただ暗い青だけの絵だと思っていたそれは、全く違っていた。
画面の半分以上が夜や海とは正反対のピンクや黄色など明るい色で埋め尽くされている。
少女は思わず「わあ」と声が溢れた。
「これ、夜?」
「うん、そうだよ。」
「海?」
「うん、夜の海。」
「あ、これクラゲ?」
「おお、よく分かったね。正解。」
ピンクと黄色、紫などが重なる部分に水色で複数の可愛らしいクラゲが描かれている。その絵は少女が思い浮かべる海よりも鮮やかだった。
そういえば本物の夜の海を見たことがないな、とふと思う。
「夜の海ってこんなにカラフルで綺麗なの?」
「ん?んー、難しいね。綺麗なのは間違いないけど、カラフルかって言われると…うーん…。」
「じゃあ何でおじいちゃんの海は色んな色があるの?」
「おじいちゃんにはこうやって見えてるからね。」
「そう、なの?」
少女は驚いた。ただ暗いだけだと思っていた夜の海は祖父の目にはこんなに色鮮やかに映っているらしい。
少女の口は自然と「じゃあ今度一緒に行こう」と動いていた。
ついさっきまでは海、ましてや夜に行くなんて考えもしなかった。しかし、祖父の目に映る夜の海を自分も見たいと思ったのだ。
興奮しながらそう告げれば祖父は少し意地悪な顔をして「もう少しだけ大人になったらね」と答えるのだった。
3/17/2026, 7:02:58 AM