「ご飯できたよー! 早く降りてきなさい!」
一階から僕のことを呼ぶ母の声がする。
「ちょっと待ってー」
丁度プレイ中のRPGでボス戦が始まったところ。
タイミング悪いなぁと思いながら急いでコマンドを選択する。
「早くしなさい!」
「だからちょっと待ってってば!」
イライラしながらバトルを進める。
階段から母の足音が聞こえてくる。
まずいまずい。
「ご飯だって言ってるでしょ!」
部屋のドアを勢いよく開けて母が入ってくる。魔の手がゲームに伸びる。
「待って待って待って! もうすぐ終わるから!!」
勇者の叫びも虚しく、ボス戦は外側からの力によって終了してしまった。一番強いのはボスでも勇者でもなく母なのだ。
「くそばばぁ……」
小声で呟いたつもりでもしっかりと聞こえていたようで、頭にゲンコツが降ってきた。
「ゲームばっかりやって! 大体宿題はやったの!?」
小言ばかり言ってくる。
鬱陶しいなと思いながら返事をする。
「この後やるつもりだったし」
「宿題やってから遊びなさい! もう! とにかく、ご飯食べるよ!」
一階に降りると、食卓の上には好物のハンバーグが置かれていた。食欲を刺激する香りが漂っている。
足に猫が「にゃー」と擦り寄ってくる。ハンバーグをねだっているのだろうか。
「やらないぞ。おまえハンバーグ食べないだろ」
人間の食べ物にすぐ興味を持つが興味を失うのも早い猫にそう言って、僕は椅子に座る。
「いただきまーす」
ハンバーグを頬張る。美味しい。なんだか久しぶりに食べた気がする。
「いつでも待ってるんだから」
ご飯を食べながら、母が突然そう言い出した。
「もっと頻繁に帰ってきなさいよ」
大人の姿をした僕の手が止まる。
「いつも心配してたのよ、元気してるのかって。なんでもなくたっていいから、たまには連絡が欲しい。声を聞かせてほしい。帰ってきてほしいって」
母の声が震える。
そんな母の顔を見るのが怖くなって、俺は下を向く。
「どうして」
母が泣き出した。
そして思い出した。そうだ、俺は死んだんだろうと。
仕事帰りで疲れていた俺は、ハンドル操作を誤り、電柱に勢いよく激突した。たぶん、それで。自損事故だから、被害者が自分だけだったのは救いかもしれない。
じゃあこれは、走馬灯のようなものなのだろうか。
泣き声が響いている。もう死んでいるのに、胸が痛む。
もっとたくさん連絡をすれば良かった。せめて長期休みは顔を見せに帰れば良かった。
あの頃は、いろいろ小言を言う母が鬱陶しいと思っていたけど、そんな日々が宝物だったんだと、今更気付いた。
もう何もかも遅いけれど。
帰りたい。あの平穏な日常に。
『平穏な日常』
全てを愛して、世界の平和を願って。
そうすれば、みんなもっと幸せになれるのかもしれない。
――とは思うけども。
「滅べー!」
どうしたって許せないものはある。
「滅べ! スギ! ヒノキ!!」
目や鼻をぐしゅぐしゅさせながら今日も心の中で叫ぶ。
冬から春にかけて飛ぶ花粉。夏に飛ぶ蚊。年中その辺に隠れていて自分達を怯えさせるG。エトセトラエトセトラ……。
とにかく、愛だけじゃどうにもならないこともある。心穏やかに過ごせるような、平和なんて程遠い。
早く花粉を飛散させないようなスギやヒノキが出来ますように……。
『愛と平和』
あれはもう三年くらい前のことかな。当時、俺にはとても愛していた女性がいた。彼女は俺のわがままも笑って聞いてくれるような人だった。
俺達が付き合い出したその年のクリスマス。その頃の俺はお金がなく、どこかロマンティックな場所へ行くことも、素敵なプレゼントを買うこともできなかった。
二人でただ外をぶらぶらと歩くだけのデート。そんなデートでも、彼女はちゃんとプレゼントを用意してくれた。器用な彼女が自分で編んだ手袋だった。
それに対して、何のプレゼントもできない俺。だけど、彼女は微笑んで言ってくれた。
「あなたが隣にいること。それで十分、私へのプレゼントよ」
思わず俺は彼女を抱き締めた。
彼女はいつも「何もいらない。あなたがいれば大丈夫」。そう言って笑ってくれた。それが俺の幸せだった。
大した場所へも行けず、ろくなこともしてやれない。そんな俺だけど、気持ちだけは誰にも負けないくらい、心から彼女を愛してた。
「それなのに別れちゃったの?」
隣に横たわる女にそう訊かれて、俺は頷く。
「そんなもんだよ。結局、彼女は俺から離れていってしまった」
「で、新しい人を探してるんだ?」
「まぁ……いつまでも過去を引きずるわけにもいかないし」
そう呟いて、隣の女を引き寄せる。
「でも、こうやって君に逢えたんだから、もしかしたらこれで良かったのかもしれない」
過ぎ去った日々は戻らない。だから、新しい日々をここから紡いでいこう。
女の額にキスをして、思い切り抱き締める。
俺の腕の中で、女が言った。
「私も昔はいろいろあったの。ねぇ、私の話も聞いてくれる?」
どこか懐かしい瞳でこちらを見つめると、静かに話し出した。
甲斐性なしの彼氏がいた。付き合っている間、何もしてくれなかった。
それでも良いところもあるから。と、私は彼氏のことを愛して、世話を焼いていた。
そんな彼氏が浮気をしていると、友達からのタレコミがあった。
友達が撮った写真を見ると、彼氏が知らない女と抱き合っていた。しかも、その女は見覚えのある手袋をしていた。つい最近、彼氏にプレゼントしたばかりの、手編みの手袋だった。
何もしてくれない。「愛している」や「隣にいる」と言いながら、別の女のところへ行く。しかも、問い詰めると、暴力を振るわれた。最後には「殺してやる」とまで言われた。最低の男だった。
怖くなって、逃げるように別れた。私は見つからないように整形までした。
「その男は都合が悪いことは忘れて思い出を美化して、楽しく遊びながらも相変わらずわがままを言って過ごしているらしいわ」
どこか懐かしい瞳がじっとこちらを見つめている。
「いつしか思ったの。なんで私がずっと怯えなきゃいけないのかって。やられる前に、私がやればいいんじゃないかって」
過ぎ去った日々は戻らない、どうしたって。過去の行いを悔いたって、今更どうにもならないんだ。
背筋に冷たいものが走った。
『過ぎ去った日々』
『お金より大事なもの』と問われて、何が思い浮かべるのかというと、結局死んだら元も子もないということで『命』が答えになってしまうんじゃないか。
でも、かの有名な漫画のキャラクターが言っていた。「金は命よりも重い」と。そうだとすれば、結局そんなものは存在しないのかもしれない。
ぼーっとそんなことを考えていたら、飼い猫が「にゃー」と鳴きながら擦り寄ってきた。
自分の命よりも大事だと思えるものがあった。何かあればお金を全て失ってでも助けたい。君の為に何かしたい。
答えはここにあった。
『お金より大事なもの』
昔々あるところに女の子とお母さんが二人で暮らしていました。
女の子はいつも赤い頭巾を被っていたので、赤ずきんちゃんと呼ばれていました。
ある日のことです。
「赤ずきんや。このパンとワインを、森の奥に住んでいるおばあちゃんに届けてちょうだい」
お母さんにそう頼まれ、赤ずきんちゃんは一人で森の奥へと向かいました。
おばあちゃんの家に向かって歩いていると、
「お嬢さん。どこへ行くの?」
どこからか男の人が現れ、そう尋ねてきました。
「この森の奥へ。おばあちゃんにパンとワインを届けに行くの」
「そうかい。でも、この森は危ない。行くならこっちの道からの方がいいよ」
そう男に案内され、赤ずきんちゃんは後をついていくことにしました。
その道の途中に、素敵な花畑を見つけました。
赤ずきんちゃんはその美しさに目的も忘れ、花を摘み始めました。
「もう暗くなってしまったよ。そろそろ行かない?」
男にそう声をかけられ、赤ずきんちゃんは我に返りました。
もう日は落ちていて、辺りはすっかり暗くなってしまっています。
「もう行かなきゃ!」
赤ずきんちゃんは慌てて立ち上がりました。
「危ないから送るよ」
男がそう言った時です。
空に月が昇り、花畑を照らしました。
すると、男はみるみるうちに姿を変え、オオカミになってしまいました。
「キャー!」
赤ずきんちゃんが声を上げると、近くを巡回していた狩人が駆けつけ、オオカミを撃ち殺してくれました。
こうして、赤ずきんちゃんは無事におばあちゃんの家へ辿り着くことができました。
男はオオカミ男でした。
半分オオカミで、半分人間でもある男は、森へと向かう女の子を見かけると、声をかけました。
「お嬢さん。どこへ行くの?」
「この森の奥へ。おばあちゃんにパンとワインを届けに行くの」
男はこの先に危険なオオカミがいることを知っていたので、女の子に安全な道を教えてあげることにしました。
「そうかい。でも、この森は危ない。行くならこっちの道からの方がいいよ」
その道の途中には花畑がありました。
そして、女の子はその花畑に夢中になってしまいました。
「おばあちゃんのところに行かなくていいの?」
暗くなり始めてもその場からなかなか動こうとしない女の子に、男は焦りました。なぜなら、男は夜になって月の光を浴びてしまうと、オオカミになってしまうのです。
「もう暗くなってしまったよ。そろそろ行かない?」
男の言葉に、女の子はようやく立ち上がりました。
辺りはすっかり暗くなってしまっています。
男は早くこの場を立ち去りたかったのですが、女の子を放っておくわけにもいかず、
「危ないから送るよ」
と女の子に手を差し伸べました。
その次の瞬間、花畑に月の光が射し込みました。
そして、男は光に照らされ、オオカミの姿になってしまいました。
「キャー!」
女の子の悲鳴が上がりました。
そして、そのすぐ後、銃声と同時に男の体に衝撃が走りました。
男は半分人間なので、人間を食べたりしません。そして、半分オオカミなので、周囲のオオカミのことをよく知っていました。
男は、オオカミの棲む危険な森で、女の子を助けたかっただけでした。
月の光に照らされた夜の花畑は、それはそれは美しいものでした。その花畑でオオカミが一匹、眠るように死んでいました。
『月夜』