お題『光と闇の狭間で』
これは、主様が5歳だった頃の話。
書庫の扉が勢いよく開き、そのバンッという音に本の整理をしていた俺はドキッとした。もしや天使の奇襲か? 主様はご無事だろうか? 早くお迎えに行ってお守りしないと……脳裏にさまざまな思いや作戦が浮かんでくる。とにかく武器庫に行かないと……。
突如、バサっという羽音にも似た音が背後から聞こえ、「しまった、後ろを取られた!!」と思っていたら——その、お守りしなくてはならない主様ご本人が俺の燕尾を捲って入り込み、じっとしている。
「あの、主様?」
「しーっ!」
主様はそう言ったきり、うずくまってしまった。
「……?」
俺は自分の仕事に戻っていいものかどうなのかうろたえていると、そこにハタキを片手にしたラムリがやって来た。
「ねぇねぇ眼鏡くん! 主様を見なかった?」
「主様なら……ッ」
どうやらふくらはぎをつねられた。
察するに、多分ラムリは掃除から、主様はマナー講座から逃げているうちに追いかけっこから鬼ごっこにエスカレートしたのだろう。
さて、この状況、どうしたものか。うーん」
「ねぇ、早く掃除を済ませて、それから遊んだ方がいいんじゃないかな?」
「げ。眼鏡くんまでハウさんやナックの味方なの?」
「そうじゃないよ。怒られる前に手持ちの仕事を終わらせてからの方がラムリの評価も上がるし、何より主様と遊ぶことに集中できると思うんだ」
ラムリは少し考えて、でも、と何か言いたそうにしている。
「主様を見つけてあげないと、ボク、心配になっちゃう」
「それだったら大丈夫。俺が探しておくから」
「……育ての親が言うんだったら大丈夫かな。
ありがとう眼鏡くん、主様をよろしく!」
そしてラムリはバタバタと出て行った。
それじゃあ、次は主様をどう説得したものか。
「主様、ラムリも自分の仕事を終わらせるために行ってしまいましたよ。主様もベリアンさんのマナー講座を頑張りたくないならそれでもいいんです。お茶を淹れますから気分転換しましょう……主様?」
足の間を見れば、そこには気持ちよさそうに眠っている主様の姿。
「フェネスくん、主様をお見かけしませんでしたか?」
よほど慌てていたらしく前髪が乱れているベリアンさんがやって来た。
「主様がつまらないとおっしゃって食堂を出て行っ……おや」
ベリアンさんの視線が俺の腕に止まった。
「あらあら、フェネスくんの腕の中がよほど気持ちいいみたいですね」
ベリアンさんはそう言うけれど、どうなんだろう?
「とにかく主様をこのままにしておけないので、寝室までお運びしてきます」
ラムリとの廊下という比較的明るい場所での追いかけっこからの、燕尾の薄闇に隠れたことで疲れが出たんじゃないかな。
その後——
「フェネスがいないー!」
午後から夕食前という、長過ぎるお昼寝から目覚めた主様は、控えていたハウレスではダメだとばかりに号泣する声が屋敷中に響き渡った。
「主様、俺では駄目でしょうか?」
「ハウレスも好きよ。でもねフェネスが大好きなの」
俺が主様の寝室に到着したとき、ちょうどハウレスが主様の頬を拭って差し上げているところだった。
「さあ、主様。大好きなフェネスが到着したようですよ」
すると照れているのか、主様はハウレスの腕をポカポカ殴り始めた。
いいなぁ、ハウレス。俺も一度でいいから主様にそれをされてみたい……。
お題『終わらせないで』
「主様、あの、主様」
ツカツカなんてかわいいレベルではない、どちらかというとドカドカと歩く私の後ろから困ったと言わんばかりの声がした。声の主はきっといつも以上に八の字眉になっていることだろう。
私が何に腹を立てているかというと、こけら落としをしたばかりの劇場の向かいにあるレストラン。そこで私と食事をすることになっていたはずだったのに。
だったのに。
このあんぽんたんは予約を入れていなかったのだ。
せっかくのデートだったのに。
フェネスの方から食事に誘ってくれたのに。
私からフェネスにプレゼントもあったのに。
フェネスにとって私のこの対応は理不尽以外の何物でもないだろう。そんなことくらい分かってる。それもこれもPMSによるものだということも。
「あ、あの、主様!」
不意打ちに、フェネスが私の手首を掴んできた。
「レストランの件は本当にすみませんでした! ですが、あの、俺、主様に大事なお話があって」
大事な話? なんだろう、ちらっと聞くぐらいはいいだろうか。
立ち止まってゆっくり振り向けば、ほっとしたのか、困り眉をほどいた。
「……まだ怒っていらっしゃいますよね」
それでも不安そうに揺れている瞳に絆されて、つい「怒ってないよ」なんて言ってしまった。そして口からまろび出てきた言葉は不思議なもので、私の凝り固まった心がほぐれていく。
「本当に、ですか?」
「本当に、ですよ」
私の返事に何か思うところがあったのかもしれない。口をはくはくさせてから、顔が真っ赤に染まっていく。
「や、やっぱり今日はやめておきます!」
「えっ!?」
な、ななな、何ですと!?
「それでは屋敷に帰りましょう!」
え、あ、ちょっと! 勝手に終わらせるとか、ないわー!! このプレゼントと私の想いはどこに行けばいいのよ!?
お題『理想郷』
主様から……その、愛の告白を告げられて、俺は悩んでいる。
主様は13歳という微妙なお年頃、お断りするにしても慎重にならなくてはならない。受け入れてはいけないと思っているのには理由がある。俺は執事として、主様を赤ちゃんの頃からお世話してきた。つまりはオムツ交換を日常的にしてきたし、トイレトレーニングにもお付き合いしてきた。そのようなデリケートな面を多々知っているだけに、主様の想いを受け入れてはいけないと思っている。
しかし一方で、前の主様、つまりは主様のお母様に外見のみならず立ち居振る舞いまで似てきているのを見るにつけ、他の男に渡したくないという独占欲が沸いてくる。
俺のこの胸の内の落とし所はどこなのか……理想郷は今夜も見つかりそうにない……。
お題『きっと明日も』
「わあぁぁぁんっ! ふぇね、いない……ふわぁぁぁん……」
しまった、ハウレスに頼んでいたけど、気がつかれてしまったらしい。寝室から主様の泣き声が聞こえてきた。早く帰らないと。
控えめに、ごくごく控えめにノックをして主様の寝室に身体を滑り込ませた。そこにいたのは……。
「主様、だめです! フェネスならすぐに戻ってきますから!」
「はうれす、やー! ふぇねす、ふぇねす!」
いや、というのは本気ではない。その証拠に主様とハウレスは日中よく一緒に遊んでいる——ハウレスの腕立て伏せの背中に主様が馬乗りになるという、遊びなのかどうなのかよく分からないけれど、主様が喜んでいるからまぁいいか、といったところだけど。
「あ、ふぇねす!」
俺に気づいた主様のお顔は涙でぐしょぐしょだった。
「ああ、やっぱりフェネスじゃないと添い寝は無理だな」
助かったと言わんばかりに苦笑を漏らし、ハウレスは主様の手を取ってそこに軽く口づけを贈った。
「主様、おやすみなさいませ。どうかいい夢を」
寝室から退出していくハウレスの背中に向かって「ばいばーい」と振った手でもって今度は俺の身体にしがみついてくる。
「ふぇねしゅ、だいしゅき……いっちゃ、やー……」
そのまま寝息を立て始めた。
主様のことはお慕いしているけれど、夜泣きと後追いには少し参るなぁ。
でも、これも今だけだと思うと愛しくもある。
「ふわ……ぁ……」
なんだか俺も眠くなってきた。
おやすみなさい、主様。きっと明日も素敵な一日になりますからね……。
お題『香水』
「フェネス、今日はいつもと違う匂いがする」
主様はそう言って、鼻をスンと鳴らした。
「いつも使っているヘアオイルの香りと喧嘩しないフレグランスをつけてみたのですが……おかしいでしょうか?」
先日買った、ベースノートにムスクの香りも入った香水は、嗅いで気に入ったと同時に少し期待したのだ……その、主様にも気に入っていただけるといいな、なんて。だって、ムスクは、ジャコウジカの雄が雌を誘惑する香りだから、少しでもあやかれるかな、って。
俺の気持ちを知ってか知らずか、主様は少しだけ面白くなさそうに唇を突き出した。
「フェネスだけずるい」
思いがけない反応に、瞬きの回数が増えてしまう。
「そんな楽しそうなこと、ひとりだけずるい。私もフェネスの香りと調和する香水が欲しかったなー」
「あ、ああ、主様!?」
思った以上の反応に、俺の顔に熱が集まった。
「音楽会まで時間があるから、香水屋さんに立ち寄ってもいい?」
もちろん、俺の返事は——
それは、主様と音楽会を聴きにエスポワールの街に向かっている馬車の中でのお話。