お題『突然の君の訪問』
主様の16歳のお誕生日の翌日。
俺は約16年間にわたる担当執事生活の幕を閉じた——はずだった。
今日から主様の担当執事はハウレスだ。完璧主義のハウレスになら主様を任せても安心だと思う。
それにしても、俺は主様をお育てしてずいぶん変わったと思う。どうしようもなく卑怯で臆病者で泣き虫だった俺を救ってくれたのは、紛れもなく主様の存在だ。
主様が生まれてからというもの、泣いてる暇なんてほとんどなかった。主様がいるから卑怯な姿はお見せできないと思ったし、主様をお守りするために臆病でいることなどできなかった。
350年近くの人生の中で、たったひとときの親子ごっこだったかもしれない。無償の愛を捧げてきたつもりだったけれど、だけど実は逆で、俺が主様から無償の愛を受け取ってきたのだ。【親はなくとも子は育つ】というけれど、【子供がいるから親は育つ】ということがよく分かった。
俺は書庫の整理をしながら、後で育児生活の総括を日記にしたためるべく日々感じたことを反芻していた。
午後3時がきた。主様のお茶の用意をしなくては……そう思って日記から顔を上げて、担当執事ではなくなったことに気がついた。少し寂しくはある。
うーん、なんだかスッキリしない。
「こういうときは、ランニングかな」
近くの湖までひとっ走りすれば気分が晴れるかも。
しかし主様とお散歩した記憶が邪魔をして、胸のモヤモヤは解消されない。それならば筋トレだ。
けれども、これも主様を背中に乗せて腕立て伏せをした記憶と結びついて、ついに寂しくなってしまった。
これが空の巣症候群……? いや、でもまだ1日目だし、環境の変化に慣れていないだけかもしれないし。
夜、主様が寝付くはずの時間が過ぎた。
そろそろハウレスが仕事を終えて執事室に戻ってくるだろう。主様が1日どう過ごされたのか聞きたくて、このあと一杯付き合ってもらうことに決めた。
琥珀色の液体で満たされた瓶と、ロックグラスをふたつ。
——しかし、いくら待ってもハウレスは戻って来なかった。
まさか、主様と何かトラブル? いや、あのハウレスが何かするとかあり得ない。でももしも何かあったら俺はどうすれば……?
あまりにも気になり過ぎて、とうとう俺は主様のお部屋へと足を運んでしまった。
中からクスクスと笑う主様の声が漏れ聞こえてきた。それから「参りました」とハウレスが何やら降参している声。
「フェネスを呼んできます」
コツコツと革靴が床を叩く音が聞こえてきて、まずい! と思った時には扉が開かれていた。
「……フェネス、どうしてここに?」
「や、やぁ、ハウレス……戻ってこないから、どうしたのかな、って」
まさかハウレスを疑っていたとか、おくびにも出せない! しかしそんな俺の心中を知らないハウレスは「ちょうどよかった」と言って俺を室内に押し込んだ。
「俺の睡眠サポートだと安眠できないと言われてしまった……後は頼んだぞ」
そしてそのままハウレスは出ていってしまった。
「あ、主様?」
なんで? どうして? そんな言葉が頭の中をぐるぐると駆け巡った。
「ずっとフェネスに寝かしつけられてきたから、なんだか落ち着かなくて。ハウレスに悪いことしちゃった」
そう言って、まったく申し訳なくなさそうな顔をしていらっしゃるのは……
「フフッ」
思わず笑ってしまった。
「あー! 私のこと、子供っぽいって思ってる!」
「すみません、そうではなくて」
むくれる主様に、ほんのわずかしかない前の主様のお話をすることにした。
「前の主様が『フェネスが手を焼くような親子になる』って、俺におっしゃったのです。そのときの話し方と寸分違わぬ表情をされていたので、つい」
そのついでにいろいろ話し込んでしまった。
気がつけば主様は夢の戸口に立っていらっしゃったので、その背中を押して俺も自分の部屋へと引き返した。
お題『向かい合わせ』
主様が16歳になられた。
執事たちは皆口々にお祝いの言葉を述べていく。俺もその中のひとりだ。
「主様、お誕生日おめでとうございます。ひとりの人としてすっかり立派にお育ちになられて、俺も嬉しいです。
でもその一方で……もう育児が終わってしまったんだな、と思うと寂しく思う俺もいます。俺の名前を呼びながら一生懸命ハイハイをなさっていたのがつい先日のように……」
あ、だめだ、このままだと泣いてしまう。それを悟られたくなくてレンズを拭くふりをしてモノクルを外せば白いハンカチが差し出された。
「もう、フェネス、おおげさ。それじゃあまるで結婚式のスピーチじゃないの」
すみません、とハンカチを受け取り涙を拭えば、そこには前の主様に瓜二つのお顔がある。
結婚式、という言葉で思い出した。
「あの……よかったら前の主様——お母様のお写真をご覧になりますか?」
主様は目をぱちくりさせている。
「嘘……写真があるだなんて、聞いてない……」
「ええ、今までお話しませんでしたからね」
すぐにご用意します、と言い残して一旦2階の執事室に戻った。棚に眠らせている膨大な日記帳と主様からいただいた絵などの奥に、目的のアルバムが眠っている。
主様がこの屋敷にやってきてすぐの頃に撮った、エスポワールの写真館の宣伝用に撮影したウェディング姿の、前の主様と俺の写真。雰囲気作りのためとはいえ、愛の誓いを立てさせていただいたのも記憶に新しくて頬に血が集まってくる。
「今は感傷に浸ってる場合じゃない」
本来の目的を果たすべく、主様の部屋に向かった。
アルバムを広げた主様はしばらく無言で見入っていた。
「おかあさん……」
そう呟くと、堰を切ったように涙を流し始めた。俺がハンカチを差し出せば、目元をゴシゴシ拭い、ついでに鼻をかんでいる。
「やだ、大袈裟なのは私の方だわ。ごめんね、フェネスとお母さん。私、今猛烈に嬉しさと嫉妬でぐちゃぐちゃになってるの」
「嫉妬、ですか?」
「そうよ、嫉妬よ。私より先にフェネスとウェディングドレス着て幸せそうに笑ってるのがこの上なく悔しいの! でも……」
主様の人差し指が、前の主様の輪郭をやさしく撫でた。
「お母さん、ちゃんと幸せだったのね。……よかった」
お題『海へ』
主様を水の都・ヴェリスにお連れしたことがある。
「悪魔執事の主の情操教育にいいのでは?」とフィンレイ様が言ってくださったおかげで、3歳だった主様ととある貴族のプライベートビーチに行ったのだった。
これはそのときの記憶。
衣装係のフルーレに手伝ってもらい、水着にお着替えした主様が登場した。その場にいた執事たちは全員両手で口を覆い、それからたっぷり3秒は置いて「かわいい……」とため息混じり。
その気持ちもよく分かる。俺も屋敷で水着を試着したお姿を見て膝から崩れ落ちた。ツーピースのデザインは、トップスがパフスリーブになっていて、そこにボリュームがあるので幼児体系特有のぽんぽこおなかをカバーしている。パンツもかぼちゃを彷彿とさせるラインで、こちらもまた体型補正として申し分ない。
そんな俺たちの視線などどこ吹く風、主様は早く海に入りたくてウズウズしている。
「主様に日焼け止めはもう塗った?」
フルーレに声をかければ、はい、と軽やかな返事。
「念入りに塗りましたから。さぁ、いつでも海へどうぞ」
楽しそうに歌う波しぶき。
真っ白に焼けた砂浜。
空高く響くカモメの鳴き声。
そして俺の左手には主様の右手。
俺にとって、この状況が楽しくないわけがない。いつものように片膝をついて主様を抱え上げようとした。
「さぁ、行きましょう。主様」
しかし主様は俺の抱っこを拒否する。
「どうされたのですか?」
「わたし、あるきたいきぶんなの」
近頃は前にも増して自己主張がはっきりしてきたので、それが間違った主張(例えば誰かを傷つけたり貶めたりするようなもの)でなければ、割と何でも聞き入れている。
「そうでございますか。それでは波打ち際まで一緒に歩きましょうね。足元にご注意ください」
キュッ、キュッ。
2、3歩歩くと足元で音が鳴り、主様の表情がぱあぁっと輝いた。
「きれいな砂浜は歩くと音が鳴るんです。お気に召していただけましたか?」
主様はコクコク頷きながら何度も何度もその場で足踏みを繰り返している。その様を浜辺待機組も水中待機組も頬を緩めながらのんびり見守っているらしく、誰も急かしたりなどしない。
しばらく足音を堪能していた主様も、いよいよ穏やかな波打ち際へと歩き始めた。
しかし主様は水面まで僅か1メートルほどのところで立ち止まってしまった。
「ふぇね、かえりゅ、」
「どうされたのですか?」
しゃがんで目の高さを主様に合わせると、今にもシーグラスのような涙がこぼれ落ちそうになっている。
「こわいぃぃぃ! かえるうぅぅぅ!」
主様が大泣きしていると、そこに、ザザーン、と大波がきた。危ないと思い咄嗟に抱きしめたけど、波が引いてしまえばふたりともずぶ濡れで……主様はきょとんとしている。
「主様、怖かったですか?」
このことがトラウマになったら可哀想だなぁ……という俺の思いは、いい意味で裏切られた。
「ううん! たのしい! わたしもふぇねすもびっしょり!」
いつになく大はしゃぎで、キャハキャハと笑っていらっしゃって、海にお連れしてよかったと心の底から嬉しくなった。
その日はお昼寝も忘れて遊んだので、夕方はぜんまいの切れたオルゴールのように静かになった。旅程は1週間、最初から飛ばしすぎたかな?
これは俺と主様の、大切な思い出。
お題『いつまでも捨てられないもの』
月日というのは早いもので、主様はもうすぐ14歳になろうとしている。生まれたのは本当に最近な気がするけど、それだけ俺が長生きしているということか。
主様は、今日は朝から熱心にデッサンをしている。モデルは俺。うーん、俺なんかよりもっと絵画映えする執事もいると思うのに……たとえばハウレスとか……。
「主様、そろそろ休憩になさいませんか? 頑張りすぎるのはよくないですよ」
「うーん……あともうちょい……」
「先ほどもそうおっしゃいました。それに、同じ姿勢をずっと続けている俺も疲れました。少し休憩したいです」
最近学んだこと。それは、俺がこういう風に言えば、主様はきちんと休憩してくださるということ。
「うぅぅ……分かった! フェネスがかわいそうだから休憩してあげる!!」
スケッチブックをテーブルにうつ伏せにして置くと盛大に伸びをした主様は、先ほどまで眉間に皺を寄せていたのと同一人物とは思えないほど、あどけない表情を見せている。
「それではお茶をご用意いたしますね。何かご希望はございますか?」
両手を握りしめて伸びをしたまま椅子の背もたれに上半身を預けている主様は、あくびをひとつした。
「ニルギリのアイスミルクティー。ほんのり甘めで」
「フフッ、かしこまりました」
グラスが汗をかき始める頃に部屋の扉をノックしたけれど、反応がない。どうしたんだろう?
「主様? フェネスです。入りますね」
断りを入れて扉を開けば、主様はまた熱心にスケッチブックと向き合っていた。
「ニルギリのアイスミルクティーです」
「んんー……あともうちょい」
主様、11年前と変わっていないなぁ……。
「アイスミルクティー」
「ん?」
シャッシャッと走っていた鉛筆の音が止まった。
「デッサンは逃げませんが、アイスミルクティーは薄くなってしまいます」
「うぅ……フェネスには敵わないなー」
ふぅ、とため息をついた主様の肩越しに見えたのは、椅子に座って窓の外に視線を投げている俺の姿だ。
まだ主様が2歳だった頃に、紙面いっぱいに赤い丸を描いた画用紙を俺は今でも大事に持っている。その赤い丸は屋敷中にボスキが飾った紅い薔薇だと思っていたけれど、実は俺を描いたものだと知ってからますます捨てられなくなった。多分今描かれているデッサンも俺は捨てられないだろうな。
お題『君の奏でる音』
お風呂の掃除をしていると、すっかり聴き慣れた旋律が流れてきた。食堂のピアノで主様が単独リサイタルをされているようだ。
日中こうも暑いと、さすがに畑仕事が趣味の主様といえど、外に出る気力も湧かないらしい。街の子どもたちを集めて開く勉強会も夏休みだと先日ミヤジさんから聞いた。
そういえば主様は、今年は茄子と胡瓜を植えたとおっしゃっていたなぁ。
「ボスキの燻製と交換してもらうの」
種まきを終えたときの主様の笑顔はいつになく邪悪に満ちていて、いつの間にそんな表情まで身につけてしまったのかと驚いた。しかしそれは多分ボスキ本人の笑い方を覚えたのだろう、口の端の上げ方がそっくりだった。
あれ? 音が増えた? ……これは連弾かな。そう思っているうちにチェロの音まで加わってきたので、おそらくミヤジさんとラトが一緒なのだろう。
だけど、主様の音だけは、俺は聴き取れる。ほら、多分ミスした。それを誤魔化すように演奏が走り出す。でもさすがというか、ミヤジさんとラトはそれにぴったり合わせていく。このトリオならではの演奏に、俺も鼻歌で参加する。
早くお風呂掃除を済ませて水風呂を用意して、俺も演奏会に駆けつけよう。