お題『理想郷』
主様から……その、愛の告白を告げられて、俺は悩んでいる。
主様は13歳という微妙なお年頃、お断りするにしても慎重にならなくてはならない。受け入れてはいけないと思っているのには理由がある。俺は執事として、主様を赤ちゃんの頃からお世話してきた。つまりはオムツ交換を日常的にしてきたし、トイレトレーニングにもお付き合いしてきた。そのようなデリケートな面を多々知っているだけに、主様の想いを受け入れてはいけないと思っている。
しかし一方で、前の主様、つまりは主様のお母様に外見のみならず立ち居振る舞いまで似てきているのを見るにつけ、他の男に渡したくないという独占欲が沸いてくる。
俺のこの胸の内の落とし所はどこなのか……理想郷は今夜も見つかりそうにない……。
お題『きっと明日も』
「わあぁぁぁんっ! ふぇね、いない……ふわぁぁぁん……」
しまった、ハウレスに頼んでいたけど、気がつかれてしまったらしい。寝室から主様の泣き声が聞こえてきた。早く帰らないと。
控えめに、ごくごく控えめにノックをして主様の寝室に身体を滑り込ませた。そこにいたのは……。
「主様、だめです! フェネスならすぐに戻ってきますから!」
「はうれす、やー! ふぇねす、ふぇねす!」
いや、というのは本気ではない。その証拠に主様とハウレスは日中よく一緒に遊んでいる——ハウレスの腕立て伏せの背中に主様が馬乗りになるという、遊びなのかどうなのかよく分からないけれど、主様が喜んでいるからまぁいいか、といったところだけど。
「あ、ふぇねす!」
俺に気づいた主様のお顔は涙でぐしょぐしょだった。
「ああ、やっぱりフェネスじゃないと添い寝は無理だな」
助かったと言わんばかりに苦笑を漏らし、ハウレスは主様の手を取ってそこに軽く口づけを贈った。
「主様、おやすみなさいませ。どうかいい夢を」
寝室から退出していくハウレスの背中に向かって「ばいばーい」と振った手でもって今度は俺の身体にしがみついてくる。
「ふぇねしゅ、だいしゅき……いっちゃ、やー……」
そのまま寝息を立て始めた。
主様のことはお慕いしているけれど、夜泣きと後追いには少し参るなぁ。
でも、これも今だけだと思うと愛しくもある。
「ふわ……ぁ……」
なんだか俺も眠くなってきた。
おやすみなさい、主様。きっと明日も素敵な一日になりますからね……。
お題『香水』
「フェネス、今日はいつもと違う匂いがする」
主様はそう言って、鼻をスンと鳴らした。
「いつも使っているヘアオイルの香りと喧嘩しないフレグランスをつけてみたのですが……おかしいでしょうか?」
先日買った、ベースノートにムスクの香りも入った香水は、嗅いで気に入ったと同時に少し期待したのだ……その、主様にも気に入っていただけるといいな、なんて。だって、ムスクは、ジャコウジカの雄が雌を誘惑する香りだから、少しでもあやかれるかな、って。
俺の気持ちを知ってか知らずか、主様は少しだけ面白くなさそうに唇を突き出した。
「フェネスだけずるい」
思いがけない反応に、瞬きの回数が増えてしまう。
「そんな楽しそうなこと、ひとりだけずるい。私もフェネスの香りと調和する香水が欲しかったなー」
「あ、ああ、主様!?」
思った以上の反応に、俺の顔に熱が集まった。
「音楽会まで時間があるから、香水屋さんに立ち寄ってもいい?」
もちろん、俺の返事は——
それは、主様と音楽会を聴きにエスポワールの街に向かっている馬車の中でのお話。
お題『突然の君の訪問』
主様の16歳のお誕生日の翌日。
俺は約16年間にわたる担当執事生活の幕を閉じた——はずだった。
今日から主様の担当執事はハウレスだ。完璧主義のハウレスになら主様を任せても安心だと思う。
それにしても、俺は主様をお育てしてずいぶん変わったと思う。どうしようもなく卑怯で臆病者で泣き虫だった俺を救ってくれたのは、紛れもなく主様の存在だ。
主様が生まれてからというもの、泣いてる暇なんてほとんどなかった。主様がいるから卑怯な姿はお見せできないと思ったし、主様をお守りするために臆病でいることなどできなかった。
350年近くの人生の中で、たったひとときの親子ごっこだったかもしれない。無償の愛を捧げてきたつもりだったけれど、だけど実は逆で、俺が主様から無償の愛を受け取ってきたのだ。【親はなくとも子は育つ】というけれど、【子供がいるから親は育つ】ということがよく分かった。
俺は書庫の整理をしながら、後で育児生活の総括を日記にしたためるべく日々感じたことを反芻していた。
午後3時がきた。主様のお茶の用意をしなくては……そう思って日記から顔を上げて、担当執事ではなくなったことに気がついた。少し寂しくはある。
うーん、なんだかスッキリしない。
「こういうときは、ランニングかな」
近くの湖までひとっ走りすれば気分が晴れるかも。
しかし主様とお散歩した記憶が邪魔をして、胸のモヤモヤは解消されない。それならば筋トレだ。
けれども、これも主様を背中に乗せて腕立て伏せをした記憶と結びついて、ついに寂しくなってしまった。
これが空の巣症候群……? いや、でもまだ1日目だし、環境の変化に慣れていないだけかもしれないし。
夜、主様が寝付くはずの時間が過ぎた。
そろそろハウレスが仕事を終えて執事室に戻ってくるだろう。主様が1日どう過ごされたのか聞きたくて、このあと一杯付き合ってもらうことに決めた。
琥珀色の液体で満たされた瓶と、ロックグラスをふたつ。
——しかし、いくら待ってもハウレスは戻って来なかった。
まさか、主様と何かトラブル? いや、あのハウレスが何かするとかあり得ない。でももしも何かあったら俺はどうすれば……?
あまりにも気になり過ぎて、とうとう俺は主様のお部屋へと足を運んでしまった。
中からクスクスと笑う主様の声が漏れ聞こえてきた。それから「参りました」とハウレスが何やら降参している声。
「フェネスを呼んできます」
コツコツと革靴が床を叩く音が聞こえてきて、まずい! と思った時には扉が開かれていた。
「……フェネス、どうしてここに?」
「や、やぁ、ハウレス……戻ってこないから、どうしたのかな、って」
まさかハウレスを疑っていたとか、おくびにも出せない! しかしそんな俺の心中を知らないハウレスは「ちょうどよかった」と言って俺を室内に押し込んだ。
「俺の睡眠サポートだと安眠できないと言われてしまった……後は頼んだぞ」
そしてそのままハウレスは出ていってしまった。
「あ、主様?」
なんで? どうして? そんな言葉が頭の中をぐるぐると駆け巡った。
「ずっとフェネスに寝かしつけられてきたから、なんだか落ち着かなくて。ハウレスに悪いことしちゃった」
そう言って、まったく申し訳なくなさそうな顔をしていらっしゃるのは……
「フフッ」
思わず笑ってしまった。
「あー! 私のこと、子供っぽいって思ってる!」
「すみません、そうではなくて」
むくれる主様に、ほんのわずかしかない前の主様のお話をすることにした。
「前の主様が『フェネスが手を焼くような親子になる』って、俺におっしゃったのです。そのときの話し方と寸分違わぬ表情をされていたので、つい」
そのついでにいろいろ話し込んでしまった。
気がつけば主様は夢の戸口に立っていらっしゃったので、その背中を押して俺も自分の部屋へと引き返した。
お題『向かい合わせ』
主様が16歳になられた。
執事たちは皆口々にお祝いの言葉を述べていく。俺もその中のひとりだ。
「主様、お誕生日おめでとうございます。ひとりの人としてすっかり立派にお育ちになられて、俺も嬉しいです。
でもその一方で……もう育児が終わってしまったんだな、と思うと寂しく思う俺もいます。俺の名前を呼びながら一生懸命ハイハイをなさっていたのがつい先日のように……」
あ、だめだ、このままだと泣いてしまう。それを悟られたくなくてレンズを拭くふりをしてモノクルを外せば白いハンカチが差し出された。
「もう、フェネス、おおげさ。それじゃあまるで結婚式のスピーチじゃないの」
すみません、とハンカチを受け取り涙を拭えば、そこには前の主様に瓜二つのお顔がある。
結婚式、という言葉で思い出した。
「あの……よかったら前の主様——お母様のお写真をご覧になりますか?」
主様は目をぱちくりさせている。
「嘘……写真があるだなんて、聞いてない……」
「ええ、今までお話しませんでしたからね」
すぐにご用意します、と言い残して一旦2階の執事室に戻った。棚に眠らせている膨大な日記帳と主様からいただいた絵などの奥に、目的のアルバムが眠っている。
主様がこの屋敷にやってきてすぐの頃に撮った、エスポワールの写真館の宣伝用に撮影したウェディング姿の、前の主様と俺の写真。雰囲気作りのためとはいえ、愛の誓いを立てさせていただいたのも記憶に新しくて頬に血が集まってくる。
「今は感傷に浸ってる場合じゃない」
本来の目的を果たすべく、主様の部屋に向かった。
アルバムを広げた主様はしばらく無言で見入っていた。
「おかあさん……」
そう呟くと、堰を切ったように涙を流し始めた。俺がハンカチを差し出せば、目元をゴシゴシ拭い、ついでに鼻をかんでいる。
「やだ、大袈裟なのは私の方だわ。ごめんね、フェネスとお母さん。私、今猛烈に嬉しさと嫉妬でぐちゃぐちゃになってるの」
「嫉妬、ですか?」
「そうよ、嫉妬よ。私より先にフェネスとウェディングドレス着て幸せそうに笑ってるのがこの上なく悔しいの! でも……」
主様の人差し指が、前の主様の輪郭をやさしく撫でた。
「お母さん、ちゃんと幸せだったのね。……よかった」