お題『海へ』
主様を水の都・ヴェリスにお連れしたことがある。
「悪魔執事の主の情操教育にいいのでは?」とフィンレイ様が言ってくださったおかげで、3歳だった主様ととある貴族のプライベートビーチに行ったのだった。
これはそのときの記憶。
衣装係のフルーレに手伝ってもらい、水着にお着替えした主様が登場した。その場にいた執事たちは全員両手で口を覆い、それからたっぷり3秒は置いて「かわいい……」とため息混じり。
その気持ちもよく分かる。俺も屋敷で水着を試着したお姿を見て膝から崩れ落ちた。ツーピースのデザインは、トップスがパフスリーブになっていて、そこにボリュームがあるので幼児体系特有のぽんぽこおなかをカバーしている。パンツもかぼちゃを彷彿とさせるラインで、こちらもまた体型補正として申し分ない。
そんな俺たちの視線などどこ吹く風、主様は早く海に入りたくてウズウズしている。
「主様に日焼け止めはもう塗った?」
フルーレに声をかければ、はい、と軽やかな返事。
「念入りに塗りましたから。さぁ、いつでも海へどうぞ」
楽しそうに歌う波しぶき。
真っ白に焼けた砂浜。
空高く響くカモメの鳴き声。
そして俺の左手には主様の右手。
俺にとって、この状況が楽しくないわけがない。いつものように片膝をついて主様を抱え上げようとした。
「さぁ、行きましょう。主様」
しかし主様は俺の抱っこを拒否する。
「どうされたのですか?」
「わたし、あるきたいきぶんなの」
近頃は前にも増して自己主張がはっきりしてきたので、それが間違った主張(例えば誰かを傷つけたり貶めたりするようなもの)でなければ、割と何でも聞き入れている。
「そうでございますか。それでは波打ち際まで一緒に歩きましょうね。足元にご注意ください」
キュッ、キュッ。
2、3歩歩くと足元で音が鳴り、主様の表情がぱあぁっと輝いた。
「きれいな砂浜は歩くと音が鳴るんです。お気に召していただけましたか?」
主様はコクコク頷きながら何度も何度もその場で足踏みを繰り返している。その様を浜辺待機組も水中待機組も頬を緩めながらのんびり見守っているらしく、誰も急かしたりなどしない。
しばらく足音を堪能していた主様も、いよいよ穏やかな波打ち際へと歩き始めた。
しかし主様は水面まで僅か1メートルほどのところで立ち止まってしまった。
「ふぇね、かえりゅ、」
「どうされたのですか?」
しゃがんで目の高さを主様に合わせると、今にもシーグラスのような涙がこぼれ落ちそうになっている。
「こわいぃぃぃ! かえるうぅぅぅ!」
主様が大泣きしていると、そこに、ザザーン、と大波がきた。危ないと思い咄嗟に抱きしめたけど、波が引いてしまえばふたりともずぶ濡れで……主様はきょとんとしている。
「主様、怖かったですか?」
このことがトラウマになったら可哀想だなぁ……という俺の思いは、いい意味で裏切られた。
「ううん! たのしい! わたしもふぇねすもびっしょり!」
いつになく大はしゃぎで、キャハキャハと笑っていらっしゃって、海にお連れしてよかったと心の底から嬉しくなった。
その日はお昼寝も忘れて遊んだので、夕方はぜんまいの切れたオルゴールのように静かになった。旅程は1週間、最初から飛ばしすぎたかな?
これは俺と主様の、大切な思い出。
お題『いつまでも捨てられないもの』
月日というのは早いもので、主様はもうすぐ14歳になろうとしている。生まれたのは本当に最近な気がするけど、それだけ俺が長生きしているということか。
主様は、今日は朝から熱心にデッサンをしている。モデルは俺。うーん、俺なんかよりもっと絵画映えする執事もいると思うのに……たとえばハウレスとか……。
「主様、そろそろ休憩になさいませんか? 頑張りすぎるのはよくないですよ」
「うーん……あともうちょい……」
「先ほどもそうおっしゃいました。それに、同じ姿勢をずっと続けている俺も疲れました。少し休憩したいです」
最近学んだこと。それは、俺がこういう風に言えば、主様はきちんと休憩してくださるということ。
「うぅぅ……分かった! フェネスがかわいそうだから休憩してあげる!!」
スケッチブックをテーブルにうつ伏せにして置くと盛大に伸びをした主様は、先ほどまで眉間に皺を寄せていたのと同一人物とは思えないほど、あどけない表情を見せている。
「それではお茶をご用意いたしますね。何かご希望はございますか?」
両手を握りしめて伸びをしたまま椅子の背もたれに上半身を預けている主様は、あくびをひとつした。
「ニルギリのアイスミルクティー。ほんのり甘めで」
「フフッ、かしこまりました」
グラスが汗をかき始める頃に部屋の扉をノックしたけれど、反応がない。どうしたんだろう?
「主様? フェネスです。入りますね」
断りを入れて扉を開けば、主様はまた熱心にスケッチブックと向き合っていた。
「ニルギリのアイスミルクティーです」
「んんー……あともうちょい」
主様、11年前と変わっていないなぁ……。
「アイスミルクティー」
「ん?」
シャッシャッと走っていた鉛筆の音が止まった。
「デッサンは逃げませんが、アイスミルクティーは薄くなってしまいます」
「うぅ……フェネスには敵わないなー」
ふぅ、とため息をついた主様の肩越しに見えたのは、椅子に座って窓の外に視線を投げている俺の姿だ。
まだ主様が2歳だった頃に、紙面いっぱいに赤い丸を描いた画用紙を俺は今でも大事に持っている。その赤い丸は屋敷中にボスキが飾った紅い薔薇だと思っていたけれど、実は俺を描いたものだと知ってからますます捨てられなくなった。多分今描かれているデッサンも俺は捨てられないだろうな。
お題『君の奏でる音』
お風呂の掃除をしていると、すっかり聴き慣れた旋律が流れてきた。食堂のピアノで主様が単独リサイタルをされているようだ。
日中こうも暑いと、さすがに畑仕事が趣味の主様といえど、外に出る気力も湧かないらしい。街の子どもたちを集めて開く勉強会も夏休みだと先日ミヤジさんから聞いた。
そういえば主様は、今年は茄子と胡瓜を植えたとおっしゃっていたなぁ。
「ボスキの燻製と交換してもらうの」
種まきを終えたときの主様の笑顔はいつになく邪悪に満ちていて、いつの間にそんな表情まで身につけてしまったのかと驚いた。しかしそれは多分ボスキ本人の笑い方を覚えたのだろう、口の端の上げ方がそっくりだった。
あれ? 音が増えた? ……これは連弾かな。そう思っているうちにチェロの音まで加わってきたので、おそらくミヤジさんとラトが一緒なのだろう。
だけど、主様の音だけは、俺は聴き取れる。ほら、多分ミスした。それを誤魔化すように演奏が走り出す。でもさすがというか、ミヤジさんとラトはそれにぴったり合わせていく。このトリオならではの演奏に、俺も鼻歌で参加する。
早くお風呂掃除を済ませて水風呂を用意して、俺も演奏会に駆けつけよう。
お題『麦わら帽子』
主様が13歳の夏は水の都・ヴェリスに来ている。貴族の依頼で祭りの警備のためにデビルズパレス一同でやって来たのだけれど、道中主様はずっと不安そうだった。
「畑の野菜、大丈夫かな? 留守中にちゃんと水遣りしてもらえるって本当に信じていいの?」
「はい、大丈夫ですよ。屋敷の世話をしてくれるようグロバナー家にはきちんと話を通していますから」
「でも、アモンのお庭は……」
「そちらもきちんと頼んでいますから大丈夫です」
「だけど貴族との約束だなんて……」
このやりとりを何度しただろうか? 主様は本当に貴族のことが好きではなく、全然信頼もしていないらしい。まぁ、今までが今までだっただけに、貴族への心象が言い訳はないのだけれど。
「それよりも主様。そろそろヴェリスに到着いたしますよ。ヴェリスに着いたら真っ先に日焼け止めクリームを塗りますからね。あと、麦わら帽子もお忘れなく」
麦わら帽子と聞いて、お顔の色がパッと晴れた。
「うん、海だもんね。紫外線から目を守るためにもツバの広い帽子は欠かせないんだよね?」
「はい、その通りです」
そう、主様は13歳にして初の海辺の旅だ。仕事2割くらいで、あとはめいっぱい楽しんでいただかなくては。
お題『上手くいかなくたっていい』
『いいですか、主様。上手くいかなくたっていいんです。もちろん上手くいった方がいいかとは思いますが、一番大事なのは楽しめるかどうかではありませんか』
貴族に招かれたパーティーで上手くワルツを踊れなかった主様に俺が言った言葉だ。
それは主様が11歳だったときのこと。履き慣れないヒールで思いっきり俺の足を踏んでしまい、下手くそなパートナーでごめんなさいと謝られたときに咄嗟に口から出てきた。
俺の言葉を聞き、涙目を手の甲で拭いながらこくんと頷いた主様に俺はお願いした。
「もう一度、俺と踊っていただけませんか?」
あれから二年後。
「うう、俺はなんてダメな執事なんだ……」
今日も失敗をしてしまった。主様と出かけた際に起こったトラブルに気が回らなかったのだ。そういうわけで今は書庫でひとり反省会をしているところだ。
「わっ!!」
「うわっ!?」
突然背後で大声を上げられ、俺は椅子から転げ落ちるところだった。振り向けば主様がいて、ニシシと笑っている。
「フェネス、昼間に私が街で転んで膝を擦りむいたことで落ち込んでるでしょ?」
「……本当にすみませんでした……」
俺が項垂れればそのまま両手で頬をベチッと挟まれた。
「確かに膝は痛いけど、それよりもフェネスが凹んでいる方が私の胸は痛い。それにフェネス、私に言った事があるでしょ? 大事なのは結果より過程だって。私はフェネスとふたりで久しぶりに街までお出かけできて嬉しかった。だからフェネスもそれを楽しんでくれてたらもっと嬉しい」
ああ、優しくお育ちになられたなぁ。
そのことも日記に書き留めておくことにしよう。