お題『手を取り合って』
パカラ……パカラ……。
書庫にまで響いてきた蹄の音に、馬車が屋敷の前に停まったらしいことを知る。出かけていた主様のお出迎えに行こうと思い、椅子の背に掛けておいた燕尾服に手を伸ばして、そういえば休みを申しつけられていたのだと思い出した。
俺が行くのは不自然かな……でも俺はつい今朝まで主様の担当執事だった。その俺が顔を出したところで別に何も不都合はないだろう。
そう思ってもう一度燕尾服に袖を通してエントランスに向かった。
それはやはり主様の馬車だった。アモンに手を取られて下車する主様の姿に胸の奥がズクリと疼く。
「お帰りなさいませ、主様」
気を取り直して恭しく頭を下げると、主様はなぜかアモンの背後に隠れてしまった。
「フェネスにはお休みしてって言ったじゃない! なのになんでここにいるの!?」
アモン越しに怒っている主様を見て、俺は咄嗟に奥歯を噛み締めた。いけない、泣いては。涙で主様の興味を一時的にでも引こうなんて、それじゃあ俺はますます卑怯者になってしまう。
「主様、その言い方じゃフェネスさんが可哀想っすよ」
「でも……」
「それに、そろそろお茶の時間っす。コンサバトリーにご案内するっすよ。オレのオススメがちょうど見頃なんで」
主様はまだ何か言いたげだったけれど「まぁいい」と言って、またアモンの手に手を重ねた。
主様をリードするのは俺だけだと思っていたのに。
主様がアモンとコンサバトリーに向かうのを見届けると、俺はその場に蹲った。
お題『優越感、劣等感』
主様の担当執事として、これほど身に余る光栄はないと思う。主様は俺があやせばすぐに泣き止むことが多かったけど、喃語を卒業して少しずつお話ができるようになる頃には完全に俺にべったりで、他の執事たちが担当することはまずなかった。
——主様唯一の担当執事——
俺は、ずっとその優越感に浸っていた。
それなのに。
主様が11歳の誕生日をお迎えになる数日前のこと。
「おはようございます、主様」
てっきりまだねぼけまなこだろうと思っていたのに、主様は既に外出用のワンピースに袖を通していて、窓を少しだけ開けて外を見ていた。
「……決めた」
何を決めたというのだろう? 俺が口を開くよりも早く、主様はこちらを振り向いた。
「今日からしばらく担当執事はアモンにしてちょうだい」
あまりにも急なことすぎて思考が追いつかない。一体主様は今何とおっしゃった?
「アモンと街までお出かけしたいの! 今日からしばらくフェネスはお休みしてていいから」
主様は再び窓の外に目を向けた。視線を追うと庭の草花に水遣りをしているアモンの姿があった。
もしかして、これは事実上の更迭というやつなのか?
俺……主様に嫌われるようなことを何かやったかな? 記憶を探ってもこれと言って思い当たることが……うう、ありすぎる。というかそもそも俺なんかを今まで担当にしてくださっていたのが不思議すぎる。
暇を言い渡された俺は書庫の整理をしつつ、ふとバルコニーから外を窺った。
そこには、仲良く馬車に乗り込もうとしているふたりがいて、それ以上見ていられなくて書庫の奥に引っ込んで嗚咽を噛み殺した。
お題『これまでずっと』
他の執事たちでは泣き止ませることができなかった赤ちゃん主様。なぜか俺があやすとぴたりと泣き止むものだから、自然とそのまま主様担当執事に俺は選ばれ、以来十年近くお育てしている。
一緒に出かけることをデートという主様だけど、街の人たちからはよく父娘に間違えられている。俺と主様は実の親子よりも、もしかしたらずっとずっと愛し愛されているかもしれない。
俺はこれまでずっとそうだったように、その幸せはこれからも続いていくものだとばかり思っていた。
——そう、主様が反抗期に入るまでは——
お題『1件のLINE』
前の主様が亡くなった日のこと。
前の主様——便宜上、以降主様と表記——の持ち物の中にあった、手のひらに収まるくらいの赤い板から突然音が聞こえてきた。
板の表面は光っていて、何か文字が刻まれている。主様の私物を勝手に見るのは良心が咎めた。けれどそれ以上に、文字が浮かび上がる板に興味が沸いてしまった。
主様は以前、その板のことを『フェネスのイメージカラーにしたの』と言いながら見せてくださったことがある。『これはカメラもついていて、この世界のカメラみたいに長い時間じっとしていなくてもいいの』ともおっしゃっていて、何枚か撮っていただいたこともあった。『アルバムがなくても持ち歩けるの』と言い、俺と主様が一緒に写っている写真を表面に貼り付けて、とても大事そうにしていらっしゃった。
その板に、わずか2行ほどの文章が見てとれた。
【お誕生日おめでとう。ずっとずっと、愛してる】
その文字が消えた途端、戸惑って引き攣り笑いの俺と最高に幸せそうな笑顔の主様の画像も消えてしまった。
一体誰からの、誰に宛てたメッセージだったのか。
折しもその日は主様の誕生日であり……主様が俺にくださった、俺の誕生日でもあった。
その時以降、その板は音を鳴らすことも、光ることもなくなった。主様のあの眩い笑顔はもう俺の瞼の裏にしか存在しない。
お題『目が覚めると』
数十年ぶりに熱が出た。それから、頭痛と咳。医療係のルカスさんから風邪のお墨付き(?)を貰い、主様の担当執事を誰かに代わってもらって本格的に寝込むこととなってしまった。
正直、主様の担当は誰にも譲りたくない。だけどミヤジさんから言われてしまった。
「主様にうつしてはいけないよ」
それはもっともなことだと思い、夏だというのに布団を引きかぶって枕に頭を預けた。
しばらくすると咳止めの薬が切れたらしく、喉のいがらっぽさが不快で目が覚めた。どれくらい眠っただろうか。
ぼんやりしたまま寝返りを打てば、体中の関節という関節が悲鳴を上げた。ここまでの風邪は百六年ぶり。頭痛もしてきて、泣きたくもないのに涙が滲んでくる。ルカスさんのところに行って追加の薬をもらってこようと起き上がったら、まっすぐ立てなくてヨロヨロしてしまう。
キィ、と扉が開いた。同室の執事が帰ってきたのかと思ったら、料理人のロノが入ってきた。
「フェネスさん! 何やってるんですか!?」
脇を支えられてそのまま再びベッドに押し込まれそうになったけど、あまりにも汗をかきすぎていて気持ち悪い。
「ロノ、悪いんだけどそこの戸棚からタオル取って……」
掠れた声しか出てこない。でも伝わって、小机に何かを置くとロノは戸棚に手を伸ばしてくれる。そうして無事タオルを手に入れることができた。
「シーツまでぐっしょりですね……交換するんで待っててください」
一旦椅子まで運ばれて、そこでまたぐったりしかけたところで、それが目に留まった。
スライスレモンとミントのウォータージャグだ。水分不足を心配したロノが用意してくれたんだろう。俺はありがたく貰うことにした。
ひと口飲み込んで、顔をしかめてしまう。水を飲んでも喉が痛い。
本当に治るのか不安になってきた。
ロノがナックを呼んできてくれてベッドのシーツはきれいなものと取り替えられた。パジャマもなんとか着替えて、薬をもらって再び寝床で目を閉じた。
主様が知らない奴らに攫われそうになっている光景が見えてきた。俺は追いかけたいのに脚がもたついて、全然追いつけない。
主様! 主様! 必ずお助けしますから……でも俺なんかに主様をお助けするなんてことはできないのかもしれない……。
眼尻を、涙が伝う。
——主様——
きゅっと、手を握られる感触。
大丈夫よフェネス。
姉さんにそう言われた気がして、目を開けた。
しかし……そこに居たのは姉さんではなく、主様だった……。
頭がうまく働かない。でも、主様は確か、俺のそばにいてはいけないんじゃなかったっけ?
ぼんやりしていると、さらに強く手を握られた。
「弱っているときってひとりでいるとさみしいでしょ。だから私がそばにいてあげるから。フェネス、だいじょうぶ、だいじょうぶ」
そこに、ノックが聞こえてきた。
「やばっ! ハウレスをふりきったのに!」
辺りを見回した主様は、あろうことか俺のベッドに潜り込もうとする。
「あ、主様!?」
俺が慌てて声を上げて、喉が痛くて咳き込んでいると、ドアが開いて案の定そこにはハウレスが。ハウレスは俺の掛け布団からお尻だけ出ている主様を見つけたのだった。
「主様はフェネスのために飲み水を用意したではありませんか?」
「……フェネスがしんぱい」
そのお心遣いは嬉しかったけれど。
「主様、ハウレスの言うことを聞いてください」
「でも……」
そうだ。主様に、俺はお礼を言わないと。
「ありがとうございます。お水、美味しかったです」
主様のまろい頬をひと撫でして、
「主様が、俺を助けてくださったので、次は俺がお助けします。必ず。だから、ハウレスの言うことを聞いて、ください」
主様がハウレスと出ていくのを見送って、俺は再び目を閉じた。
後日。
俺が元気になった頃、同室のハウレス、ボスキ、アモンの三人がダウンした。
幸いなことに主様にはうつっていなくて、でも三人の世話で手が回らなくなり、主様の担当に戻るまでまたしばらくかかったのだった。