お題『入道雲』
遠くで雷が鳴った。
大きな、大きな、もくもくとした雲がのっしのっしと近づいてきて、頭の上で泣き出した。
あまりにも激しく泣くものだから、私は言ったの。
『あなたの涙は私を部屋に閉じ込めたけれど、草木や作物をうるおしてくれた。それに低くうなる雷鳴も、地面を叩きつける雨音も、たまには気分転換になるもの。だから、ありがとう。泣きたくなったらまた来てね』
「……どうかしら、フェネス?」
主様は街にいる、教育環境の整っていない子どもたちを集めてミヤジさんが開く勉強会によく参加なさっている。
年齢も性別もバラバラな参加者の中でも、特に幼い子どもに絵本の読み聞かせをしているのは俺も知っていた。
そして、ただ絵本を読むだけでは物足りなくなったらしく、とうとう絵本そのものを完成させたのだ。スケッチブックに描かれた積乱雲の絵は立体感も素晴らしく、そして添えられた文章からは主様のやさしい心が垣間見れて……俺は、俺はこのように素敵な女性に育ちつつある主様を誇らしく思う。
「なんで泣いてるの? そんなに酷かった?」
ボロボロ泣く俺なんかのことまで気遣ってくださる。
「いえ、俺は感動してしまいました」
ハンカチで目頭を押さえれば「大げさ」と肩を竦めて笑っていらっしゃる。
「フェネスの涙じゃ草木も作物も潤わない。だから、仕方がないから私がそばにいて守ってあげる」
俺の隣に座った主様は、そのままこてんと俺の腕に頭を預けてきた。
お題『夏』
馬小屋前の菜園の一角に主様専用の畑があり、そこでは主様の食卓に並ぶ野菜を育てている。しかも主様ご自身の手で野菜を栽培していただいており、執事は必要最小限のお手伝いしかしないことになっている。主様に自然を学んでいただくのが目的だ。
どうしてこのようなことになったのかというと、話は3年前の夏まで遡る。
「主様、どうしたんっすか?」
主様が庭に出たいとおっしゃるのでご一緒に外へ出たところ、庭師の執事・アモンが花に水遣りをしていた。とある蔓草の前にしゃがみ込んでじっとしていた主様は、うーん? と首を傾げていらっしゃった。
「主様はもしかして、このアサガオに興味をお待ちっすか?」
こくんと頷くと俺とアモンを見上げて、
「きのうよりもせがのびてるきがする」
とおっしゃった。
「へへっ、主様。もしよかったら毎朝この子の成長を見にきませんか?」
「みにきていいの、アモン?」
「もちろんっすよ。ここの花は全部、主様に見ていただくために育てていますからね」
そしてその翌日から、スケッチブックを持って庭にしゃがみ込む主様を日傘でガードするのが俺の日課になった。
アサガオの観察日記をつけているうちに、他の植物にも興味を持たれるようになった主様だった。
どのような植物が気になりますかと伺った結果、翌年はひまわりを、さらにその翌年はトマトを育てることになり……。
そして今年は、主様の畑にはトウモロコシが植わっている。
「フェネス、フェネス!」
「はい。何でしょうか、主様」
スケッチブックから顔を上げると主様は眩いばかりの笑顔でこうおっしゃった。
「とうもろこしって二期作ができるって、この前本で読んだの。私もやってみたい!」
もしかしたら主様には農業にも才能がおありなのかもしれない。
「はい、分かりました。あとで二期作に関する本をお持ちしますね」
主様、十歳の夏はまだ始まったばかりだ。俺は俺にしかできない方法でお手伝いしていこうと心に誓うのだった。
お題『ここではないどこか』
「あつーっ!」
主様が暑がっている。それも無理のない話で、連日のように今年の最高気温を更新している。俺たち執事はというと、いかに主様に涼しく過ごしていただくかに心を砕いていた。
「あ、そうです!」
俺の言葉に主様は小首を傾げた。その拍子に額に玉になって浮かんでいた汗が顔を伝っていった。
「こういうときは水浴びがいいかもしれません」
水浴び。その言葉に主様の顔が大輪のひまわりのように綻んだ。昨年初めて庭で水浴びをされた。そのときはとても喜んでいらっしゃったけれど、日焼け止めクリームが水に流れて、結局日焼けされたんだっけ。さて、今年はどうするか?
「お外は日差しも心配なので、お風呂にお水を張りますね」
大浴場をプールにしてしまおう。そう思い立ったが吉日、浴槽にかなりぬるめのお湯を張る。
「フェネス、全部お水にしないんだ……」
俺にくっついていらした主様は少しがっかりしたらしい。小さくため息をついている。
「冷水でお身体が冷えてしまうと大変ですからね。主様が風邪をひいたりお腹を壊したりするとみんなが心配します」
主様にそう言い聞かせながら水着へのお召し替えをお手伝いしていて、気がついた。水着が小さくなっているのだ。うーん、去年よりも7センチも身長が伸びているから当たり前ではあるんだけど……。
「水浴びは、また今度にしませんか?」
「えー! なんで!?」
遊ぶ気満々だった主様には申し訳ないのだけれど。
「今日にでもフルーレに新しい水着を作ってもらいましょう」
しかし、ご納得いただけないようだ。
「そう言っても、ここ、お風呂だからはだかでもいいわよね?」
そう言うと主様は気前よく(?)全部を脱ぎ捨てて浴槽に駆け込み、そのままバシャバシャとはしゃいでいる。
「ねぇねぇ、フェネスもいっしょに水あび、しよ!」
「な、ななな、何をおっしゃるのですか?」
「何でも何も、ひとりで水浴びしてもつまんない」
すると、奥のサウナ室からゆらりと人影が現れた。
「よぉ、主様。それにフェネス」
「ボスキ! いっしょに水あびしよ?」
くっくっ、と楽しそうに笑ったボスキは「仕方ねぇな」なんて言いながら主様のいる水風呂に身体を沈めていく。
「ボスキ!?」
「ん? フェネスか。もしかして俺はお邪魔だったか」
あぁ、なんてわざとらしいんだ!
結局主様はボスキと水風呂をひとしきり楽しまれて、その後、ふたりは木陰で仲良く昼寝を満喫していた……もしかしたらボスキのポジションは俺がいたかもしれないのに。
早くどこかに行ってくれないかな、そう思う程度にはボスキに嫉妬している俺なのであった。
お題『君と最後に会った日』
俺の日課は屋敷の大浴場の掃除から始まる。
そのときも浴槽を磨いていた。
「はぁ……主様とお嬢様も、早くお風呂に入れるようになれるといいなぁ」
出産を終えられて一週間も経たない主様はいまだ体力が回復しておらず、腕と足の清拭と手湯をしてさし上げるのが精一杯だったのだ。
磨き上げた浴槽を水で流しているときだった。転がるようにしてやって来た、真っ青な顔をしたアモンに、急いで主様の寝室に行くように言われた。アモンは主様の一大事だ、とも言っていた。
とても嫌な予感がした。食が進むどころかむしろ減っていく一方で、拭かせていただく手足もみるみるうにち痩せ細っていっていたのだ。
蛇口を止めると濡れた手足を拭くのももどかしく、既に出て行ったアモンの後を追いかけた。
部屋の入り口は開け放たれており、主様を執事たちが二重三重に囲んでいるのが見えた。
到着した俺に気がついたベリアンさんが、主様が俺にも会いたがっていると言っている。枕元では医療担当の執事・ルカスさんが主様の脈を取っているのが視界の端に入り、俺の頭から血の気が引いていく。
執事たちを掻き分けて主様の元に行き、床に膝を付いて主様に呼びかけた。
「俺です、フェネスです。主様、いかがなさいましたか?」
俺の声に主様は微笑みを浮かべる。
「……ごめんね……あの子を、お願い……」
「主様、主様、そんなことはおっしゃらないでください、お嬢様には主様が必要です」
しかし俺の声は届いたのかどうか。
ルカスさんがゆっくりと首を横に振った。
お題『繊細な花』
主様と俺はエスポワールの街にある美術館に来ている。以前主様が画集を広げて、実物をご覧になりたいとおっしゃっていた絵画が目的だ。
「すごい……近くで見ると絵の具がゴツゴツしているのね」
10歳にして初めての美術館だ。鑑賞の仕方は人それぞれではあるけれど、少しだけ助言を差し上げることにした。
「主様、近くで観るより少し離れた方が全体を楽しめますよ」
すると、どうだろうか。主様は、ごくごく小さなお声で「ひゃあ」と感動の声を上げた。
「すごい、フェネス。このお花の絵、本で見たもしゃの絵よりもずっとせん細だと思うの」
瞳をきらきらと輝かせながら一枚一枚を丁寧にご覧になっていく。
しかし、芸術鑑賞は自分が思う以上にエネルギーを使う。それは主様も例外ではなく、目的の絵画にたどり着く前にお腹がキュルリと鳴っているのが聞こえてきた。
「主様、ここの美術館にはカフェもございますよ。よろしければ少しご休憩されてはいかがでしょうか?」
俺の提案に主様の目はもっと輝きを放ち始めた。
最初の花の絵画を繊細だと感動していらしたけれど、芸術よりもまだまだ甘いものの方がお好きなご様子だ。
前の主様がいらした、あちらの世界で言うところの『花より団子』なのかもしれない。