お題『1年後』
ミヤジさんが開く、街の子どもを集めた勉強会に主様も参加することが、ここのところしばしばある。
屋敷の中の世界しか知らなかった主様だったけれど、勉強会初参加から一年後になるとずいぶんと社交性を身につけられた。ミヤジさんの話によると主様は街の子どもたちにも進んで挨拶をし、勉強も教えたり教えられたりし、休憩時間になるとふざけ合うこともあるそうだ。
主様は寝る前のひとときになると、勉強会での話を楽しそうにお話される。俺は相槌を打ちながら耳を傾け、時々『あの夜泣きの激しかった主様ももうこんなに成長なさったのか』と感慨に耽ることもある。
今日、ミヤジさんに誘われて俺も勉強会にお邪魔した。主様は俺なんかよりもとても人気者で、小さな子どもたちに読み書きを教えてほしいとせがまれる場面も見受けられた。
——さすがは俺の主様。俺が密かに感動していると、ひとりの少年が主様のことを呼び捨てで呼んだ。そのことについて俺が何かを感じるよりも早く、主様もその少年のことを呼び捨てにした。そしてそのまま談笑しだしたのだ。
「フェネスおにいちゃん、どうしたの?」
俺が絵本を読み聞かせてあげていた子どもたちの声で我に返り、「な、なんでもないよ」と言ってそのまま続けた。けれど、主様と少年の楽しそうな声が耳について離れなかった
「フェネス、どうかしたの?」
帰りの馬車の中で主様から俺に声をかけてきた。
「お腹でもいたいの?」
そう言われて初めて俺は自分でも驚くほど落ち込んでいるらしいことに気がついた。
「いえっ、何でもありません!」
その場は笑顔を作ったけれど、主様は心配そうに「屋敷についたらハーブティーをいれてあげるね」と気遣ってくださった。
まさか本当に主様に給仕をさせるわけにはいかない。コンサバトリーに主様をお連れしてから、俺はカモミールブレンドティーをご用意する。お茶菓子は街で買ってきたフィナンシェだ。
ワゴンを押して季節の花々が咲き乱れるコンサバトリーに入ると、主様はミヤジさんとお話をされていた。
「主様、名前を呼び捨てにしていいのは執事に対してだけの方がいいね」
「えー。だって◯◯だって私のことをなまえで呼んでるのに?」
あの少年の名前が出てきたので俺はその場で固まってしまう。
「これから学んでいくことになるけれど、人と人にはほどよい距離感が必要なんだよ」
主様は少し黙ってから「わからない」と言っている。
「きょり感なんて私、ぜんぜんわからない。それに、みんなとなかよくできる方が私は楽しい」
その言葉に苦笑いをしているミヤジさんが俺に気がついて、「フェネスくん」と声をかけてきた。
「すみません、遅くなりました」
俺はなるべくテキパキとした動作でお茶をサーブして、ティーポットをテーブルに置く。
主様がカップに口をつけるのを見届けたミヤジさんは、今度は俺に話を振ってきた。
「フェネスくんは主様が呼び捨てにされていてどう感じたかな?」
うーん……正直に言っていいのかな……。
「フェネス? 私もフェネスのお話が聞きたい」
はぁ……。俺は重い口を開いた。
「正直に言うと、少し面白くなかったというか……多分やきもちを妬いています」
するとミヤジさんが、珍しく口元を押さえて吹き出した。
「主様、分かってもらえたかな。人と人に適度な距離感がないと他の人はこう感じることもあるんだよ」
ミヤジさんと俺を見比べた主様だったけれど、やはりよく分からないらしく首を捻っている。
主様が俺のこの気持ちを理解するのにはしばらくかかりそうだ。
お題『子供の頃は』
現在9歳の主様が、さらに子供だった頃の話。
「主様」と呼べば満開に咲いたひまわりを思わせる笑顔ではしゃいでいらっしゃった。その様は屋敷中を明るくしていて、執事たちも喜んで主様中心の日々を送っていた。
だから、その誤りに気づくのが遅れた……というのは言い訳にしかならないかもしれない。
主様が喃語を卒業した頃、自分のことを「あるじさま」と言い出したのだ。
一人称が主様というのは、さすがにいけない気がした。
亡くなった前の主様は「✳︎✳︎✳︎」と名付けられていたこともあり、その日のうちに全執事に主様のことを「✳︎✳︎✳︎様」と呼ぶように申し送りがされた。
4歳の頃には一人称「✳︎✳︎✳︎さま」になり、最後の「様」を取るまでに約2年かかった。
今となっては自分の名前は「✳︎✳︎✳︎」だと理解されているし、一人称は「私」と発言されているし、自分のことを「主様」と呼ぶのは執事だけだということも理解なさっているが……。
……そんなこともあったなぁ、と思いながら俺は古い日記を閉じた。
お題『日常』
朝起きて真っ先にやることといえば、浴室清掃と入浴の用意。トレーニングを終えた他の執事たちに汗を流し、さっぱりしてもらうために欠かせない俺の日課だ。
その次に、主様を起こす。紅茶だけではお目覚めがイマイチのようなのでクッキーなどのちょっとした焼き菓子や、今の時分であればゼリーを添えている。お菓子の糖分で朝食までの時間つなぎの意味合いもある。
アーリーモーニングティーで少し目を覚ましていただいたところで衣装担当の執事・フルーレがやって来て主様はお召し替えを。
動きやすい服にお着替えされると軽いストレッチをなさる。主様はまだ9歳なので身体はとても柔らかい。だけど幼い頃から習慣づけておけば大人になってからでも欠かせないルーティンになるはず。それに主様は体操は大好きなようなので、よほど体調が悪くない限りは俺が何も口を出さなくても大丈夫のようだ。鼻歌交じりにイチ・ニ・サンとカウントしていらっしゃる。清掃担当(よくサボっているけど)の執事・ラムリと外で体操をしていることもある。
朝食前に、前日勉強したところの復習をする。間違えたところを見直しながら、分からないところはきちんと俺に確認してくださる。たくさんの知識を吸収していただくためのお役に立てて嬉しい。
朝食からはマナー担当の執事・ベリアンさんやミヤジさんに主様をお願いすることになる。
主様がマナーや勉強、楽器の演奏などをされているうちに俺は食事を済ませたり、書庫の本を片付けたりそのまま読み耽ったり……。
「……ス、ねえってば、フェネス!」
「わ! 主様、すみません。集中していました」
気がつけば窓の外は夕闇を纏っていた。
立ったまま読書をしていた俺に、椅子に座るようにと主様が椅子の座面をぽふぽふ叩いてみせる。求められるがままに座れば俺の膝の上に主様は腰をかけてくるので、読みかけの本は置いておいて記憶している児童書の中で季節感のあるものを選んで誦じる。契約している悪魔の力で一度読んだ本は全部記憶できるけど、それはこう言うときに役に立っている。
そして主様が夕食を摂られている間に俺は再びお風呂の用意をして、就寝される1時間ほど前に入浴していただく。ひとりでの入浴はまだ怖いとおっしゃるので、俺が背中を流したり洗髪のお手伝いをさせていただく。身の回りのことはひとりでもだいぶできるようになってきたけれど、耳の後ろを洗い残しやすいようだ。
おやすみまでの時間は、部屋の蝋燭を3本程度までに抑えて、いい夢を見ていただくために明るめの内容の本をまた誦じさせていただく。
主様が夢の世界に落ちていくのを見送ってから、俺は夕食を済ませる。
そして誰にも見つからないようにトレーニングをして、入浴。その後たまにウイスキーを飲んだりすることもある。
ほどよく疲れた身体を引きずるように、俺もまた眠りにつくのだった。
お題『好きな色』
主様が二歳だった折に、一度だけ、好きな色は何色ですか? とお尋ねしたことがある。そのときはくふくふ笑いながらこうおっしゃった。
「んーふふー♪ シー」
でも主様の色鉛筆の減り具合で、どの色がお気に入りなのかは大体の目安がついていた。
赤色がダントツで無くなっていく。
主様のスケッチブックはいつでも赤い丸がはみ出んばかりに描かれていて、それは赤い薔薇だと思っていた。屋敷のそこかしこに薔薇は飾られているから、てっきり。
赤い丸をたくさん描かれていた主様も、少しずつ人の姿に近いお絵描きをなさるようになり、その頃にはずいぶんお喋りも上手になられた。
赤い髪の下の左目には、黄色い輪っか。
これって、もしかして——
「主様、その絵の人物って、もしかして俺ですか?」
「うん、そう。ミヤジがね『すきなものをたくさんかきなさい』って」
主様の好きなものの中に俺なんかがいていいんだろうか……? そう思いながら二階の執事室のドアを開け、入ろうとして額をぶつけた。
「おい、フェネス! 大丈夫か?」
「うぅ、ごめんハウレス。大丈夫……」
「笑ってるけど、本当に大丈夫なのか?」
自分の意思とは無関係に、俺の口の端は釣り上がっていたようだった。
お題『あなたがいたから』
これは、前の主様とのお話。
臨月も間近となったある夜、俺と主様はキッチンに来ていた。
ホットミルクが飲みたいとおっしゃられたのでそのまま寝室でお待ちいただくつもりでいたら、私も行きたい、とおっしゃられたのだ。お待ちください、いやだ、足元が危険ですので、だって……。
最後には「だったらもういらない」と言い出してしまい、結局俺の方が折れた。
俺の腕に捕まっていただき、二階の寝室から一階に降りるまでは、おそらく俺の方が緊張していた。
はちみつを溶かし込んだホットミルクを、座るとしんどいからという理由で立ったままコクコク飲んでいる主様。間もなく母親になるとは思えなく、むしろ主様こそ幼な子に見えてくるような、無邪気で愛くるしい微笑みを浮かべている。
「ふぅ……美味しかった。ありがとう、フェネス」
「いえいえ、どういたしまして。それでは洗い物を済ませてしまいますね」
ミルクパンとカップを洗っていると、あのね、と小さな声で主様は話し始めた。
「私、本当は赤ちゃんを産むのが怖かったの」
思わず動きを止めて主様に目を向けた。
「ひとりで産むのが怖くて、マタニティブルーっていうのかな? 急に不安になったり、泣きそうになったり」
「主様……」
「多分あのままひとりだったら、こうやって、あたたかい飲み物で気分を落ち着けようという気すら起こらなかったと思うの。
少しでも私に変化があるとしたら、フェネスたちに出会えたおかげかな。ありがとう。ひとりぼっちにしないでくれて」
小さなお身体で、そんな想いを抱えていらっしゃったのか……辛かっただろうな……。
「話してくださってありがとうございます。俺なんかでも少しは主様のお役に立てているようで嬉しいです」
ふふふっ、と笑った主様は、
「これからも親子ともどもよろしくお願いします」
と言って頭を下げた。
産後、すぐに亡くなってしまったけれど。
主様が残してくださった赤ちゃん——今の主様——がいるから、俺たちも頑張っていられます。