お題『好きな色』
主様が二歳だった折に、一度だけ、好きな色は何色ですか? とお尋ねしたことがある。そのときはくふくふ笑いながらこうおっしゃった。
「んーふふー♪ シー」
でも主様の色鉛筆の減り具合で、どの色がお気に入りなのかは大体の目安がついていた。
赤色がダントツで無くなっていく。
主様のスケッチブックはいつでも赤い丸がはみ出んばかりに描かれていて、それは赤い薔薇だと思っていた。屋敷のそこかしこに薔薇は飾られているから、てっきり。
赤い丸をたくさん描かれていた主様も、少しずつ人の姿に近いお絵描きをなさるようになり、その頃にはずいぶんお喋りも上手になられた。
赤い髪の下の左目には、黄色い輪っか。
これって、もしかして——
「主様、その絵の人物って、もしかして俺ですか?」
「うん、そう。ミヤジがね『すきなものをたくさんかきなさい』って」
主様の好きなものの中に俺なんかがいていいんだろうか……? そう思いながら二階の執事室のドアを開け、入ろうとして額をぶつけた。
「おい、フェネス! 大丈夫か?」
「うぅ、ごめんハウレス。大丈夫……」
「笑ってるけど、本当に大丈夫なのか?」
自分の意思とは無関係に、俺の口の端は釣り上がっていたようだった。
お題『あなたがいたから』
これは、前の主様とのお話。
臨月も間近となったある夜、俺と主様はキッチンに来ていた。
ホットミルクが飲みたいとおっしゃられたのでそのまま寝室でお待ちいただくつもりでいたら、私も行きたい、とおっしゃられたのだ。お待ちください、いやだ、足元が危険ですので、だって……。
最後には「だったらもういらない」と言い出してしまい、結局俺の方が折れた。
俺の腕に捕まっていただき、二階の寝室から一階に降りるまでは、おそらく俺の方が緊張していた。
はちみつを溶かし込んだホットミルクを、座るとしんどいからという理由で立ったままコクコク飲んでいる主様。間もなく母親になるとは思えなく、むしろ主様こそ幼な子に見えてくるような、無邪気で愛くるしい微笑みを浮かべている。
「ふぅ……美味しかった。ありがとう、フェネス」
「いえいえ、どういたしまして。それでは洗い物を済ませてしまいますね」
ミルクパンとカップを洗っていると、あのね、と小さな声で主様は話し始めた。
「私、本当は赤ちゃんを産むのが怖かったの」
思わず動きを止めて主様に目を向けた。
「ひとりで産むのが怖くて、マタニティブルーっていうのかな? 急に不安になったり、泣きそうになったり」
「主様……」
「多分あのままひとりだったら、こうやって、あたたかい飲み物で気分を落ち着けようという気すら起こらなかったと思うの。
少しでも私に変化があるとしたら、フェネスたちに出会えたおかげかな。ありがとう。ひとりぼっちにしないでくれて」
小さなお身体で、そんな想いを抱えていらっしゃったのか……辛かっただろうな……。
「話してくださってありがとうございます。俺なんかでも少しは主様のお役に立てているようで嬉しいです」
ふふふっ、と笑った主様は、
「これからも親子ともどもよろしくお願いします」
と言って頭を下げた。
産後、すぐに亡くなってしまったけれど。
主様が残してくださった赤ちゃん——今の主様——がいるから、俺たちも頑張っていられます。
お題『相合傘』
街でマドレーヌを買い、菓子屋を出ると雨が降っていた。
「主様、傘に入ってくださいませ」
店の軒先で傘を広げたところ、主様は眉間に皺を寄せて何かおっしゃっている。約50センチの身長差にざあざあという雨音が加わり、主様が何をおっしゃっているのかさっぱり聞き取れない。俺はしゃがんで主様の目の高さまで降りた。
「いかがなさいましたか?」
「今日も傘、一本しかないの?」
「はい。そうですが……」
主様さえ濡れなければ俺としては何も問題はないので、雨の予報を知っていても傘は一本あれば十分だと思っていた。しかし主様にはそれが気に入らなかったらしい。
「私はフェネスに濡れてほしくない。だって風邪ひいちゃったら大変だもん」
頬を膨らませている可愛らしい主様に、俺は「大丈夫ですよ」と微笑みかけた。
「主様が風邪をひいてしまう方が大変です。それに俺は風邪を引くほど弱くないので」
そう言ったタイミングで鼻がムズムズして、くしゃみをしてしまった。
「ほら、大丈夫じゃないじゃないの。フェネスが寝込んだら私が悲しい」
頑なに動こうとしない主様だけど、雨もしばらくは止みそうにない。うーん、どうしよう……。
……あ、これならばご納得いただけるかもしれない。
「それでは主様は傘を持っていただけませんか?」
「だから、フェネスが濡れるのが嫌なんだって」
「ええ。ですからいいことを思いついたので、俺に任せてください」
俺は主様を腕に抱き抱えると、主様のお腹の上に焼き菓子の袋を置き、それから開いた傘を持っていただいた。
「これなら主様も俺も濡れません」
俺に抱っこされた主様は傘と俺を見比べてている。
「こーいうの、あいあいがさ、っていうの?」
「俺なんかと相合傘はお嫌でしょうか?」
すると、きれいに結われた三つ編みがふるふると揺れる。
「どうせなら馬車まで遠回りして帰りたいなっ♪」
むしろご機嫌といったところらしい。俺はその提案を受け、最短の大通りではなく一番遠回りとなる路地裏を選ばせていただいた。
お題『落下』
主様の姿が消えた。
朝お目覚めの時にはいらっしゃったし、衣装担当の執事・フルーレがお召し替えのお手伝いに行った際にも確かにおられたらしい。
俺が朝食のご案内に伺うまでの僅か5分程度の間に、忽然と消えてしまったのだ。
そういうわけで現在屋敷は騒然となっている。
手の割ける執事全員で屋敷の地下から3階まで、それと別邸まで探したけど、どこにもいらっしゃらない。残るは庭か、と思った矢先に庭師の執事・アモンが「主様が!!」と叫び声を上げた。
アモンの声がしたエントランスホールの外に向かえば「ふぇ……」と主様のか細い声が降ってくる。そこにはなぜか桜の木にぶら下がる、主様の姿が。
「梯子を持ってくる」
ハウレスがそう言い残して屋敷に入っていったけど、待っている間に主様のぶら下がっている桜の枝は、ミシリ、と嫌な音を立てた。
それ以上待っていられなくて俺は主様の真下に構えると上に目をやる。
「やだ! パンツ見えちゃう!!」
「そんなことを言っている場合ではありません! 主様、その手を離してください!!」
「そんなことしたら落ちちゃう!!」
「俺が受け止めます! 俺を信じてください、主様!!」
かくして梯子の到着を待たずして、主様が降ってきた。
「主様、どうやって木の上にいらっしゃったのですか?」
マナー担当の執事・ベリアンさんがミルクティーを淹れて半泣きの主様に尋ねる。
「まどから外に出たの……」
「あのようなところで何をなさっていたのですか?」
「……さくらんぼ」
ベリアンさんと俺は顔を見合わせた。
「美味しそうなさくらんぼを取ったら、みんな喜んでくれるかな、って」
ああ、そういえば昨日の夜、俺は主様に美味しいさくらんぼの見分け方をお教えしたのだった……。
「すみません、ベリアンさん、俺が……」
「いいえ、フェネスくんのせいではありませんよ。
主様。執事を代表してお礼を言わせてください。お心遣い、ありがとうございます。ですが主様の身体にもしものことがあれば、みんなが悲しみます。だから、二度と窓から外に出て木登りをしないとお約束いただけますか?」
ベリアンさんの言葉が心に染み入ったらしい。主様の口から小さく「ごめんなさい」という言葉が出てきた。
数日後。
「フェネス! 私を受け止めて!!」
「あ、ああ、主様!?」
窓枠を伝うことなどせず、正々堂々と地面から桜の木によじ登った主様を、俺は再び受け止めるのだった。
お題『未来』
俺のようにたくさん本を読んで、将来は学者になりたい——それが8歳のときの主様の夢だった。あれから一年が経ち、ひとつ歳を重ねた主様の夢は、というと。
「ねぇ、フェネス。あれは何をしているの?」
教会の前でフラワーシャワーを浴びているのは、おそらく新郎新婦かな。
「主様、あれは結婚式です」
「けっこんしき……あの男の人と女の人は家族になるのね」
ほわほわと、頬をアルストロメリアのように紅く染め、主様は俺を手招きしてしゃがませるととんでもないことを言い出した。
「ということは、こうび、するのね」
俺は盛大に咽せた。街ゆく人たちが俺に訝しいものを見るような視線をちらちらと投げかけてくる。
「あ、あああ、主様!? 違います!!」
これは一大事だ。主様にはきちんとした性教育の必要がある。かといって俺の口から伝えるのは……うぅ……。
もっと結婚式を見ていたい、とむずがる主様を抱えて馬車に押し込み、屋敷へと急いだ。
帰ると主様はむくれたままズカズカ部屋に入り、立てこもった。どうしたものかと主様の部屋の前でおろおろしていると、背後から話しかけられ、ギョッとして振り返る。そこにはマナー担当のベリアンさんが立っていた。
「フェネスくん、どうしたのですか?」
「べ、ベリアンさん! 俺、主様に、どうしたらっ!?」
「落ち着いてください。どうやら困り事を抱えているようですね。お茶を飲みながらお話しませんか?」
さらにそこにミヤジさんが通りかかる。
「ミヤジさん、すみませんが少しの間、主様の担当をお願いしてもいいですか? 私はフェネスくんとお話があるので」
「まぁ、私は構わないけれど」
あれよあれよとコンサバトリーに連れて行かれ、ベリアンさんのとっておきらしいダージリンを淹れてもらってしまった。
「それで、主様に何があったのですか?」
俺の前の席に腰を下ろしたベリアンさんは問いかけながら優雅な所作でカップに口をつけ、俺が街での主様の言動を話したところで紅茶を咽せた。
主様の性教育の適任者は誰か? その結論は主様が寝てから会議を開こうということになった。
少しとはいえ主様担当の席を外してしまった。俺がドアをノックして部屋に入ると、ミヤジさんの後ろから主様が何か言いたそうに俺を見上げてきた。
「さぁ主様、フェネスくんに話があるんだよね?」
「う、うん……でも」
ミヤジさんは困ったように笑っている。
「謝るのは早めの方がいいよ。その方が誤解も早く解けるからね」
ミヤジさんに言われた主様は「ぁぅ……」と呻き、それから「ごめんなさい」と頭を下げた。
「あのね、ミヤジに教えてもらったの。あの、その」
「え……と、主様が俺に謝ることなんて、何も」
「人と人ではこうびって言わないって、ミヤジに教えてもらった」
そう言ってからまた恥ずかしくなったらしい。またミヤジさんの後ろに隠れてしまう。
「まぁ、誰しもが通る道……かな? 主様にはきちんとした知識を身につけていただけたと思うから」
「はぁ……」
腰に張り付いた主様をやんわりと振り解くと、ミヤジさんはそのまま地下へと帰っていった。
その夜、すよすよと眠る主様の枕元には開かれたままの日記帳が。見るのは良くないと思いつつ、つい読んでしまって、俺の顔はボボっと火がついた。
【私は、将来結婚するなら、フェネスのお嫁さんがいい】
すべてを知った上でそういう未来を思い描いていただけているのであれば、光栄というか、なんというか……。
嬉しいような、恥ずかしいような、面映い気持ちを抱えたまま俺は部屋を後にした。