ぐっと、手すりに置いた手に力を入れる。
視線の先には、数十メートル下のコンクリートの地面。
そのまま身を乗り出そうとして___
何かが、ポケットから落ちてゴトリと音を立てた。
まだ消えちゃいないよ ちっちゃな希望を 何とか信じて、信じてほしい。
「何に設定したのー?」
あんたからの着信音、何にしようか迷ってるんだよね、いっそあんたが決めたら?そう言った私に、彼女は微笑を浮かべると、私のスマホを手に取った。
「ふふ、ひーみつ」
子供じみた言い方をして、彼女は片目をつぶって見せる。そして、呟くようにいった。
「私があなたに電話をかける時なんて、滅多にないだろうけど。でも、あなた抱え込んじゃう癖あるから。これでひとまず安心、かな」
その時は、彼女の言ったことの意味がわからなくて小さく首を傾げた。
裏切りが続こうが
「大切」が壊れようと
何とか生きて、生きて欲しい。
彼女は、なんて無責任で、独りよがりで、くだらないことをするんだ。そう思うのに、私は手すりから手を離し、その場に崩れ落ちた。そして生まれたての赤ん坊のように、数年ぶりに声を上げて泣いた。
こんな声で電話に出たら、あんた心配してくれるかな。それとも笑われる?でもさ、今どうしても、あんたの声が聞きたいんだ。
文句の一つくらい、言ってやらないと。
「終わりにしよう」
目が覚めたら、誰でもない誰かになりたい。
○○学校の○年○組とか。○○家の末っ子とか、長男だとか。そういう肩書き全部を捨てられたら、どんなに楽だろう。ついでに家族からの期待とか、クラスメイトに貼られたレッテルとかも、箪笥の奥にしまって、いつのまにか忘れてしまいたい。まっさらな、生まれたばかりの私に戻りたい。目が覚めたら異世界転生してたいだとか、欲を言えばキリがないけれど。
私は私のままを愛せるほど、まだ強くはない。多分。
「目が覚めたら」
「頭が良くなる」
それが、君が10歳の頃に短冊に書いた願い事だ。
「なりたい」とか、「なれますように」ではなくて、「なる」と言い切っているところが実に君らしい。
君は誰よりも必死だった。その理由からしても、努力が苦じゃなかったことなんて、一度もなかったろうに。
それでも、君は弱音を吐かず、頑張ってきた。
時々、自分の弱みに戦慄しながら、ずっと最前線に立ち続けてきた。そんな君を、僕はずっとみてきたから。前を歩いてきたから、分かるよ。君が母さんや父さんに、認めてもらいたいと思っていたこと。対等な関係になりたかったこと。愛してもらいたかったこと。
今になって、思う。
勉強が世の中の全てではない。むしろ、勉強以外の能力を求められることの方が、はるかに多い。
それでも、あの時の僕にとっては、勉強が世界の全てだったんだね。
大丈夫、君のやっていることは、積み重ねてきた努力は、何一つ間違っていない。その証明として、幼い頃頑張ってきた記憶が、今の僕をずっと支えてくれた。
よく頑張ったね。君は1人なんかじゃないよ。だってほら、君の未来は、こんなにも笑顔で溢れている。
「七夕」
「心臓蘇生は希望されますか」
「いいえ…」
「いいんですか?」
「ええ、もういいんです。今のままのように寝たきりなら、生き延びても母も私も辛いだけだわ」
子供の頃の私は、母の言っていることがてんでわからなかった。入院している祖母に何かあったとき、生き延びられる方法を、母は諦めたのだ。祖母は死んでもいいということか?自分の母親なのに。そう思っていた。
人は死んだら、お星様になる。
そうして、大切な人をいつまでも見守っている…。
こんな話を、きっと一度は聞いたはずだ。
今になって、やっと分かった。
あのとき、母が祖母を無理矢理この世に引き留めなかった理由。
ベットの上なんかじゃなくて、お空で、昔のように生き生きと、私たちを見守ってて欲しかったんだね。
分かったよ、私。もうあの時の子供じゃないよ。
だから戻ってきてよ。
綺麗な星空は、あんなにも遠い。
我儘でごめん。でもね、私はお母さんに、隣にいて欲しかったんだよ。
「星空」
雨は神様の涙らしい。
利益のためについた嘘。
小さな過ち。
愛しい家族への隠し事。
絵空事だった夢。
そんな「自分しか知らない」ような、ときには残酷な物事を、ずっとあなたは背負っているんだものね。
泣きたくなるのもわかるよ。
でもさ、それでもあなたのこと許せないの。
誰かが汗水垂らして作った建物を、畑を、車を、壊して壊して壊して。そこにつまった思い出さえも消し去って。
大切な命を奪って。まるで幼子のよう。
あなたは神なんかに産まれるべきではなかった。
もっと普通の、幸せな人間に産まれたらよかったのにね。
そしたらみんな、あなたのこと恨んだりしないのに。
皆があなたを憎んでいる今、こんなことを思う私こそ、真の大罪人だ。
「神様だけが知っている」