天の海に 雲の波立ち 月の船
星の林に 漕ぎ隠る見ゆ
まどろむ雨空の、その向こうにさす景色を想い描いてみる。千年前から変わらない空を。
「水の器」といわれたのも、夜のあじさいをみれば頷ける。
薄い藍色は、時にガラスのようにはらはら透けながら、夕闇にひっそりと隠れてしまう。
その葉陰に蛍が光って、夢幻の花をみせる。花びらに浮かぶ露は月光を吸い込んで、淡いゆらめきを湛えている。
梅雨の水面を映したような、静けさのある花だと思った。
「この子たち、海蛇だったのよ。」
君の言葉を、昔は笑った。どうして海蛇なんだろう。相変わらずファンタジーな世界に生きている君らしいと思った。
でも、虫の音もしない梅雨の夜にひとり。
しっとりと濡れるあじさいは、まるで生きているようにみずみずしく、あでやかに咲き誇っている。
あじさいは「水の器」という意味があるんだ、と教えたのは僕だけれど、君はそれを海と解釈したのかもしれない。
たっぷりと水を含んでいるあじさいは、確かに陸に咲く小さな海のようだ。だから、母なる海をつかさどる神の姿に重ねていたのだろう。
でも、僕には今ようやく見える。
君にも、見えていたのだろうか。
無数のあじさいの中にひそむ青い海蛇が、
重い頭をもたげている、その姿が。
朝焼けの、桃色の海に飛び込んだら生あたたかくてびっくりした。
きらきら消える朝と、命のぬくもり。
文学なんて勉強して何になるの?
進路に悩んでいた高校生のとき、情報系の分野を
目指す友達から何気なく言われて、私は言葉につまってしまった。その子に悪気はなかったのだとは思う。
本が好き。だから日本文学を学べる学科にしよう。
それくらいのシンプルさで、漠然と文学部に進むものだと考えていた私は恥ずかしい思いをしなければならないのかと、妙に縮こまってしまった。
でも、同じ文学部を志望する別の友達は、その問いにさらりとアンサーを出してきた。
文学を学ぶって、心身を削って考えて考えて、考え抜くこと。つまり物事に対する考え方や価値観を学んで、自分の生き方に反映させることだと思う。
これから経験する深い悲しみ、憤り、後悔、自分の力じゃどうにもならないこと、それらにどう向き合っていくか、生きる対処法を身につけることができるでしょ。
避けようのない人生の岐路に立ったとき、
文学の学びを通して得たものが道を開いてくれる、自分を自分たらしめる指針になるって、私は信じているから。
だいたいこんなような演説をしてのけて、私はぽかんとしてしまった。彼女はまだ18才になったば
かり。胸の底でくすぶっていたものを根こそぎえぐり取られたような衝撃だった。
そして私は、そこではじめて「キロ」という言葉を知った。だからこの言葉を目にするたびに、あまりにも眩しかった18才の彼女を思い出してしまう。
ずっとこの日を待っていた。
僕にやさしく触れてくれた君の白い手は、もう朽ち果てている。そうか、君はこのまま土に還るんだ。
その骨は、いずれ夜空に碎け散って無数の星になる。そうして次の世界の夜に生きるんだね。
金糸の髪は、地上に差す太陽の光だ。薔薇色に染まっていた君の頬。柔らかい皮膚の下に流れた血潮は、いつかほんもののの花になる。
君を拒んだ暗い世界も、遠くからみれば光の森にいるみたいなんだろう。醜くて、残酷で、かけがえのない世界だ。
僕の世界は、君とともにもう終わった。
今はただ、君の隣で眠りたい。
きっとこれからも、世界は光に包まれていて、人々は退屈でいとしい日々を生き、まるで僕たちのことなんてなかったかのように、陽が昇っては沈んでゆくんだ。
いつか僕らの朽ちた身体が引き剥がされるとき、それは終わりではなくてはじまりだね。
今度こそ、新しく平等に生まれ変わった世界に生きることを夢見て。