僕の足元には
数々の球が転がっていた
それは思い出したくもない記憶で
視界の端にも入れたくはないのに
少しでも目に入ったならば
たちまち僕を支配して
まるでドミノのように
連鎖的に蘇ってきて
僕は動けなくなる
嗚咽を漏らして蹲り
黒い底へと沈んでいった
誰かこの気持ちを分かってくれと叫んだ
完全な理解など無いと認めることに恐怖した
君でさえ全てを理解する事はないのだと
認めることが酷く虚しかった
君は確かに同情などしなかった
ただ君は僕の足元の球を
不意に拾い上げたと思えば
全力で遠くへ投げてしまったので
僕は呆気に取られた
何をするんだと君に詰め寄ると
「これでもう見なくて済む」と
なんでもない様子で君は言った
僕はそんなものかと脱力した
何故か笑いが込み上げてきた
足元にはもう何も残っていなかった
僕は思う
同情だけが優しさではないのだと
僕の机の上には
額に入れた銀杏の葉が一枚飾ってある
それは君と旅行に行った日
丁度紅葉が見頃を迎えていて
その景色があんまりにも綺麗だったから
離れがたくて
足元に広がる黄色い葉を一枚を拾うと
僕の傍らで君も同じように拾っていた
そしてその手の中の鮮やかな葉を
僕の着ていたコートの胸ポケットに挿すと
「綺麗」と短く言った後
あまりにも柔らかく笑ったので
僕は束の間戸惑って、気持ちを押し殺して
君と同じように拾ったそれを
君の着ていたダッフルコートのループに挿した
「綺麗だね」と僕が言うと
君は「そうだね」と軽く返して
黄色い絨毯の上を駆けていった
今僕の部屋に飾ってあるのは
あの日君が僕に挿した銀杏の葉だ
これを見る度に僕は鮮やかな安堵と苦渋を
黄色い景色の中に思い出すのだ
君に出会ってなかったら
もっと早くに死ねたのにな
「死ぬなんて簡単に言わないで」
そんな正論をあまりに真っ直ぐ君は吐くから
僕は笑って誤魔化した
死にたがりの僕にまた蓋をした
また明日って君が言うから
その明日を見てみたくなって
気紛れに生き延びた今日に
何か名前をつけるとしたなら
それはきっと『日常』なんだ
無理矢理額に入れて飾ったそれを
君はどんな顔で見るだろうか
物心ついた頃から
こびり付いては消せないシミのような
やるせなさと怠慢の中漂う日々を
懇々と君に話すことはないけれど
ただそんな日々の中一つだけ
点る熱があるとするならば
それはただ君なんだよ
そうして僕はまた今日も
今日という日に別れを告げた
今日は僕の『お気に入り』について書き留めようと思う。
・「何もかも憂鬱な夜に」 中村文則著
中村文則先生の本はどれも愛読しているが、その中で最も何度も見返し、沢山線を引き、付箋を貼り、くたびれているのがこの本である。僕の中身をチューニングするような本、と言っても過言ではないほど僕の一部になっている本だ。
刑務官の「僕」が未決囚の山井と交流していく中で、己を形成してきた過去や自分の本質について見つめ直していく作品なのだが、この本には特に印象的な人物が2人登場する。1人は「僕」の幼馴染であり、自殺して故人となっている真下、もう1人は「僕」の育ての親のような存在である施設長である。
真下は人間の抱える闇を擬人化したような人物である。彼が生前に書き残していたノートが作中に出てくるのだが、このノートの殴り書きというのがあまりにも身に覚えのある、残酷な、生々しい内容で、初めて読んだ時は本当に心が震えたのを覚えている。以下一部抜粋である。
『ギターを買う。でも、Fのコードが押さえられない。問題は、Fのコードが押さえられないことではなく、その努力をしたいほど、ギターを弾きたくないということだ。』
『こんなことを、こんな混沌を、感じない人がいるのだろうか。善良で明るく、朗らかに生きている人が、いるんだろうか。例えばこのノートを読んで、何だ汚い、暗い、気持ち悪い、とだけ、そういう風にだけ、思う人がいるのだろうか。僕は、そういう人になりたい。本当に、本当に、そういう人になりたい』
これだけでも彼の抱えていた虚しさや鬱屈、脱力感、そして絶望感が伝わるのではないだろうか。
そしてこれらの感情のどこかに親近感が湧いた人がいたなら、この本を読む事を強くお勧めする。なぜならこの本はこうした感情をやり過ごす答えが載っているのだから。そしてその答えを説く人物が先述した施設長である。
施設長が説く方法、それは「とにかく芸術に触れる」という何とも単純明快なものである。しかし、施設長は単に芸術に詳しくなれ、と説いているわけではない。多くの人に平等にひらかれている芸術を通し、そこから何を受け取り、どう考えるか、その思考を広げる努力をする事を「僕」に勧めるのだ。
『考えることで、人間はどのようにでもなることができる。……世界に何の意味もなかったとしても、人間はその意味を、自分でつくりだすことができる』
上記は施設長の台詞の一部だが、この施設長の考え方は僕の人生の価値観を改めるきっかけになった。
とはいえ何から手をつけたらいいか分からない、と心配する人も安心して欲しい。この本にはまるでリストのように様々な芸術家の名前や音楽家の名前が載っているので、片っ端からそれらに触れてみるのも良いかもしれない。
この物語の最後、「僕」が行き着く答えもなんとも素敵なのだが…そこまで書いてしまうと流石にネタバレが過ぎる気がするのでこの辺りでやめておく。
また、この小説は作中に何度も「水」の描写が出てくる。海、雨、川、雨樋を滴る水、配水管…
頭の中でそうした水の音が常に何処かで響いているような「何もかも憂鬱な夜に」是非読んでほしい。
僕と一緒に生きたいと
言ってくれた人がいた
その手を僕は取れなかった
違和感が払拭できないままで
何より君が残ったままで
並び立つ事に怖気付いて逃げ出した
ありふれた感情なら
きっとどこにだって転がり落ちているのに
意地になった子供みたいに
懲りもせず君に縋っている
こんな僕など無視して君はそっちへ行ってよ
僕は泣いてもいいから
もう慣れたから
そう願うのにどうして君は
泣きそうな目で僕を見ているの
僕を独りにしないの
本当は誰よりも君の隣がいいよ
溢れた声は消えそうなほど小さかったのに
君の耳には届いていた
君と僕は約束をした
子供のような約束をした