雨は降り続ける、だから嬉しい
いつか伝えようと決めていたことがあるの。
でも口に出す勇気を私は持ち合わせていなかったから、遠ざかっていく列車をただ見送ることしかできなかった。
寂しいのは私だけではないと願いながらあなたの成功も祈っていたの。ずっと憧れていた夢に近づいていくあなたがとても誇らしい。
あなたの負担にはなりたくないと思っていて黙っていたのだけど、やっぱり私はだめみたい。
昔、あなたと話したことがあるでしょ。いつか素敵な恋をして桜の木の下で愛を誓い合うのが憧れだって。
大きく枝垂れた枝から薄紅色の雨が降って恋人たちをそっと閉じ込めて隠すの。誰にも聴こえないように二人だけで囁き合う場面は何度読み返しても胸が熱くなる。本を閉じて何度ため息をついたことか、本当に素晴らしかった。
あのときからずっと私の憧れだった。
この前贈ってくれたもの、本当に嬉しかった。1日で読みきってしまったのだけが難点でね、それ以外は完璧だった。さすが私の一番自慢の親友ね、次も楽しみにしてる。
ああ、そうだ。前置きが長くなってしまったけれど伝えたいことがあるの。こんなのは邪道だと嫌がられてしまうでしょうし、あなたに嫌われてしまうかもしれない。
でも後悔するのはもう十分。あのとき言えなかったことが悔しくて堪らなかったの。
同封したものを上に掲げてから続きを読んで頂戴。
いい?ちゃんと掲げた?
―――
「涙の雨くらい晴らしてほしかったのに」
こんな薄っぺらい栞一つではあなたの憧れには辿り着けないでしょう。囁き合う口も隠す姿も、何も残してはくれないのね。せっかちで残酷な私の親友め。
「さようなら、愛しい人」
【題:My Heart】
『嘘だけじゃ辛いでしょ』
いつまでも付き合ってくれるのは、単なる優しさだけではないはずだ。頼られると断れない性格も見返りを求めない気遣いもすべて「私だから」だという。嘘のような本当の話に私はどれだけ甘えているのか、知ることすら怖い。
ここは違うのに、いつも帰ってくる人をおかえりなさいと出迎える。嬉しそうに目を細めてただいまと返してくれるのを一日中ずっと待っていた。
頬に触れて、輪郭をなぞって、顎先から指先が離れる。一瞬の触れ合いを名残惜しそうな表情で終えて洗面所に向かう背中を眺めた。
今日は雨が降っていたから冷えたのだろうか。
うずくまったまま出てこないから何度も部屋を覗いて声をかけた。その度にひしゃげた声であーとかうーとか要領を得ない返事をするだけで出てくる気配はない。
温かな布団に乗り上げてたぶん頭がある位置を軽く撫でる。すると冷たい手だけ出してきたので近くにあった体温計を乗せてやると手は引っ込んで、モゾモゾと布団が動いた。しばらくしてピピピと電子音が鳴ると、特大のため息とともに体温計が放り出されて代わりに私を布団の中に引っ張り込むのだ。
体調が悪いときはいつもこうなる。薄暗い布団の中で寒さに震えるのが可哀想で私は体温を分けてやろうと身を寄せた。
泣いて、泣いて泣いてまた泣いて。壊れていく姿をただみていた。私はここにいるよと伝えることしかできない。
私にだけみせてくれる優しさだけは失わないからずっと好きだよ。だから泣かないで、あなたのことが大好きな私がいるから泣かないでいいよ。側にいて、同じ時間を同じ場所で過ごせばいいの。
『すぐに戻ってくるから待っててね』
そんな何でもない壺になんか縋ってバカみたい。
私はここにいるよ、嘘じゃない。
だからドアを開けて迎えに来てね。
【題:バカみたい】
何も楽しくない
言われた通りにしたのに無能だと罵られた。言い返すのも面倒でいつも通り黙って笑いながらその場を去る。
一時期流行った感染症のおかげでマスクをしていても誰にも文句を言われなくなったのが救いだ。目元だけ細めて眉を少し下げれば困ったように笑う人の完成である。口元は一ミリも動かしていないのに、随分と楽をさせてもらっている。
書き心地がよくて気に入っているボールペンでもう何度もリピートしているリングノートを抉るようになぞる。ジャッジャッと重い音が鳴るのを無感動に聴きながらページを埋めていく。文字を書いていたのが線になって、それが湾曲して幾重にも重なり正体不明の絵になって黒く侵食する。紙が反って手を斬りつけてくるので、しかたなくページを破って丸めてゴミ箱に捨てた。
綺麗なものを探して手芸用品を床一面に広げた。
色とりどりの刺繍糸、キラキラなビーズ、無駄なく巻かれたレース糸、ふわふわな毛糸、太さの違う編み針、細く鋭い縫い針、編みかけの何かと縫いかけの布地。
どれもこれも好きで集めたものばかり。目的があるわけでもないのに一目惚れして手元に置いて、しまい込んでは引っ張り出してまたしまうのを繰り返す。
完成した作品は一つもない。最後に何かを完成させたのはいつだっただろうか。全部捨ててしまったから分からないや。
空の瓶にビー玉を詰めて、空に掲げたらカランと音がした。色のついた影が服や床を染めるから何度もカランカランと鳴らす。あんまり鳴らすものだから、一つ、また一つとビー玉が飛び出して最後に残った一つをただ見つめた。
昔、祖父がよく食べさせてくれた缶のドロップを思い出して喉がなった。一番好きだったリンゴの味と同じ色のビー玉が瓶の中にいたから、口を開けて瓶を空に戻してやった。
味はしない。飲み込めもしない。
「…おいしくない」
はやく、誰にもみられないうちにこっそりと吐き出してしまおう。もう、鬱陶しく怒鳴られたくないからね。
【題:夢が醒める前に】
「常春の庭はどうでしたか」
満開の桜を風が柔らかく撫でて、またひとひら花弁が舞う。右へ左へ不規則に弧を描きながら音もなく玉砂利の上に落ちる。僅かに積もったそれらが季節外れの雪を思わせた。
よく磨かれた板張りの濡れ斑で私は一人、庭を眺めている。目を覚ましたときから変わらない景色に今もまだ夢をみているのではないかと錯覚する。
遠くから雷鳴が微かに響いて、枝に止まっていた鶯が飛び立つ。柔らかな花の香りに混ざってじっとりとした水の気配が庭を満たしていく。あれだ、花の濁流。香りが濃くなるあの感じ。
降り出す前に室内に下がる。道具のない文机と飾りのない棚、空の床の間。緋色の座布団だけが色を持っていて空虚な部屋の中で浮いている。
部屋を突っ切って廊下に出る。小さく軋む廊下は等間隔に並ぶ電灯のおかげで薄明るい。突き当たりの壁に額だけがかけられていて、向かって左は庭に、右は建物の奥に繋がっている。
さあさあと微かな雨音が響いている。その音から逃げるように奥へと歩を進めれば、大きく開かれた襖の前に出て自然とその中に視線がいく。
立派な雛壇に向かって緋毛氈が引かれ、早咲きの桃の花が両脇にところ狭しと生けられている。手招かれている気がしてゆっくりと雛壇の前まで進んだ。
シャン
鈴の音がして、目を閉じ頭を垂れる。そうしなければいけない、それが当たり前、常識。
「おかえりなさい」
頭に添えられた手がそのまま優しく撫でてくれる。
泣きそうになって目元に袖を当てたけどつるりと頬を撫でただけだった。思わず顔をあげて撫でてくれた手の主をみる。細められた目と目があって、何も言えなかった。
感情の凪いだ、人形のようなその目に映るものを信じたくなかったから。
【題:安らかな瞳】
どういう形でもいいって言ったけどさ
「はいこれ、どうぞ」
手渡されたのはコッペパンのサンドイッチだった。最近お気に入りのパン屋でのイチオシ商品なんだと楽しそうに語る彼女は大変可愛らしい。
お礼を言って財布を出すと野暮なことはするなと押し留められ、代わりにスマホの画面を突きつけてきた。
「次はここ、ここのパフェ行こうよ」
春らしく桜色で溢れる写真と高く盛られたクリームをアラザンやマカロンやらがこれでもかと華やかに演出している。甘い物好きの私にはたまらない一品なのがよく分かる。速攻でスケジュールを組んで、絶対に攻略するぞと誓い合う。彼女がいてよかった、最高すぎる。
スライスされた合鴨をグリーンレタスが包み込み、隙間には玉ねぎとマスタードが詰め込まれたサンドイッチを頬張る。スパイスの効いた肉の旨味とそれをほどよくまろやかにしてくれる野菜の甘み。それをビネガー漬玉ねぎが爽やかさを足して飽きさせずマスタードがしっかり最後を締めてくれる。
食リポはダメダメでも罪悪感を感じさせない美味しさがここにある。いや、本当に。すごく美味しい。
「美味しそうに食べるねえ」
買ってきた甲斐があったと彼女は笑う。素晴らしいお店を見つけた上に提供してもらえるなど感謝しかないので、感謝を伝える方法の一つとしてしっかり味わっているのである。伝わっていたのなら嬉しいな。
これからも一緒に美味しいもの食べようね、と言うとそうだねと頷いてくれる。幸せだなとまたパンを頬張る。その度に彼女は笑ってくれる。優しい女神だ。
まさか胃袋の絆だとは思わないでしょ
【題:絆】