何も楽しくない
言われた通りにしたのに無能だと罵られた。言い返すのも面倒でいつも通り黙って笑いながらその場を去る。
一時期流行った感染症のおかげでマスクをしていても誰にも文句を言われなくなったのが救いだ。目元だけ細めて眉を少し下げれば困ったように笑う人の完成である。口元は一ミリも動かしていないのに、随分と楽をさせてもらっている。
書き心地がよくて気に入っているボールペンでもう何度もリピートしているリングノートを抉るようになぞる。ジャッジャッと重い音が鳴るのを無感動に聴きながらページを埋めていく。文字を書いていたのが線になって、それが湾曲して幾重にも重なり正体不明の絵になって黒く侵食する。紙が反って手を斬りつけてくるので、しかたなくページを破って丸めてゴミ箱に捨てた。
綺麗なものを探して手芸用品を床一面に広げた。
色とりどりの刺繍糸、キラキラなビーズ、無駄なく巻かれたレース糸、ふわふわな毛糸、太さの違う編み針、細く鋭い縫い針、編みかけの何かと縫いかけの布地。
どれもこれも好きで集めたものばかり。目的があるわけでもないのに一目惚れして手元に置いて、しまい込んでは引っ張り出してまたしまうのを繰り返す。
完成した作品は一つもない。最後に何かを完成させたのはいつだっただろうか。全部捨ててしまったから分からないや。
空の瓶にビー玉を詰めて、空に掲げたらカランと音がした。色のついた影が服や床を染めるから何度もカランカランと鳴らす。あんまり鳴らすものだから、一つ、また一つとビー玉が飛び出して最後に残った一つをただ見つめた。
昔、祖父がよく食べさせてくれた缶のドロップを思い出して喉がなった。一番好きだったリンゴの味と同じ色のビー玉が瓶の中にいたから、口を開けて瓶を空に戻してやった。
味はしない。飲み込めもしない。
「…おいしくない」
はやく、誰にもみられないうちにこっそりと吐き出してしまおう。もう、鬱陶しく怒鳴られたくないからね。
【題:夢が醒める前に】
3/20/2026, 1:17:17 PM