「常春の庭はどうでしたか」
満開の桜を風が柔らかく撫でて、またひとひら花弁が舞う。右へ左へ不規則に弧を描きながら音もなく玉砂利の上に落ちる。僅かに積もったそれらが季節外れの雪を思わせた。
よく磨かれた板張りの濡れ斑で私は一人、庭を眺めている。目を覚ましたときから変わらない景色に今もまだ夢をみているのではないかと錯覚する。
遠くから雷鳴が微かに響いて、枝に止まっていた鶯が飛び立つ。柔らかな花の香りに混ざってじっとりとした水の気配が庭を満たしていく。あれだ、花の濁流。香りが濃くなるあの感じ。
降り出す前に室内に下がる。道具のない文机と飾りのない棚、空の床の間。緋色の座布団だけが色を持っていて空虚な部屋の中で浮いている。
部屋を突っ切って廊下に出る。小さく軋む廊下は等間隔に並ぶ電灯のおかげで薄明るい。突き当たりの壁に額だけがかけられていて、向かって左は庭に、右は建物の奥に繋がっている。
さあさあと微かな雨音が響いている。その音から逃げるように奥へと歩を進めれば、大きく開かれた襖の前に出て自然とその中に視線がいく。
立派な雛壇に向かって緋毛氈が引かれ、早咲きの桃の花が両脇にところ狭しと生けられている。手招かれている気がしてゆっくりと雛壇の前まで進んだ。
シャン
鈴の音がして、目を閉じ頭を垂れる。そうしなければいけない、それが当たり前、常識。
「おかえりなさい」
頭に添えられた手がそのまま優しく撫でてくれる。
泣きそうになって目元に袖を当てたけどつるりと頬を撫でただけだった。思わず顔をあげて撫でてくれた手の主をみる。細められた目と目があって、何も言えなかった。
感情の凪いだ、人形のようなその目に映るものを信じたくなかったから。
【題:安らかな瞳】
3/15/2026, 8:54:42 AM