軽い背中に涙が止まらないの。
あるときから私は何かを背負っていた。
触っても何も無いし、鏡をみても他の人に聞いても何も無い。肩に手を掛けてピタリと背にくっついているような感覚とほんの少しの重量感だけがあった。
ホラー的な何かかと思ってお祓いだったり魔除けのお守りとか試してみたけど効果はない。病気なのではと思って病院にもいったけどいたって健康そのもの。
だから、もう諦めて背中の何かと生きてきた。
成人して、働かなくてはいけない年頃になったときかな。なんだかよく分からないけど、世の中に絶望して働きもせずあちこち巡るようになった。死に場所を探して、そこを私の終の住処にしてしまおうと本気で考えていたんだ。
どこだったかは覚えていない。月明かりの綺麗な夜に海辺を歩いていたら、ここだ、と思った。
穏やかに打ち寄せる波と月光を反射する暗い水にどうしようもなく惹かれた。ふらふらと砂浜を突っ切って、生ぬるい海水の奥深くまで行くのだ。これで片道切符のこの旅を終わらせられる。一際大きく打ち寄せた波に身体を預けて私は沈んだ。
――コポコポ、コポッ
何か語りかけるような空気が漏れる音に気がついた。息苦しいし、海水が目に染みて痛い。ワンピースが纏わりついて身動きもとれず、沈んでいるのか流されているのかさえ分からない。なぜか聴覚だけが異様に研ぎ澄まされて激しい水の音の中に混ざるその音に気づいたのだ。
突然、強い力で身体を引っ張られた。真っ暗だった瞼の裏が明るくなって、大きな水しぶきを上げながら海面へと身体が跳ね上がる。思わず開いた目に、信じられない光景が飛び込んできた。
青白い大きな満月
水晶のような水しぶき
透明なヴェールを纏った綺麗な人
月明かりに照らされる姿を確かにみた。背面からグッと上体を持ち上げて私を飛び越えて行くような格好だったから、しっかりと目があった。微かに動いた唇は空気が漏れる音だけがした。そのまま私を飛び越え、音もなく派手に水しぶきを上げながらその人は海の中へと消えていった。
気がつけば病院のベッドの上。
いろんな人から叱られたし、家族には泣かれたり殴られたりと大変だった。それでもしばらくしたら退院できて、そのときに背中の何かを感じなくなっていたことに気づいた。そしてもう二度と感じることはないのだろうなと思った。
アレは私を殺したかったのだろう。
だから私はあの場所にたどり着いた。
アレは私を救いたかったのだろう。
だから私は病院で目覚めた。
これは予想だが、アレの目的と私の救いが同じではいけなかった。というか意味がなかったのだろう。
アレは私から離れた。意図した賭けではなかったけど勝った。勝ったのか、いや勝ちはしたが目的は果たせなかった。ただ苦しく痛い体験をしただけだ。
私の想いに同調したくせに救ってはくれなかった
許せない許せない許せない
これでは意味がない
【題:勝ち負けなんて】
――意味が、ない
だってあなたは私だけのもの。
「あーあ、きみのせいであの子泣いちゃったよ」
可哀想にね、なんて思ってもないことを並べたてる。それだけで優しいきみは顔を歪めて、何も悪くないのに謝るのだ。何度も、何度も、誰に対してか分からない謝罪をして罪悪感を募らせていく。
「なんできみが泣くの」
ポロポロと透明な涙を零してまた謝る。そうやって少しずつ壊れていくきみが好きだ。俺の思うままに一人踊りする人形はとても美しい。
「俺はきみのものだから、仕方ないよね」
暗く濁った瞳に光が差す。可哀想で可愛いきみ。蜘蛛の糸に縋る罪人のように、俺に縋ればいい。
きみには俺しかいないのだから。
可哀想な私のあなた。
そのまま私に堕ちてきて。
あなたは私だけのもの。
【題:まだ続く物語】
さらさら、さらさら
何をどうしたって無駄だ。
さらさら、さらさら
またこぼれ落ちていく。
さらさら、さらさら
ひび割れた隙間から、
この手から、
何もかも全てが、
「消えていく」
あの人だったら、その言葉で何を考えるだろう。
私は人魚姫を思い出したよ。
代償を払ったのに報われず泡となったお姫さま。
努力、夢、希望、命、何もかもが無駄になる姿。
「今の私と、おそろいだね」
私も消えてしまえばいいのにね。
そこはおそろいになれないみたい。
残念だね。
【題:さらさら】
「雨音が響いていますね」
彼の手から滑り落ちた本は、派手な音を立てて水たまりに沈んだ。あんなに好きだと言っていたシリーズ本を拾おうとせず、私をみて口をパクパクさせて突っ立ったままだ。
しかたないから私が拾って水を払ったけど中まで染みてしまってベタベタだ。タオルで包んで表紙を傷つけないようにしていると、彼は今にも泣き出しそうな顔で抱きついてきた。嫌だ嫌だ、と涙声で訴えるものだから訳が分からず彼を引き剥がして問い詰める。
曰く、『月が綺麗ですね』のような意訳のある言葉を私が言ったかららしい。
『雨音が響いていますね』は『愛していました』となる。
日頃から本に執心して私のことを後回しにする彼にとうとう愛想を尽かしたと解釈し、慌てたのだとか。
私は少し考えて、ふと自分が身につけているペンダントを外した。それを未だ雨が降る空に掲げて彼に聞こえるように大きな声で言ってやった。
「星が綺麗ですね」
賢い彼なら分かるでしょう、と付け加えた。
ちゃんと伝わったのか顔を真っ赤にして謝ってきたので許すことにした。確かに本ばかり読んで私を後回しにするのは面白くないが、出会いのきっかけも私がここに立っている意味も本がつくってくれたのだ。嫌いになることなんてない。それに、真剣に本を読む姿も素敵だと思っているのだから変な心配しないでほしい。疑われるなんて心外だ。
ゆらゆらとペンダントを揺らし、彼はなんて答えるのか待ってみる。きっと当たり障りのない定番の返しなんだろうな。
少し落ち着いた彼は、袖を摘んで真剣な顔で囁く。
――…明けの明星がみたいです
さっきまでの照れはどこへやら。
今度は私の顔が熱くなる番のようだ。
いつまで経っても彼には勝てないな。
【題:やさしい雨音】
――ほろ苦いのが丁度いいね
甘いものが苦手だというあなたのためにダックワーズを作った。甘さ控えめで、片手でつまめるような、簡単だけど手が込んでいるように見えるもの。あれこれ探して見つけたレシピはあなたにピッタリなものだった。
結構がんばって作ったのだ。要領が悪いせいで予定時間の倍はかかった。卵白と卵黄を分けるのを失敗するし、メレンゲは泡立ちが悪くて腕が攣りそうになるし、配分ミスして天板に乗り切らなくて焦るし。もうクタクタである。
バタークリームはコーヒー味にしたけど、レシピの画像みたいにきれいに混ざらなくてインスタントの粒が残ってしまった。味は問題なかったから粗熱がとれた生地に挟んで隠しておいた。
仕事から帰ってきたあなたは疲れた顔をしていた。
夕飯も食べる気力がないと言ったからお風呂に誘導して、その間にコーヒーとダックワーズを準備する。夕飯は食べられなくてもおやつくらいなら平気だろう。たぶん。
わくわくしながらテレビを眺めていたら静かに戻ってきたあなたに気づかなくて、後ろから抱きつかれて心臓が飛び出るんじゃないかというくらい驚いた。くつくつと笑う声に少し腹が立った。
あなたは机の上にあるおやつに気づいて、何のためらいもなく頬張った。不格好でおいしそうとは言えない見た目のそれをおいしいと言って褒めてくれた。それが堪らなく嬉しい。
大きな手を握って、握り返されて
何気ない仕草の一つに年甲斐もなくはしゃいでしまう。
どうかあと少し、この幸せな夢が覚めませんようにと願うのだ。あなたの声を、体温を、優しさも何もかも全てを忘れたくないの。
【題:そっと包みこんで】