さらさら、さらさら
何をどうしたって無駄だ。
さらさら、さらさら
またこぼれ落ちていく。
さらさら、さらさら
ひび割れた隙間から、
この手から、
何もかも全てが、
「消えていく」
あの人だったら、その言葉で何を考えるだろう。
私は人魚姫を思い出したよ。
代償を払ったのに報われず泡となったお姫さま。
努力、夢、希望、命、何もかもが無駄になる姿。
「今の私と、おそろいだね」
私も消えてしまえばいいのにね。
そこはおそろいになれないみたい。
残念だね。
【題:さらさら】
「雨音が響いていますね」
彼の手から滑り落ちた本は、派手な音を立てて水たまりに沈んだ。あんなに好きだと言っていたシリーズ本を拾おうとせず、私をみて口をパクパクさせて突っ立ったままだ。
しかたないから私が拾って水を払ったけど中まで染みてしまってベタベタだ。タオルで包んで表紙を傷つけないようにしていると、彼は今にも泣き出しそうな顔で抱きついてきた。嫌だ嫌だ、と涙声で訴えるものだから訳が分からず彼を引き剥がして問い詰める。
曰く、『月が綺麗ですね』のような意訳のある言葉を私が言ったかららしい。
『雨音が響いていますね』は『愛していました』となる。
日頃から本に執心して私のことを後回しにする彼にとうとう愛想を尽かしたと解釈し、慌てたのだとか。
私は少し考えて、ふと自分が身につけているペンダントを外した。それを未だ雨が降る空に掲げて彼に聞こえるように大きな声で言ってやった。
「星が綺麗ですね」
賢い彼なら分かるでしょう、と付け加えた。
ちゃんと伝わったのか顔を真っ赤にして謝ってきたので許すことにした。確かに本ばかり読んで私を後回しにするのは面白くないが、出会いのきっかけも私がここに立っている意味も本がつくってくれたのだ。嫌いになることなんてない。それに、真剣に本を読む姿も素敵だと思っているのだから変な心配しないでほしい。疑われるなんて心外だ。
ゆらゆらとペンダントを揺らし、彼はなんて答えるのか待ってみる。きっと当たり障りのない定番の返しなんだろうな。
少し落ち着いた彼は、袖を摘んで真剣な顔で囁く。
――…明けの明星がみたいです
さっきまでの照れはどこへやら。
今度は私の顔が熱くなる番のようだ。
いつまで経っても彼には勝てないな。
【題:やさしい雨音】
――ほろ苦いのが丁度いいね
甘いものが苦手だというあなたのためにダックワーズを作った。甘さ控えめで、片手でつまめるような、簡単だけど手が込んでいるように見えるもの。あれこれ探して見つけたレシピはあなたにピッタリなものだった。
結構がんばって作ったのだ。要領が悪いせいで予定時間の倍はかかった。卵白と卵黄を分けるのを失敗するし、メレンゲは泡立ちが悪くて腕が攣りそうになるし、配分ミスして天板に乗り切らなくて焦るし。もうクタクタである。
バタークリームはコーヒー味にしたけど、レシピの画像みたいにきれいに混ざらなくてインスタントの粒が残ってしまった。味は問題なかったから粗熱がとれた生地に挟んで隠しておいた。
仕事から帰ってきたあなたは疲れた顔をしていた。
夕飯も食べる気力がないと言ったからお風呂に誘導して、その間にコーヒーとダックワーズを準備する。夕飯は食べられなくてもおやつくらいなら平気だろう。たぶん。
わくわくしながらテレビを眺めていたら静かに戻ってきたあなたに気づかなくて、後ろから抱きつかれて心臓が飛び出るんじゃないかというくらい驚いた。くつくつと笑う声に少し腹が立った。
あなたは机の上にあるおやつに気づいて、何のためらいもなく頬張った。不格好でおいしそうとは言えない見た目のそれをおいしいと言って褒めてくれた。それが堪らなく嬉しい。
大きな手を握って、握り返されて
何気ない仕草の一つに年甲斐もなくはしゃいでしまう。
どうかあと少し、この幸せな夢が覚めませんようにと願うのだ。あなたの声を、体温を、優しさも何もかも全てを忘れたくないの。
【題:そっと包みこんで】
みんながいいよって言ったから美容院の予約をとった。
もう12冊目になるノートを可愛くデコっていく。青色のノートだからこれからの季節に合う海をイメージしてみた。カラーペンでイラストを描き、シールやラインストーンでコラージュ風に仕上げていく。最後にわたしたちの名前を書いたら完成。
「喜んでくれるかな」
ノートに今日の出来事と連絡事項を記して、机の真ん中に置く。ちゃんと希望の髪型からオーダー方法まで詳しく書いておいたから大丈夫だよね。
次の日は目一杯オシャレを楽しもう。待ち遠しいな。
アラームの音で目が覚める。最近流行りのポップで可愛らしい曲に変わっていたから昨日は『わたし』の番だったのだろう。
丁寧に手入れされた髪と肌は見事にツヤツヤプルプルで、部屋の中もクローゼットの中も夏仕様になっていた。さすが『わたし』だ。完璧でしっかり者の私たちのお姉ちゃんは頼りになる。
机の上のノートはデフォルメされた私たちの似顔絵ときらめく海面をモチーフにしたコラージュで可愛らしくデコレーションされている。
「かわいい」
まじまじとデコレーションされた表紙をみて堪能してから中を確認した。前の日から1週間経っていたから11冊目も確認しておかなければいけない。とりあえず昨日の記録を読んで、美容院の予約がされていることが分かった。オーダー方法からその内容を書いたメモまである。抜け目ないな、ありがたいけど。
時間までまだ余裕がある。作り置きされているだろう朝食を食べてゆっくり支度しよう。
「便利な人格ばっかりだったらいいのにね」
私のようなだらしないやつは出てこなくていいだろうに。この身体は大変だな、本当に。
【題:昨日と違う私】
紅を差して、今日もまたステージにあがる。
トンッ、と弾みをつけて光の真ん中へ飛び込む。
手首につけた鈴をシャンシャンと鳴らし、鮮やかに染められたシルクを泳がせる。
ほう、と嘆息を漏らす客の姿を確認して自然と口角が上がる。曲と曲の間で動きを止めると焦れた様子の客がコールする。
「舞ってくれ」
ただその一言に従順であること。それが私の仕事だ。
客を楽しませてチップを上乗せしてもらえるように愛嬌を振りまくのも忘れずに。特に熱心に観ている客にはサービスしておく。
「待って」
ステージから降りた途端に呼び止められる。振り返ると真っ赤な顔をした酔っぱらいが金貨をひらつかせ、いやらしく笑っていた。定番の誘い文句を言おうとするから手近な見習いを呼び寄せて花飾りのついた籠を酔っぱらいに向けさせる。
こういう店では舞手や見習いに手を出すのはタブーである。見習いに気をつけるよう耳打ちして、ウエイターに告げ口しておいた。これからあの客は出禁になるだろう。
「夢をみるのは勝手だけれど、ルールは守らないとね」
【題:まって】