危うい人だ、と一目見て確信した。
ふらふらと落ち着きなく動き回るくせに、その行動範囲はひどく狭い。誰かが連れ出さないと決められた場所から出てこない、いや、出られないと思い込んでいる。
日毎交代しながら誰かしらが彼女の隣にいる。過去に自ら命を絶とうとしたことがあるらしく、繊細なガラス細工を扱うかのように無理強いせず、彼女のささやかな我儘を聞きながら傍観している。誰もかれも間違ったことだと認識していながらどうすることもできずにいた。
どこか夢うつつのぼんやりとした瞳が瞬いた。バチリと爆ぜるような効果音がつきそうなほどはっきりと、それまでの靄が全て消え去ったような澄んだ瞳が俺を捉えた。
これはチャンスだと思った。逃してはいけない、ここで逃せば彼女を見捨てるのと同じだ。彼女にはちゃんと意思があってまだ残っている。不安か恐怖かそれ以外か、理由はどうであれ彼女の視界を曇らせ思考を奪った何かから助けてほしいと乞われている気がした。
今にも閉じてしまいそうな本来の瞳を留めようと手を伸ばす。強く腕を掴んで狭い部屋から庭へと引っ張っていく。
翳って寒々しい空気で満たされた場所よりも日の当たる場所で彼女を慕う人たちと笑い合う方がいい。
助けを求めたその一歩を誇りに思う、
動けないのならその手を引こう、
絶望を打ち消すほどたくさんの希望を探そう、
ほんの数十年の命を諦めてくれるな
時間は有限だ。彼女と俺とではその有限すら差がありすぎる。数十年先で彼女は俺を置いていってしまう。
きっとこれは俺の我儘だ。ほんの瞬きの時間を見捨てて後悔したくない。いつか終わってしまうならばせめて思い出だけでも残してくれ。こんなこともあったと笑えるようになりたい。
―― だから、諦めはしない
彼女を助けるため、なんて都合のいい嘘をつくことを許してほしい。
【題:やさしい嘘】
第一印象は、自分と似ているな、だった。
自己保身のための逃げ道を最初につくって、それから物事に取りかかる。失敗しても最初につくった逃げ道を盾に言い訳を重ねる。誰もが納得するような言葉で、態度で、表情で、誰よりも自分を卑下する。あとは相手が呆れて去っていくまでずっと繰り返すだけだ。
そんな無責任で情けない愚かな自分が大嫌いで愛おしい。
自分の愚かさに酔いしれる姿がそのまま目の前に現れたのだ。悪いことだと自覚しているのに、同時にそれが最適解だと信じて疑わない相反した思考回路がそっくりなのだ。嬉しかった、自分だけではなかったと彼が証明してくれた。あからさまに表に出すことはしなかったけど皆気づいているのだろう。一歩引いた場所で観察しながら道を踏み外さぬよう誘導して体裁だけは整えてくれる。
その環境にずっと甘えていたい。
でも、深い蒼色の視線がそれを許さない。
どこまでも沈んでいく感覚が心地よくて目を閉じようとしていた。煮詰めた砂糖のように甘い夢をずっとみていたくて、見たくない現実を追い出すために、目を閉じる。
ぐっと強い力で引っ張られて、一緒に沈もうとしていた彼がいつのまにかいなくなっていることに気づいて、絶望した。もっと深く沈もうとした自分を、蒼色の視線だけは見捨てない。
自分の足で立ち上がれ、
動けないなら手を引いてやる、
絶望する暇がないくらいがむしゃらに進め、
絶対に見捨ててやらないから覚悟しろ
なんて眩しいのだろう。直視できそうにない。
でもね、なんでだろうね。隣にいて一緒に沈んでくれるよりもずっと嬉しいの。すごくつらくて苦しいのに嬉しくてたまらない。
―― ねえ、どうして諦めてくれないの
【題:瞳をとじて】
僕には夢がある。他の人からしたらごく当たり前のことでバカにされるような、少しの努力で簡単に叶ってしまうこと。
――― 一人暮らしをしてみたい
昔からどこか人とズレている。
みんなが笑っていても、悲しんでいても、それを数歩後ろから眺めているだけだった。混ざりたいと思わなかったし興味もなかった。曖昧に笑ったり悲しむフリをしたり何一つ共感できないまま、心底どうでもいいと線引した。
おかげで教師からは嫌われ、友人なんてものはいない。隣の席になった、ペアやグループになった、そういうときだけ僕はクラスメイトとして存在を認識される。居ても居なくても変わらない影の薄い陰キャだ。
そんなだから、どこに行っても上手く馴染めずストレスばかり溜まって生きることが嫌になった。酒に溺れ、部屋に引きこもり、検索履歴が死を連想させるものばかりになって壊れていった。
めちゃくちゃな生活だったから当然の結果ではあるが病気になった。一応就活に挑戦してみたりしてたのに、ほぼ自暴自棄のヤケクソだったから何も進展はなかったけど、それでも自分の存在価値を見つけたかった。結局、全部が無駄だった。入院して生きることに必死な人たちと過ごして狂いそうだった。退院して死に損なったことに絶望しつつ、あの反吐が出るような生の渇望の巣窟から抜け出せたことを嬉しく思った。
いつか、みんな死んでしまう。
だったらやりたいことやっても構わないだろう。生きているうちは法やしがらみに縛られて苦しいけれども、死んでしまえば関係なくなる。ようやく僕は、明日は何をしようか、と前向きに考えられるようになった。
でも、人というものは完全に変わることはないのだ。根底にある為人は染みついて消えもしない。一歩踏み出そうとする足を掴んで暗い底に引きずり込もうとする。どうせお前には無理なのだ、これまでもこれからもずっと、諦めろ、と。何の希望もない真っ暗闇な未来の何に夢をみているのだ。ああ、本当に死に損なった。
―――僕は今も昔も、生きることに向いていない
【題:明日に向かって歩く、でも】
雨の中来ない人を待ち続ける君を、好きになった。
恋愛とかそういうものじゃなくて、その人の在り方に惹かれた。自分が目指していた人物像が目の前で意思を持って動いているようで感動したんだ。
傘を差し出したとき君は驚きながらも嬉しそうに振り返ったあと、すぐに待ち合わせ相手とは違うと気づいて泣きそうな顔をしていた。たったそれだけの仕草で君が羨ましくてたまらなくなった。そうやって誰かを想って一喜一憂できる姿がとても眩しかった。
どれだけ親しくなろうとも、どれだけ言葉を重ね行動を共にしようとも、君が待ち続ける人へ向ける想いとは比べ物にならない。思い出は美化されるものだと分かってはいたけど悔しいものだ。まさか一生それが覆らないなんて予想外だった。
でも最期の最後、一瞬だけ僕と目が合った。それまでは透明なガラスを挟んで向かい合うだけだったのが、直接その視界に僕を映して視線を突き刺してきた。
――ずるいひと、
その言葉をそっくりそのまま返してやりたい。
確かに最初はあまりにも僕の理想そのものすぎて、嫉妬から君の在り方全てをめちゃくちゃにしてやりたいと思ったさ。でもできなかった。その魅力に僕の方が先にめちゃくちゃにされてしまったから。
そこからは君の独壇場だった。無茶な要求も理不尽な訴えも全てが愛おしくて逆らうこともできなかった。そうしなければ何の取り柄もない僕を君は置いていってしまうだろうからね。必死だったんだよ。
結局、君は僕を置いていくんだ。過去のアイツを忘れさせることもできない不甲斐ない僕を残して遠くへ行ってしまう。こんなにも、こんなにも僕は、―――。
―――わたしも、あなたひとりだけよ
君も、僕も、肝心なことだけは口にできない。
そこだけは、似た者同士でいられたね。
【題:ただひとりの君へ】
冬の雨のような人だった。
冬なのだから次第に雨は雪に変わって屋根や道路脇を白く染めて雪化粧を楽しめると期待したのに、雨粒は雨粒のまま地面を黒く濡らすだけだった。あのがっかりした気持ちをまさか人にまで感じるとは思わなかった。
にこにこと機嫌よく帰ってきたと思ったら、誕生日おめでとうとケーキの箱を差し出してきたあの日。確かに私の誕生日ではあったけど渡された箱はとても軽くて、開けてみたら中は空っぽ。ひどく酔った彼はそれに気づかず褒めてほしいとすり寄ってくるだけで話にならない。
腹立たしいとすら思えないほど呆れて、すうっと気持ちが冷めていった。彼の手を振りほどいて自宅に帰り、別れのメッセージを送ってブロックした。
彼とはそのまま会っていない、もう会えない。
次の日からの記憶は朧げで、あまり覚えていないのだ。警察とか彼の両親や友人、会社の人がきて私を責めたり殴ったり散々だった。気づいたら病院のベッドで寝ていて、謝罪やら賠償やら喧しい。退院しても煩わしいそれらを弁護士さんが静かにしてくれた。
ぼんやりしたままの私を弁護士さんは励まし叱咤してくれた。彼とは違う、春の嵐のような人だと思った。突然現れて季節を塗り替えてしまうような圧倒的な力をもってすくい上げてくれる。季節は巡る、時は止まらない。今も次の瞬間には過去になっていくのだと教えてくれた。
いつか、私のような薄情者が許される日がくるのだろうか。今はまだ分からないけれど、私は私の背を押す風を信じたい。
【題:追い風】