薄氷に手を添えて、浅い水たまりの中を覗く。
私の体温で溶けていく氷と、冷たい水の塊に温度を奪われていく指先。じわじわと手の形に溶けていって、静かに水底に沈むのをじっとみていた。
もう誰も、私の行動を諌めてくれる人はみんな、いなくなってしまった。
一緒にいると煩わしいのに、いなくても心をぐちゃぐちゃにかき乱して煩わせるなんて。勝手な人たちだ。
じんじんと痛む手を水底から引き抜く。たった1分も経たない間にすっかり冷えきって感覚が鈍っている。
ゆっくりと握ったり開いたりして動きを確かめ、今度は少し力をいれて握り込む。
――かしゃん
薄っぺらな氷が小さな音を立てて割れ、浅く溜まった水が飛び散る。まだ完全には明けきらない冬の朝日を反射してきらきらと光るのはきれいだ。その後は地面に落ちて吸い込まれていく儚い宝石のようだった。
こんな私にも朝がくるのだろうか。
一生、明けてほしくない夜があってもいいじゃないか。
思い出になって風化していくなんて許せない。
「…寂しい」
【題:冬のはじまり】
きっと、この幸せに意味などない。
あの人に見向きもされなくなってどれくらい経っただろう。思い出せないほど昔ではないはずなのに思い出したくない。
毎朝、顔を合わせるだけで挨拶もほんの少しの会話すらない冷めきった関係。夫婦、という名ばかりの他人との同居生活はひどく淡々としていて何の軋轢もなくひんやりとしている。それでも不定期に夫婦らしい営みがあって、もう愛だ恋だという歳でもないのに愛の感じられないそれらが虚しい。
そうだ、あの日、珍しく朝帰りをしたあの人を出迎えたとき甘ったるい香水の匂いがしみついてた。洗濯しようと広げたシャツにはファンデーションがついていて、ジャケットにアイロンをあてようとしたらポケットにピアスが入っていた。あの人も私もピアスホールすらないのに。
それで無理なんだなってわかった。納得してしまった。
嫌いになったかと言われればそれはちがう。そもそも嫌いになるほどの情もなかった。許すも許さないもない。そういうのも全部ひっくるめてあの人と私の関係は成り立っているのだ。
目には目を、というように私も溺れていった。
あいにくあの人ほど破綻した倫理観は持ち合わせていないから、今まで我慢していたことを堂々とやってみただけ。
ずっと店頭に並ぶものを横目に通りすぎていたけどそれをやめた。画面の向こうで美しくなっていく姿を何度もみて覚えていたから実践した。たったそれだけで、すれ違う人々の視線を釘付けにした。
学生なら高校デビューとかいうやつで、今なら垢抜けとでもいうのだろうか。なんでもいいけど私は私を着飾ることに溺れた。
本当に見てほしかった人には見てもらえないこの姿。
―この上なく幸せで、どうしようもなく虚しい人生よ
【題:微熱】
何十年かぶりの家族旅行だった。身体は疲れきっていたけどまったく嫌な感じはしなくて、心地よい疲れとはこのことかと納得する。こういう疲れならたまにはいいかもしれない。そう思いながら帰りの飛行機に揺られながら目を閉じた。
たぶん、これは夢なのだろう。眠る直前まで小さな窓の外をみていたからこんなにもリアルな夢をみているのだ。
飛行機の翼に何かがしがみついている。高速で雲の中を飛ぶのを楽しむように、鳥のような羽に覆われた手のようなものを広げて風を受け、そして流す。
気味の悪いそれをみていたら、黄色の目がギョロリと私の方を向いた。鳥のように大きくてまん丸な目が、人間の顔に無理やりはめ込まれている。なのに口や鼻は人間のまま。
あまりの光景に目も離せずにいると、それは勢いよく飛行機の翼から機体へと這ってきて小さい窓いっぱいに顔面を押しつけてきた。無感情だった顔が喜色いっぱいに笑う。とても嬉しそうで、幸せそうで、安堵しているように感じた。でも気持ち悪い、すごく気持ち悪い。得体のしれないものに喜ばれる自分の存在すら気持ち悪くなるような、そんな顔。
これは夢だ、夢でなければいけない。なんで、どうして、こんな夢を。
ガクン、と大きく機体が揺れた。驚いて目を瞬かせると同時にアナウンスが流れる。もうすぐ着陸するという内容だった。ハ、と短く息を吐き出して、横顔を照らす夕日に気づいた。どうやら雲を抜けたらしい。夕闇と眩しい黄色の光が混ざってとてもきれいだった。そう、夕日はきれいだった。きれいだったんだ。とても、きれいで、きれい。
「…あの子と同じ」
そういえば、夢の中のあいつも同じ顔してたっけ。
あの子はもういないのに、変なの。
【題:はなればなれ】
「おまえってススキみたいだよな」
からかうような軽い口調で言われてムカついた。ようやく退院した幼なじみを見舞いにきたというのにあんまりな言いようだ。
確かに女性らしさの欠片もない貧相な身体つきに適当に纏めただけのパサついた髪はススキに似ているかもしれない。が、だからって顔を合わせてすぐに出てくる言葉にしてはひどすぎる。
「今のあんたの方がよっぽどススキみたいだよ」
1年前は制服のズボンに肉がのるくらいぷよぷよだったくせに、どこもかしこも骨張って細い。ノリで買ったダサい文字Tも全然似合ってない。
退院祝いに買ったこのTシャツも似合わないんだろう。何もかもムカつく。
黙って退院祝いを押しつけて帰ろうとしたら、鼻で笑われた。
「花言葉わかるくらいの可愛げないのかよ」
最後までムカつくやつだな。
【題:ススキ】
ここはとてもいびつだ。歪んでいる。
みんなが愛を望んで、そればかりに夢中になって誰かに与えようなんて考えもしない。こんなにいるのに誰も与えないから誰も得られない。そこにないのに求めるだけ。ないものねだりだ。
母に愛を求めて狂ったフリをする姉は、結局母だけでなく父にまで愛されずに泣き崩れた。
狂った娘を悪者扱いして被害者のフリをする母は、父の言葉の意味を理解しないまま愛されていると思い込む。
母娘喧嘩の仲裁をするフリをする父は、何かあると必ず頼ってくる母にだけ優しくして愛を確認する。
あい、アイ、愛…、ぜーんぶ〝愛〟のため
くだらない家族ごっこを繰り返してまるでそこに親子や夫婦の愛があると信じて疑わない。執着や依存でベタベタに貼り合わせただけの狂気を愛だと言い張るのだ。
同じ顔をした姉を連れて部屋に戻る。破れた古くさいパーティードレスを踏みつけて可哀想な姉を連れていく。鬱陶しい親戚どもに親という名の狂人を押しつけて姉の相手をする。
向かい合って座り、泣き続ける姉と顔を合わせる。同じ造形で同じ髪型をして同じ服を着る双子。周りの理想を押しつけられ個性を全否定される、好き勝手に操られる人形のようだ。
「あなたとわたしはちがう、ちがうんだよ」
だからその顔で愛を求めないで、とは言えない。
でも姉までわたしたち双子を同一視してしまったらふたりとも消えてしまう。ちゃんと別の人間なんだから間違えないで。
「あんな狂人なんかと一緒にならないで」
どうやったらあなたもわたしも救われるのか一緒に考えてよ。傷つかないで、悲しまないで、無理に笑わないで。
あんな奴らのために存在しているわけじゃないって言ってよ。
【題:あなたとわたし】