「ごめんね、お待たせ」
あれこれ悩んでいたら約束の時間になっていて慌てて玄関へ向かった。すでに準備を終えて待っている彼の姿がみえて、さらに足を速める。
玄関の時計は約束の時間ちょうどをさしていた。遅れたわけではないけど、時間に余裕をもって行動する彼をきっと待たせてしまっただろう。一応謝罪はするが彼は待っていないとゆっくりでいいと言うのだ。わかりやすい優しい嘘に甘えてしまうのはよくない、でも嬉しい。
「どうかしたの」
すっかり秋らしくなったのに合わせて装いも変えた。自分の骨格には布地がしっかりしたものが似合うから秋冬の服装は選びやすい。上着の有無で悩むけどこの季節は好きだ。タイトなスカートにブラウスと薄手のカーディガンというよくあるシンプルな組み合わせなのだが、何か気になるのか彼は少し考えるような仕草をして黙ってしまった。
息をするように褒め言葉を吐くのに今回は何もない。それどころか目も合わない。照れるとか嫌悪しているような感じはないのになんでだろう。
頭1つ分背の高い彼の顔を覗き込むと、口元を隠し咳払いをしてまた顔をそらされる。全く隠しきれていない笑いをこらえる姿にイラッとした。
「なんで笑うの」
あまり聞きたくはないけど変なところがあるならはっきり言ってほしい。責めるような口調で問い詰める。
彼は大きく息を吐くとまだ少しニヤけながら腰に手を回した。そのまま引き寄せられて抱きしめられるのかと思ったら、私の下腹を撫でてまた笑い出した。
その意味に気づいたらもう恥ずかしいのと怒りで彼に腹パンして自室に戻った。なんて腹立たしいやつなんだ、誰のせいだと思ってるんだ。
いつも通りにいくわけないのに、わざわざ指摘してくるのがムカつく。どうせ太ったとしか思ってないんだ。
このことは絶対忘れない。診察結果をみて大いに反省してもらおう。
【題:始まりはいつも】
♪こんなに〜お天気なのにね〜
うろ覚えの歌詞を口ずさむ。忘れてしまったところは鼻歌で誤魔化して、何度も同じメロディを繰り返す。
歌詞通り、外はよく晴れていて遠くにみえる木々がほんのり紅葉しているようにみえなくもない。視力には全く自信がないからしかたない。
カラカラと油の足りていないタイヤが回る音が部屋の前を通りすぎていく。空元気な声で楽しそうな会話をする人たちが部屋を出ていった。
まあこんなところで元気よく楽しめることなんてない。だって治療をするための場所で、みんながみんな自分とは無縁の場所だと信じてやまないところなのだから。
「なんだ、随分と辛気臭い顔だな」
当たり前だ。治療を理由にこんなところに閉じ込められていたら誰でもそうなる。スタッフや施設がどうとかじゃなくて、慣れない場所で落ち着かない生活をしていて疲れたのだ。解放される喜びより疲労感が強い。
会計をすませ、荷物と退院処方を両手に久しぶりの外へ自分の足で出ていく。夏とはちがう少し乾燥した暑さを感じた。
「久しぶりのシャバの空気はどうだ」
冗談めかした言葉にムッとして隣に立つ人を見上げた。久しぶりに顔を合わせたその人は相変わらずきれいで、そこに隠しきれない嬉しさを滲ませた笑顔までついてきたら何も言えない。
私の方が嬉しいはずなのに、この人には負ける。
なんだか悔しいな。
【題:秋晴れ】
今だから思う。なんであんなに執着していたんだろうってね。話1つ、趣味の1つも合わない気まずいだけの人を忘れられなかった。
努力した。無駄な努力をした。
本来の自分とは正反対の性格でおどけてみせて、似合わない服とメイクをして、雑に扱われることに満足していた。
その反動でお酒と睡眠薬がなければやっていけなくなった。鏡に映る姿の醜さに絶望しながら可哀想な自分に酔っていた。
まあ、長続きなんてするわけもなく、突然飽きられて病んだ私は捨てられた。実際は飽きられたのだけが事実で私が勝手にすべてのつながりを断ったのが正しい。目が覚めたとかならよかったけど単に疲れ果てて続けられなくなったのだ。気持ちは残っていても身体はボロボロで無理だった。
そんなわけで終わらせようとしたのだ。時間をかけて準備してお気に入りと必需品に囲まれながら眠った。
終わることはできなかったけど、それまでの記憶がごっそり抜け落ちてスマホの中に記録だけが残された。
あんまりにも狂った記録だったから恥ずかしくてほとんど消してしまった。教訓にはなったから無駄ではなかった。
こんな経験、何度記憶を失っても完全には忘れられないよ。記憶に残らずとも記録があって、記録を消しても身体に染みついた感情は消えない。
あの人やあの人に似た人と会うたびに軽蔑と罪悪感が昔の絶望を思い出させるから。
どうせ死ぬのならもっと晴れやかな気持ちで死にたい。
【題:忘れたくても忘れられない】
きっかけは些細なことだった、と思う。
父親に似て整った顔立ちと背丈、私に似て肉付きのいい身体は我が娘ながら世界一美しい。多少わがままが過ぎるのが難点ではあるが、それも許されてしまうほどの器量と才覚を持ち合わせている。
嫉妬とはちがう、羨望ともちがう。とても恐ろしい子。
「お母さんってこんなドレス持ってたんだ」
若い頃に買ってしまい込んでいたパーティードレスを娘が着ていた。大切な思い出の品だ、はやく脱いで返しなさいと強い口調で言った。
あれほど人のものを勝手に漁るなと注意したのにまただ。
「もうこんなの着ないでしょ、わたしがもらってあげる」
ふざけるな、大切なものだと言ったでしょう。はやく返して。つい怒鳴りつけてしまえば、娘は頬を膨らませて不満そうにした。でも急にいやらしく笑ってドレスの裾を掴んで、思いきり割いてしまった。
「お母さんが悪いんだよ」
その言葉で、何かがプツリと切れた。
娘の髪を鷲掴みにして引き倒し、力いっぱい頬を叩いた。痛いと泣き叫ぶ娘の声に夫と親戚たちが駆けつけてきた。夫はすぐに私を抱きとめて落ち着けと言い、親戚どもは娘をかばう。たった一発殴られただけのくせにシクシクと気味悪く泣き続けて鬱陶しい。
『無理だった、やっぱり無理だったの。私は子供なんて育てられない』
娘の前で言った。言ってはいけないことだとわかっていた。その言葉の重みを私は知っているのに言ってしまった。これではどちらが子供かわからないじゃないか。
夫は私に何度も謝った。いつの間にか娘の泣き声が止んでいる。失望しただろうか、それともショックを受けたか。罪悪感と期待がごちゃまぜになって泣いているのに笑いがこみ上げてくる。
『やっぱり、私は狂ってるよ』
娘の謝罪が聴こえるけれどそんなの知らない。腹を痛めて産んだだけの他人の言葉などどうでもいい。ただ慈愛に満ちた目でそれでも愛していると繰り返すこの人だけいればどうでもいい。
――ねえ、私を、わたしを、愛して
【題:子供のように】
よく心の中にギャルやオネエを召喚すると大抵のことは上手くいくって聞くよね。根っからの拗らせ陰キャの私にはそれすらもできないのが悩みなんだけど、いい方法をみつけた。
諦めるのにはもう慣れたし、起きてしまったことはどうしようもない。周りの目とか陰口とかで悲しくて悔しくて苛立つのを全部飲み込まなければいけない。笑えなくても笑って相手に合わせなければいけない。
でもさ、つらいのはかわらない
なら、私の代わりに泣いたり怒ったりしてくれる存在があればいいんじゃないかと思ったんだよ。心の中に押し込んだ感情を発散してくれたら少しは軽くなるから。
感じたことを素直に言葉にできる天真爛漫な天使のような子だったらいいな。誰にでも愛されて何もかも許されてしまう特別な子。
私は心の中に天使のような子を召喚することにした。理不尽なことに腹を立て、陰口に涙し、嫌な相手に食ってかかる姿を瞼の裏に映す。それだけでお腹を抱えて笑い出したくなるくらい晴れやかな気持ちになるんだ。私の感情で最高で最愛の味方。
とてもとてもすてきでしょう?
【題:ココロオドル】