今だから思う。なんであんなに執着していたんだろうってね。話1つ、趣味の1つも合わない気まずいだけの人を忘れられなかった。
努力した。無駄な努力をした。
本来の自分とは正反対の性格でおどけてみせて、似合わない服とメイクをして、雑に扱われることに満足していた。
その反動でお酒と睡眠薬がなければやっていけなくなった。鏡に映る姿の醜さに絶望しながら可哀想な自分に酔っていた。
まあ、長続きなんてするわけもなく、突然飽きられて病んだ私は捨てられた。実際は飽きられたのだけが事実で私が勝手にすべてのつながりを断ったのが正しい。目が覚めたとかならよかったけど単に疲れ果てて続けられなくなったのだ。気持ちは残っていても身体はボロボロで無理だった。
そんなわけで終わらせようとしたのだ。時間をかけて準備してお気に入りと必需品に囲まれながら眠った。
終わることはできなかったけど、それまでの記憶がごっそり抜け落ちてスマホの中に記録だけが残された。
あんまりにも狂った記録だったから恥ずかしくてほとんど消してしまった。教訓にはなったから無駄ではなかった。
こんな経験、何度記憶を失っても完全には忘れられないよ。記憶に残らずとも記録があって、記録を消しても身体に染みついた感情は消えない。
あの人やあの人に似た人と会うたびに軽蔑と罪悪感が昔の絶望を思い出させるから。
どうせ死ぬのならもっと晴れやかな気持ちで死にたい。
【題:忘れたくても忘れられない】
きっかけは些細なことだった、と思う。
父親に似て整った顔立ちと背丈、私に似て肉付きのいい身体は我が娘ながら世界一美しい。多少わがままが過ぎるのが難点ではあるが、それも許されてしまうほどの器量と才覚を持ち合わせている。
嫉妬とはちがう、羨望ともちがう。とても恐ろしい子。
「お母さんってこんなドレス持ってたんだ」
若い頃に買ってしまい込んでいたパーティードレスを娘が着ていた。大切な思い出の品だ、はやく脱いで返しなさいと強い口調で言った。
あれほど人のものを勝手に漁るなと注意したのにまただ。
「もうこんなの着ないでしょ、わたしがもらってあげる」
ふざけるな、大切なものだと言ったでしょう。はやく返して。つい怒鳴りつけてしまえば、娘は頬を膨らませて不満そうにした。でも急にいやらしく笑ってドレスの裾を掴んで、思いきり割いてしまった。
「お母さんが悪いんだよ」
その言葉で、何かがプツリと切れた。
娘の髪を鷲掴みにして引き倒し、力いっぱい頬を叩いた。痛いと泣き叫ぶ娘の声に夫と親戚たちが駆けつけてきた。夫はすぐに私を抱きとめて落ち着けと言い、親戚どもは娘をかばう。たった一発殴られただけのくせにシクシクと気味悪く泣き続けて鬱陶しい。
『無理だった、やっぱり無理だったの。私は子供なんて育てられない』
娘の前で言った。言ってはいけないことだとわかっていた。その言葉の重みを私は知っているのに言ってしまった。これではどちらが子供かわからないじゃないか。
夫は私に何度も謝った。いつの間にか娘の泣き声が止んでいる。失望しただろうか、それともショックを受けたか。罪悪感と期待がごちゃまぜになって泣いているのに笑いがこみ上げてくる。
『やっぱり、私は狂ってるよ』
娘の謝罪が聴こえるけれどそんなの知らない。腹を痛めて産んだだけの他人の言葉などどうでもいい。ただ慈愛に満ちた目でそれでも愛していると繰り返すこの人だけいればどうでもいい。
――ねえ、私を、わたしを、愛して
【題:子供のように】
よく心の中にギャルやオネエを召喚すると大抵のことは上手くいくって聞くよね。根っからの拗らせ陰キャの私にはそれすらもできないのが悩みなんだけど、いい方法をみつけた。
諦めるのにはもう慣れたし、起きてしまったことはどうしようもない。周りの目とか陰口とかで悲しくて悔しくて苛立つのを全部飲み込まなければいけない。笑えなくても笑って相手に合わせなければいけない。
でもさ、つらいのはかわらない
なら、私の代わりに泣いたり怒ったりしてくれる存在があればいいんじゃないかと思ったんだよ。心の中に押し込んだ感情を発散してくれたら少しは軽くなるから。
感じたことを素直に言葉にできる天真爛漫な天使のような子だったらいいな。誰にでも愛されて何もかも許されてしまう特別な子。
私は心の中に天使のような子を召喚することにした。理不尽なことに腹を立て、陰口に涙し、嫌な相手に食ってかかる姿を瞼の裏に映す。それだけでお腹を抱えて笑い出したくなるくらい晴れやかな気持ちになるんだ。私の感情で最高で最愛の味方。
とてもとてもすてきでしょう?
【題:ココロオドル】
真っ白なキャンバスに絵の具を絞り出してそれを刷毛で引き伸ばした感じ。
すべての信号が赤で、人も車も1つもない。等間隔に並んだまま微動だにしない空間がずっと続いている。前にも後ろにも左右のどこをみても同じ。あるのにないんだ。
私は大きな通りのスクランブル交差点のど真ん中に立っている。いくら周りを見渡しても変わらない景色の中にいる。不思議とその場から動けない、というより動かない。動いてしまったらどうなるかわからないのに分かる。変な予感とかじゃなくてそう決まっているのだ。赤信号では動いてはいけないのと同じ、そういうことだ。
そうやってると一つ目の化け物がやってくる。周りの建物や信号を食い散らかしながらこちらに向かって進んでくる。そして私の前まできて言うんだ。
『 、 ?』
バキン、と乾いた音がして気がつく。みると刷毛の持ち手部分が折れてしまっていた。安物のチャチな作りだから私の力でも折れてしまうのだろうか。
キャンバスは三脚ごと倒れて床に転がっている。それを追いかけて刷毛を走らせ、ついには盛大に床にはみ出して絵の具まみれになっていた。
「…寝ぼけたか」
キャンバスと目が合った。目が合ったんだ。
それくらい私は疲れている、そういうことにしておこう。
【題:束の間の休息】
カラン、と涼しげな音をたてて氷が溶けていく。暦の上ならもう秋のはずなのにまだアイスティーが飲みたくなる気温が続いている。
レトロモダンとでもいうのだろうか、ステンドグラスの窓やランプシェードが可愛らしい。窓辺に飾られている砂時計や小さな花瓶もすべてが私好みだ。
机を挟んだ正面でニコニコと笑いながら日常のくだらないことを嬉しそうに話している、私の恋人。
初めて他人に好きだと言われていい気になってしまった。好きとも嫌いとも思っていないのに恋人になった。
失礼だと、はやく別れたほうがいいと、ずっと思っている。だけど別れる理由がなくてズルズルと続いていた。
私の好みに合わせてくれる。上手く話せなくても笑わずに聞いてくれる。無愛想な私を心底愛おしそうに見つめてくる。些細なことだけど、それが嬉しくてたまらない。
――恋してみたい、恋してみたいの
氷はもう溶けきって、アイスティーも温くなった。店内が少し薄暗くなってきて照明がキラキラと輝きだす。すっかり短くなった日に秋の訪れを感じる。
居心地のいいこの時間が好きだ。燃えるような夏よりもずっと好きなんだ。
【題:たそがれ】