「わかってるよっ」
思わず大きな声が出てしまって、慌てた。
ただでさえ静かな場所が一層静まりかえって、いくつもの視線がグサグサと身体中を刺す。いくら通話可とされていてもさすがに非常識すぎる。そういう人を責める視線だ。
未だに通話中の文字が浮かぶ画面を素早く切ってその場から逃げた。なのにいくら進んでも自分が監視されているようなまじまじと眺められているような気がしてたまらない。寒くもないのに震えて鳥肌が立つ。
ようやく自分の車に辿りつき、乗り込む。もちろん後部座席に。お気に入りのストールを頭から被って。無音で人の気配のない空間を確保して。
今度こそようやく、ようやく息を吸える。
堰を切ったように溢れ出した涙は止まらない。でもそれでいい、それであっている。
秘密であったはずなのだ
誰にも知られないはずだった
そういう法や施設ごとのルールだったはずなんだ
それを、それを
「みんな、うそつき、じゃん」
教科書に明記されていても、授業で専門の講師が説明していても、施設に属する上で遵守すべきルールであっても。結局、決まり事は破られるためにあったのだ。
その証拠が今日のこの電話だ。親からの、執拗で粘着質で侮蔑と軽蔑の混ざりあった言葉たち。
病院しか知り得ない情報をばら撒いてそこにガラス片を練り込んで、僕の傷口に塗り込む。どんなに痛くてもつらくても笑っていなければいけない。黙っていなければいけない。余計なことをしないように言わないように、つけ込む隙を消すために。
逃げ出せたと思ったのにだめだった。
わかっていたよ、はじめからわかりきっていた。だってあの人たちがそういう人だってことは誰よりも僕が知っているのだから。
だからといって、人の秘密を簡単に喋るなんて
「ひどいなあ」
【題:誰よりも】
私は今、大きな岩の上にいます。
荒れ狂う海に隆起した小さな島のようなものがある。その上に絶妙なバランスで乗っかっている巨大な卵型の岩があって、私はその上にいる。
少し離れたところに絶壁の崖があり、人工的な塀や建物が乱立しているのが確認できる。塀の一部分だけに妙に豪奢な門があって、そこから崖に沿って蛇行した階段が掘り出されている。門が豪奢なだけで階段は今にも崩れそうな有り様だ。
さて、なぜ私がそんな場所にいるのか気になることだろう。せっかちなのは私が一番よく知っている。
結論から言うと、私にも理由がわからない。
ただ一つ確実なことがある。私はこの場所にきてよかったと心から思っている。キラキラしたものやファンタジーが大好きな私ならここで死んでも構わないと言う。絶対に言う。
この卵型の岩は中身は空洞で、その空洞の内側には一面に彫刻が施されている。それが丁寧だとかきれいだとかの言葉では言い表せないほど緻密で繊細で、もうみたらわかる。私ならわかってくれるはずだ。
そんな彫刻の真ん中になにかの像と祭壇があって、これもまた素晴らしい。だけどどんな形なのか認識できない。
きれいなのはわかるけれど、何がどうきれいなのかわからない。説明が下手なのはみての通りだが、こればかりは本当に説明できない。
だから10年後、この場所にきたときにみてほしい。
「…10年後の私より、ね。頭おかしくなったのかな」
古臭いバリバリの紙に、見覚えのある癖のある字でそんなことが書かれていた。
どうみても私ではなく、叔母の筆跡にみえるのだが。
「宛先間違ってるよ、叔母さん」
車の鍵を持って家を出た。行き先は叔母が入院している県外の病院だ。つい先日事故にあって大きな病院に緊急搬送され、意識はまだ戻っていない。
この手紙が偽物でないことを祈りたい。
【題:10年後の私から届いた手紙】
昼過ぎにメッセージアプリの通知音が鳴った。
外回りに出てる後輩か、期日の近い仕事を押しつけてくる上司か。どちらにせよ面倒事なのは変わらない。
溜息をつきつつ仕事用のスマホをみる。が、誰からも連絡はきていない。
慌てて私用のスマホを取り出す。
チカチカと点滅するライト、伏せられた通知内容にさらに慌てる。
私用とはいえ、数少ない友人はみんな俺と同じような仕事をしていて昼間に連絡なんてほぼしない。両親も健在だが生存確認される程度だ。
そうなってくると思い浮かぶのは、最近婚約したばかりの彼女である。俺と同じでモノグサなやつだから連絡なんて滅多にしてこない。でも重要なことを唐突にポツリとこぼすから油断ならないのだ。
少しくらいなら、とメッセージを確認する。
『熱でて早退した』
『夕飯は食べてきて』
おい、おい。何を言ってるんだこのおバカは。
特大のため息をついて、考える。自宅の常備薬の有無、冷蔵庫の中身、病院いったのか、熱はどれくらい、症状は。
ぐるぐると彼女のことだけが頭の中を駆け巡っていく。
『絶対定時で帰る』
『待ってて』
もう俺も熱でたことにして帰るか。
画面端の時刻をみてまた悩む。仕事は後輩に投げて上司は日頃の借りを返してもらおう。彼女の方が大事だもん。
また女々しいと睨まれるのだろうな。
【題:待ってて】
ふと、すれ違うときに濃厚な花の香りが鼻腔をくすぐって思わず振り向いてしまう。
サラサラとした長い黒髪を揺らして歩く後ろ姿をみて、やっぱり違うと落胆する。あの香りはずっと昔から知っているけれど違う。違うのだ。
学生の頃、すごく美人な子とその子を褒めそやす目立ちたがりの集団がいた。美人な子は口数の少ない大人しい感じだったから、初めて話したとき思っていたよりも低く掠れた声に驚いたものだ。鈴を転がしたような愛らしく透きとおったものを想像していた自分が恥ずかしくて申し訳なくて、結局上手く話せなかった。
それでも優しく微笑みながら私の話を聞いて、たまにポツポツと言葉少なにお喋りして、また私の話を聞く。その何気ない繰り返しにすっかり魅了されてしまって、初めに持っていた印象よりもずっと素敵な女の子だと知った。
思い返してみればいつも聞こえてくる声は目立ちたがりの子たちのよく透るものばかりで、あの子が口を開くところすら見たことがなかった。だから想像ばかりがひとり歩きして素敵なあの子を知らなかったのだ。
癖のない黒髪がよく似合う美人な子。
一人でいればユリの花のように凛としているのに、あの集団に囲まれると途端に空気のように霧散してしまう。
そして集団にさらわれたあとに残るのはたくさんの花をギュッと凝縮したような濃厚な香りだけ。色んな香水やシャンプーの香りが混ざりあって、華やかなブーケに包まれたような気持ちになるあの香りが残る。
でもそれは素敵なあの子のものではない。真水のように無色透明で誰にでも寄り添えてしまう優しすぎるものではない。
同じ黒髪なのに、サラサラとして流れる水のような美しさであったとしても、あの子には敵わない。
誰もがみんな憧れたとしても、決して手の届くことはない高嶺の花だ。あの時のまま、時間が止まってしまった。
あの子も、それに憧れる私も、ずっとそのままなんだ。
【題:誰もがみんな】
――推しが亡くなった
声とか何気ない表情の変化が自分の中にストンと落ちてピッタリはまり込んだような感覚だった。CMでみたその姿に一瞬で恋をした。恋愛や親愛とはちがう、最近流行りの『推し』というものの意味を身をもって理解したのだ。
推しが出演するドラマや映画を観てきゃあきゃあと叫び、たまに流れるCMで見かけたらとてもいい日だとほっこりする。そんな感じのゆるい推し活を日々楽しんでいた。
なのに、ある朝とつぜん緊急速報で推しの訃報が流れた。青天の霹靂なんてものじゃない。自身の片割れを失くしたような消失感だけが残った。
毎日帰宅したらまず一番に録画したCMを観る。
画面の向こうで少しいたずらっぽく微笑み、人差し指を口角にあてながら宣伝文句を読み上げていく。そしてくるりと一回転してポーズを決めたあと、アップで映された推しの笑顔と決めセリフでそのCMは終わる。
「…スマイル、スマイル」
すっかり覚えしまった短いセリフを口ずさむ。
全然笑えないのに、推しがそういうから笑う。何か嫌なことがあっても、その言葉に励まされてきたことを思い出してまた頑張れる。
だからもう一度、いや何度でも。
『スマイルスマイル☆』
【題:スマイル】