ふと、すれ違うときに濃厚な花の香りが鼻腔をくすぐって思わず振り向いてしまう。
サラサラとした長い黒髪を揺らして歩く後ろ姿をみて、やっぱり違うと落胆する。あの香りはずっと昔から知っているけれど違う。違うのだ。
学生の頃、すごく美人な子とその子を褒めそやす目立ちたがりの集団がいた。美人な子は口数の少ない大人しい感じだったから、初めて話したとき思っていたよりも低く掠れた声に驚いたものだ。鈴を転がしたような愛らしく透きとおったものを想像していた自分が恥ずかしくて申し訳なくて、結局上手く話せなかった。
それでも優しく微笑みながら私の話を聞いて、たまにポツポツと言葉少なにお喋りして、また私の話を聞く。その何気ない繰り返しにすっかり魅了されてしまって、初めに持っていた印象よりもずっと素敵な女の子だと知った。
思い返してみればいつも聞こえてくる声は目立ちたがりの子たちのよく透るものばかりで、あの子が口を開くところすら見たことがなかった。だから想像ばかりがひとり歩きして素敵なあの子を知らなかったのだ。
癖のない黒髪がよく似合う美人な子。
一人でいればユリの花のように凛としているのに、あの集団に囲まれると途端に空気のように霧散してしまう。
そして集団にさらわれたあとに残るのはたくさんの花をギュッと凝縮したような濃厚な香りだけ。色んな香水やシャンプーの香りが混ざりあって、華やかなブーケに包まれたような気持ちになるあの香りが残る。
でもそれは素敵なあの子のものではない。真水のように無色透明で誰にでも寄り添えてしまう優しすぎるものではない。
同じ黒髪なのに、サラサラとして流れる水のような美しさであったとしても、あの子には敵わない。
誰もがみんな憧れたとしても、決して手の届くことはない高嶺の花だ。あの時のまま、時間が止まってしまった。
あの子も、それに憧れる私も、ずっとそのままなんだ。
【題:誰もがみんな】
――推しが亡くなった
声とか何気ない表情の変化が自分の中にストンと落ちてピッタリはまり込んだような感覚だった。CMでみたその姿に一瞬で恋をした。恋愛や親愛とはちがう、最近流行りの『推し』というものの意味を身をもって理解したのだ。
推しが出演するドラマや映画を観てきゃあきゃあと叫び、たまに流れるCMで見かけたらとてもいい日だとほっこりする。そんな感じのゆるい推し活を日々楽しんでいた。
なのに、ある朝とつぜん緊急速報で推しの訃報が流れた。青天の霹靂なんてものじゃない。自身の片割れを失くしたような消失感だけが残った。
毎日帰宅したらまず一番に録画したCMを観る。
画面の向こうで少しいたずらっぽく微笑み、人差し指を口角にあてながら宣伝文句を読み上げていく。そしてくるりと一回転してポーズを決めたあと、アップで映された推しの笑顔と決めセリフでそのCMは終わる。
「…スマイル、スマイル」
すっかり覚えしまった短いセリフを口ずさむ。
全然笑えないのに、推しがそういうから笑う。何か嫌なことがあっても、その言葉に励まされてきたことを思い出してまた頑張れる。
だからもう一度、いや何度でも。
『スマイルスマイル☆』
【題:スマイル】
ずっと、それこそ生まれる前からずっと。
『生きていたくない』という思いがある
望まぬ妊娠の末、結婚する原因となった。予定日を過ぎても母親の腹から出てこないから引っ張り出された。
ポンポンと弟妹が増えて、愛される期間もその記憶も何一つ残らないまま成長した。
親にお願いする子、反抗する子、色んな感情をそのままぶつけ合える関係性が理解できない。親子であっても、兄弟でも、友達でも、教師や先輩後輩とかたくさんの人とそれぞれの関係があったのに、頼ったり頼られたりすることに違和感がある。
いつからか人と関わることに消極的になった。
好き嫌いなんかじゃ説明がつかない溝が相手と私の間にあって、それはどんどん深くなって埋まることはない。
たくさん考えた。現状をどうにかしたくて必死にもがいて努力して我慢して頭も口も身体も動かした。
何一つ効果はなかったし報われることもなかった。他人のことも自分のことも放り出した。なんだかよくわからない黒いものに飲み込まれて壊れていく感覚だけは覚えてる。
恨むことも悲しむことも何もない。
ただ自分には向いていなかった。生きることも人と関わることも努力や我慢も全部が、私には向いていない。
こういうことをね、少しでも口に出すと「病んでる」と言われて「構ってちゃん」と評され「可哀想」「役立たず」「邪魔」とか色んな言葉で『私』が作られる。
だから笑う。だから黙る。どんどん空っぽになる。
『病んでて可哀想な役立たずで邪魔な構ってちゃん』が出来上がる。
どこにも書けないとはいうけど、結局は承認欲求とか自己顕示欲とかを自制できなくて吐き出してるからね。
もう救いようのない嘘つきだよ。
【題:どこにも書けないこと】
幼い頃、息を弾ませて他の誰でもない私の方へ駆けてくる幼馴染のことがとても好きだった。
一つ年下の彼はいつも「おねえちゃん、おねえちゃん」と呼んできれいな花や石、お気に入りのおもちゃなどをプレゼントしてくれた。丸くぷっくりとした頬を真っ赤にしてコロコロと転がるように駆けよってくる姿がとてもかわいらしい。
あれから数年、中学校の卒業式で彼から小さな青い花の花束をもらった。所々に同じ形の白い花も散りばめられていて流行り物に疎い彼なりにがんばって選んでくれたんだなとわかって嬉しかった。
「これね、幼馴染がくれたの。かわいいでしょ」
親友に花束をみせて自慢した。きっと、かわいいとか幼馴染にしてはセンスがいいねとか、そういう感想が返ってくるだろうと思っていた。
「幼馴染くんがかわいそうでしょ。家帰ったらその花のこと調べときな」
親友は心底呆れたような顔をしながら花の名前を教えてくれた。ついでに保存方法なんかも細かく伝授され、大切にしなさいと念を押された。
写真撮影やら挨拶やらを終えて帰路につく。幼馴染は先に帰されてしまったから久しぶりに一人だ。
花束を掲げて空を仰ぐ。よく晴れた空の青とふわふわとした雲のようだ。
――そういえば今日は昔のように真っ赤な顔をしてたな
幼馴染は何を想ってこの花を選んだんだろう。口下手なのは知っているけど、こんなにも遠回しな伝え方をするなんて思ってなかった。
本当はこの花も花言葉も知ってるよ。でもね、直接聞きたかったんだ。
「やっぱり、かわいそうなことしちゃったかな」
【題:勿忘草(わすれなぐさ)】
息を吸って冬の冷たい空気を肺に取り込み、ぬるくなった白い息を吐き出す。寒さがより身に沁みて微睡んでいた頭が少しずつ覚醒していく、この感覚が好きだ。
ポットに水を入れて沸かし、冷えきった白湯だった水を捨ててコップを洗う。正直、白湯とか水とかの区別はよくわかっていないから飲み頃温度の水のことを勝手に白湯と呼んでいる。
だから冷えきった水も沸騰したお湯も飲み頃にさえなればそれはもう私の中では白湯だ。
決まった時間に音楽が流れる仕掛け時計が朝の歌をうたう。タイトルはわからないけれどゆったりとした動揺のメロディは心地いい。憂鬱な朝のほんのひと時の癒やしだ。
「これがあなたにも聴こえたらいいのにね」
小さな写真立ての中に白黒の写真が収まっている。その隣を指人形や鈴のついたおもちゃが賑やかし、一輪挿しの花瓶にさした赤いアネモネが彩りを添える。
一度たりとも見せることも触れさせることもできなかったそれらは、それでも静かに寄り添ってくれている。
あなたがいるところまで届けたい。
あなたのためにも、それらのためにも。
「喜んでくれたらいいな」
【題:あなたに届けたい】