ギアー・マン
私は歯車の国の住人だ。名前はチャールズ。私の身体は無数の歯車で、友人のトムもそうだ。この国の国民みんなが歯車だ。いつ生まれたかなんて、知らない。気がつくと、こうしてみんなと複雑に絡み合って、仕事をしている。我々に与えられた仕事は常に回転していること。たまにオイルを注しては、働き続ける生涯だ。
滑稽に思うだろうが、私は自分が歯車であることを誇りに思っている。大海の魚のように、自由ではないが、苦痛ではない。誰かのために働くことは心地よささえ感じる。しかし、私は死ぬまでなぜ、なんのために自分が歯車なのか解るまい。
先日、トムが狂って死んだ。新品のジムがトムの代わりを担っている。私もいつかトムのようになるのだろうか? それでも、私の国は動き続ける。
イン・ザ・ホスピタル
白衣を纏った美しい女の子が
僕の居る部屋に来た
その子の笑顔はまるで宗教画の聖母のよう
その子の声は教会の讃美歌のよう
その子の瞳は煌めくダイヤモンドのよう
僕の姿を見ても表情ひとつだって変えやしない
悲鳴なんか絶対にあげないんだ
だから好きだ
僕の両親は僕を気味悪がったのに
この白衣の女の子は受け入れてくれる
勘違いかもしれない
だけど、僕は今すぐ抱きしめたいんだ
両腕があるなら
だけど、僕は今すぐその子と踊りたい
両足があるなら
神様
あの子は僕を救いに来てくれたんだろう?
神様
僕はかつて貴方を呪ったよね?
でもね、今は貴方に心の底から感謝しているんだ
このベッドを飛び出して
この不自由な肉体を飛び出して
この病院の中を飛び回り
この世界のあちこちを歩き
この天使のような女の子に愛を告げよう
風に扇がされた白衣が、天使の翼に見えた
聴こえるのは、心電図の音
レントゲン撮影の音
他の患者の無数の呻き声…
スクール・オブ・バナナフィッシュ
僕は自然史博物館のすぐ近くにある広場で、本を読んでいた。土曜日の昼だったこともあり、広場には子供や大人がレジャーシートを広げて、その上でランチをしていたりした。僕はあまりお腹が空かなかったので、家から持って来たバナナを二本食べたばかりである。
僕が医者から言われたのは、『とにかく陽を浴びること』。だから、仕事以外で(そもそも既に仕事は辞めているのだが)久しぶりに家の外に出て歩いてここまで来たものだから、やけにしんどさを感じた。何か別の病気かもしれない。心の病の他に何か別の、恐ろしい病気だったりして。
こうしてのんびりと本を読んでいると、生を実感する。ほんの半年前まで銃弾が飛び交う世界に居たとは思えないくらい、平和だ。さっき食べたバナナもそうだけど、あの世界ではバナナは貴重な食糧だったものだ。それが今じゃ当たり前に店で買える。あれほど泥水を濾過した水を飲んでいたのが馬鹿らしくなるくらい、すぐそこに自動販売機がある。
つまり、僕はラッキーだった。だけど、何も幸福を感じないんだ。この半年間ずっとだよ。きっともう僕は別の国からやって来たのだろう。僕は、この世界で一人ぼっちだと思った。仲間は皆死んでしまった。僕が今読んでいる本もちょうど、そんな内容なんだ。
もう帰ろう、と立ち上がり、海沿いを歩いて帰る途中、不思議な魚の群れを見た。その魚は、本で読んだものにそっくりで、僕は彼らに余ったバナナを与えて、一匹がそのバナナを咥えて消えていくのを確かに見た。バナナを食べる魚が本当に居たのが、嬉しくて仕方なかった。同時に、僕は一人ぼっちじゃないという気持ちが沸き上がってきていた。
遠くで、広場ではしゃぐ子供達の声が聞こえた。
コンプレックス・ボックス
僕は弟を、殴った。
反撃してこようものなら、蹴りも入れた。
弟の全てが、憎かった。
殺さない程度に、痛め付けた。
そして最後に、小さな箱の中に閉じ込めた。
僕は泣いた。
小さな箱を抱きしめながら。
僕より背が高いのが大嫌いだった。
僕より賢いのが大嫌いだった。
僕より大人っぽいのが大嫌いだった。
僕よりおしゃれなのが大嫌いだった。
僕より顔立ちが良かったのが大嫌いだった。
僕より女の子にモテるのが大嫌いだった。
僕より家族に愛されていたのが大嫌いだった。
だけど、僕は弟が好きだ。
きっと死んでしまったら、喪失感から立ち直れないだろうと思う。
死ぬべきは、この僕だ。
だけど、僕が死んだら、弟は泣いてくれるだろうか?
僕への憎悪で満たされた小さな箱を抱えながら、僕はただみっともなく泣くしかなかった。
リバーサイド
そこは、まるで天界の楽園だった。
美しい庭園が無限に広がっており、春のような陽気さえ感じた。
空は神々しいまでに無数の星ぼしがきらめき、夜のように見えるのに、辺りは有り得ないほど明るい。
光のきざはしを昇ると、一本の川が流れていた。
川岸から向こうを見ると、さらに美しい世界が広がっており、何やら音楽のようなものまで聴こえてくる。
川の向こうには、たくさんの白い人が笑顔で並んで座って、楽しそうにおしゃべりしていた。
さて、どうやって向こう側へと川を渡ろうかと私は考えていると、視界はぐにゃぐにゃと歪んでいくではないか。
私は待ってくれと、手を伸ばしたが、間もなくそれらの楽園は忘却の彼方へと砂のように消えていき、目を覚ました私の目には涙が浮かんでいた。
夢なんかじゃない。なぜなら、そこら中に大量の薬の空き箱が散らばり、昨晩、私はあと一歩のところで失敗したのだから。
止めどなく涙は溢れ、私はよろめきながら、まだ記憶が鮮明なうちに、もう一度あの世界へと飛んでいくためにカミソリで何度も何度も手首を切ろうとしていた。