ジェームズ・ボンドに愛を告げて
世界最高の大怪盗がアルセーヌ・ルパン氏だとするなら、世界最強の情報特務工作員はジェームズ・ボンド氏だと私は思う。
情報特務工作員、つまりスパイ。冷戦下の大英帝国の秘密機関MI6に所属する彼は『M』からの指令を受け、ワルサーPPKを片手に世界中に潜入する。
私はそんなジェームズ・ボンド氏に愛を告げよう。
アストラル・プロジェクションという行為
まず、行ったのは意識の喪失。
私の意識は、ずっとずうっと深い領域へと降りていく。そこは暗黒でもあり、無でもある。
私の身体と魂を繋いでいる魔法の糸が切れない限り、私はこの世界、宇宙のどこまでも縦横無尽に歩き回り、テレポートすることができる。
昨日、テレビでやってた幽体離脱の方法。まさか、本当にできるだなんて、思ってもなかった。
これは夢? ううん、まさか。私は今、自分の身体を部屋の天井から見下ろしているのだから。
魔法の糸を垂らして。
この糸がもしも切れてしまったら、私は死んでしまうのだろうか。
そもそも、幽体離脱は死の体験なのだろうか。
もしもそうなのだとしたら。
私は喜びを感じていた。
なるほど!これが死だったのか!
気にしないで、私の盟友
「その、答えたくなければ、それでいいんだけど」
僕はリサ・ウェイクフィールドに聞きずらそうに、敢えて彼女のグリーンの目を見ないようにして言った。
「あと一時間後に、君の記憶は全て消えてしまうけど、今、君の心境はどうなの?」
彼女は切なそうに笑って言った。
「とても悲しいわ、ロバート。私は今、とても悲しい。こうして強がって笑っているけど、本当はものすごく怖いの」
僕は耐えられなくなり、彼女を抱き締めた。彼女が嫌がっても、離すもんか。僕は強く強く抱き締めて、彼女の温もりを意識しようとした。
「痛いわ。ロバート」
彼女が身を捩る。
「『愛してる』と言ってくれ。言わなきゃ、離さないぞ」
すると彼女も僕の背中に腕を回した。それから、耳元で囁くように『愛してる、これからも、ずっと』と言った。
全世界で、思春期の女性だけ記憶が全て消えるという奇病が蔓延していた。彼女のリサも感染し、僕は最後の一時間を彼女と共にするために、こっそりと彼女を連れ出した。
僕らは冬の浜辺で海を見ていた。僕と彼女が初めて出会った思い出の場所。無数の星がきらめき、プラネタリウムにいるような気分になった。時計を見ると、残された時間はもう三十分を過ぎていた。
記憶を失うというのは、実質、死を意味している。もう間もなく彼女は僕を認識出来なくなり、彼女を形作っていたものは崩壊してしまう。僕はどうしても泣きたくなかったのに、泣いてしまった。
「泣かないで、ロバート・ハリス」
彼女が僕の涙を拭い、そっとキスをした。
「君が君で無くなるなんて、耐えられないよ。君の記憶が消えたら、僕はあの海へ身を投げようか…」
「ダメよ」
彼女は強く言い放つ。
「そんなの許さない。ロバート、私は別に死ぬわけじゃない。貴方の知らない『何か』になるだけ。これってそんなに悲劇なことじゃないわ。だから、貴方も私もこれまでと同じように生きるの。気にしないで」
彼女の目が淀んでいく。
「今までありがとう。私を唯一理解してくれた盟友。さようなら」
彼女はぐったりと倒れた。僕はもう顔をぐしゃぐしゃにして『かつて彼女だったもの』を砂浜に横たわらせて、金の髪を撫でていた。
しばらくして。
「ふああ、んは。あれ? ここどこ?」
『彼女だったもの』が辺りを見回していた。
「ここはマイアミのサウス・ビーチですよ。僕はロバート・ハリス。君の名前は?」
ソードフィッシュの災難
一匹のグリズリーがいた。彼はこのカナディアン・ロッキーの中で生息するどの他のグリズリーよりも凶暴で、現地に住む人々からも『ベルゼブブ』と呼ばれて大変恐れられていた。彼に補食された人間は数多くいる。しかも、彼の右肩には四十四口径のマグナム弾を食らっているにも関わらず、致命傷には至らなかった。
彼は、陸上で最強の生物だと盲信していた。
一匹のメカジキがいた。彼は太平洋で生息するどの海洋生物よりも俊敏に泳ぎ、彼の天敵であるシャチですらも泳ぎには勝る力を持っていた。食べ物は小型の魚類だったが、いざとなれば剣のように鋭い鼻でどんな敵もひと突きにできると彼は思っていた。
彼は、海洋生物の中で最強だと盲信していた。
そんなグリズリーとメカジキが出会ってしまった。どうして陸の生き物と海の生き物が出会うことがあるのか?それは愚問だ。何故ならグリズリーは陸の生物を全て駆逐し、メカジキもまた、海の生物をことごとく殲滅したからである。
地球上の動物はグリズリーとメカジキだけが残った。おかしな話だが、彼らは戦いを始めた。地球最強の生物はどちらか、決着をつけたかったのだろう。両者は浅瀬で戦うことにした。
結論を言うと、グリズリーはメカジキの腹を爪で引き裂いて、メカジキは内臓を溢しながら沖へ流れていった。だけどソードフィッシュと呼ばれるだけあって、彼もグリズリーに自慢の鼻を心臓めがけて突き刺した。鼻は折れて、メカジキはそのまま死んでしまったのは言うまでもない。
グリズリーもメカジキの鼻が突き刺さったまま苦しそうに陸までよろけながら歩いたが、バタリと倒れて死んでしまった。
こうして、地球には昆虫と植物以外、人と動物はみんないなくなった。
メカジキは『ソードフィッシュ』という立派なあだ名もあって、その最期はあっけないものだった。
彼らの災難から僅か数日後に、地球に隕石が衝突して全てが終わることを、彼らが知る由もなかった。
赤い星のクリスマスツリー
僕がコネチカットの住宅街で生まれた年、一つの超大国が15の共和国に分裂して、崩壊した。クリスマスは悲しい日だったのさ。だけど、家族のみんなはクリスマスの日、つまりキリストの誕生日に生まれた僕を『神聖な子ども』としてそれはもう素敵な名前をつけてくれたよ。
「もう共産主義は終わりだ!」とゴルバチョフが嘆いて、ソ連最高会議幹部所を立ち去ったかどうかは定かじゃない。でも、ほとんどのアメリカ人や自由主義経済の国民は「ああ、ようやく冷戦が終わったんだな」と胸を撫で下ろして、クリスマスを祝ったことだろう。
だけど、僕が10歳になった九月のことさ。コネチカットのすぐ近くのニューヨークで、二つのビルにハイジャックされた飛行機が突っ込んだ。父さんも母さんも「パールハーバーだ、世界戦争だ」とブラウン管テレビの画面の中で炎上する二つのビルを観て叫んでいた。
それから、今度はテロとの戦いの時代が始まったことは、言うまでもない。アメリカには、常に『敵』がいて、なんだかんだ常に戦争してる。それで僕はどうしたかって。大学を中退した後海兵隊に入隊してイラクへ向かった。そこでタリバンと戦ったよ。フロリダ出身のマイクとは戦友になった。彼、いいヤツだった。だけど、胸に赤い星のバッジをつけたタリバン兵士にAKライフルで射殺されてしまった。
そんなことがあって、僕はもう赤い星がトラウマになっちまった。帰国の許可が降りたので、またコネチカットの自宅に戻ったけど、戦争後遺症というヤツさ。夜中に叫んだりして家族を困らせたから、ニューヨークに独り暮らしすることになった。
ああ、そうだ。赤い星についてだけど、あれ、共産主義のシンボルなんだってさ。ニューヨークの昔ながらの住宅街はクリスマスの飾り付けで忙しそうにしてたけど、そういや僕が借りている家の近所のクリスマスツリーのてっぺんの星が赤色だったな。
なんで金や黄じゃなくて赤にしたんだろうな。ソ連崩壊を皮肉ったのかもしれないし、飾り付けたヤツがただ無神経なだけだったのかもしれない。
僕はそのクリスマスツリーが不愉快で仕方ない。