ぼくは海のある所が好きだ。
海は一つしか無いのに、時間や場所によって全く違った物に見える。
この町の暖かくて黒々とした海も。あの港の流れのない濃紺の海も。あの岬の激しく白い海も。あの岸の澱んだ赤茶の海も。
全部一つの海。
どんな姿でも海は堂々としている。
ぼくは自分の色々な姿を、内側に隠してしまって、自分を縛ってしまう。
しかし、海へ眼を向けると、ぼくも少しばかり、自分を自由にする事ができる。
いつか出会う新しい海へ。
お世話になります。どうぞ宜しく。
海の向こうに見える山の頂には、低くて暗い雲が触れていて、
ゆっくりとこちらに向けて滑り降りているようだった。
少しもすると、ここもあの影の下になってしまうのだろう、そんな直感から、僕は坂を降りる足を急がせた。
空模様にはそれぞれ匂いがある。
やわらかに晴れた春の日は、もぎたての苺。
梅雨の雨上がりは、アスファルト。
目の眩むような夏の日は、水をたっぷり与えた芝生。
秋の曇り空は、図書室。
唯一香りがしないのは、真冬の真っ暗な北海道の夜。
部屋の暖炉や、手の中のグラスの放つ、パチパチ、トロトロした刺激的な匂いも、一歩外に出て、空を見れば一瞬で消えてしまう。
日々の忙しさや厳しさにばかりに縛られてしまうと、分かり易い音や香りや情景にばかり気が向いてしまい、隠れている空の匂いに気付かなくなってしまう。
海の渡ってきた雲の落とす夕立の匂いはどんな風だったろうか。
僕は確かめるために、坂を降りる足を緩めることとした。
真黒な美しき怪物よ
どうか、僕を抱いてくれ。
君の大きな体は沢山の命を湛えていて、その下には多くの死が眠っている。
真黒な夜の海の下。
そこには静かな揺らぎがあって。
いつも僕を待っている。
いつか誰もが行くところ。
僕の大叔父さんもそこにいて。
僕をいつも待っている。
渚に足を浸すと、溢れたインクの様に黒くてしっとりした手が僕を優しく引っ張る。
いつか行きます。待っていて下さい。
黒い怪物に静かに呟く。
彼は何度も何度も僕に触って返事をする。
出て行こうこの街を
ここは真昼でも影に覆われていて
真夜中でも陽に焼かれる
気づいたんだ、ここにいたら余計に磨り減ってしまうだけだって
出て行こうこの街を
そうすればきっと少しは楽しくなるはず
この街は晴れていてもびしょ濡れになってしまって
雨の日でもカラカラになってしまう街だから
つまらない事でも
どんなにつまらない事でも
きっと別の街でなら
変わる様な気がするんだ
もし明日晴れたなら。
学校を抜け出して、公園に行くんだ。君と一緒に。
あの池のある公園に。
小さなカフェと大きな緑と、敷き詰められた青と。
半日だけのアヴァンチュール。
カフェテラスに流れるシナトラがどう歌おうとも、この関係が続く事はない。
それでもいいんだ、時が来れば飛び去るだけ。
はっきり言わせないで欲しい。
ただ、いま一緒にいたいんだ、なんて。