海の向こうに見える山の頂には、低くて暗い雲が触れていて、
ゆっくりとこちらに向けて滑り降りているようだった。
少しもすると、ここもあの影の下になってしまうのだろう、そんな直感から、僕は坂を降りる足を急がせた。
空模様にはそれぞれ匂いがある。
やわらかに晴れた春の日は、もぎたての苺。
梅雨の雨上がりは、アスファルト。
目の眩むような夏の日は、水をたっぷり与えた芝生。
秋の曇り空は、図書室。
唯一香りがしないのは、真冬の真っ暗な北海道の夜。
部屋の暖炉や、手の中のグラスの放つ、パチパチ、トロトロした刺激的な匂いも、一歩外に出て、空を見れば一瞬で消えてしまう。
日々の忙しさや厳しさにばかりに縛られてしまうと、分かり易い音や香りや情景にばかり気が向いてしまい、隠れている空の匂いに気付かなくなってしまう。
海の渡ってきた雲の落とす夕立の匂いはどんな風だったろうか。
僕は確かめるために、坂を降りる足を緩めることとした。
8/19/2022, 4:13:27 PM