冬の波打ち際を裸足で駆ける。
足が痛くなるほど思いっきり走った。
勢いよく吸った空気は肺を裂くように冷たい。
長い間冬の風に晒された体は冷え切って、末端から悴んでいく。
指先が震えて、上手く動かない。
キーンと、耳障りな音がする。視界が揺れて、二重に見える。
けれど、けれど、そんな痛みも苦しみも、何一つ入ってこない。
──だって、今日が最後なのだから!
嬉しくて、頬の笑みが一層深くなった。
側から見たら気狂いだと思われるだろうか。
瞳孔が開き切っている。自分でもわかるくらい、正気ではない。
でも、今はそんなのどうだっていい。
誰もいない夜の浜辺。満月が水面を照らして、星が浮かぶ。
きらり、きらり、波打つたびに光る海は大きくて、
暗くてなにも見えない夜だって、きっと照らしてくれる気がした。
清々しいほどの狂気が身を包む。
体は、ゆらりと動き出していた。
ゆっくり、凍えて痛む足を踏み締めて。
ゆっくり、月に向かって足を進める。
ちゃぱ、ぴちゃ。足が水に浸かる。
ざば、ざぶ。腹まで沈んだ身体は、思ったように動かない。
身体を前に、ざぷりと倒れこむ。
海に身を投げ込んだ。
ごぽり。全身が海に包まれる。冷たい水が痛いけれど、今だけ。
この一瞬だけなのだと思うと、歓喜さえ感じた。
目が凍りつくようだ。けれど、閉じる気にはなれなかった。
段々、感覚がぬけていく。
意識がぼやける。まるで、ゆりかごに揺られているよう。
ああ、ああ。入り込む海水が苦しいのに、吐き出す泡が心地いい。
ついに視界が回り出して、ぐわん、ちかちかと視界に星が舞う。
なぜか、あたたかいと、思った。
海の底に落ちて、ゆらいで、
溶けるように、交わるように。
そのまま、全てを、手放した。
暗く深い色に落ちた夜が明けて、色づく空が綺麗だ。
白いだけではない雲と鮮やかな青が広がる空。
早朝の凪いだ海の色、ちらり見える歩く人影。
じっとしているとまどろんでくる。眠気に抗いながら、
色とりどりに移ろう空間をぼんやりと眺めていた。
いくら時間が経っただろう、寒空に晒されて指がかじかんでくる。
冷たくなった指を温めようと下を向いてため息を吐いた。
冷たさが目を覚ましてくれた。
ようやく体温の戻った末端に安心して顔を上げると、
気がつけば明るくにじんで、朱色に染まりたてていた。
波間の水平線に、眩しく綺麗な火が灯る。
あたたかい、始まりを告げる日が登った。
──暗く沈んだ、明けない夜を駆け抜けて、
きみを、ずっと、探し続けている。
段々とすり減っていく靴底。
旅を始めてから、どれだけの時間が経ったんだろう。
きみを奪われた日から、どれだけ経ったか。
頭に焼き付いたあの日の光景。
焼き付く炎の香り。舞い上がる火の粉。
喉元に突きつけられた、冷たい刃。
歪む視界に写る背中、
きみの諦念と懇願を秘めた声が、祈るように地に落ちた。
守ると誓った。
それなのに、私を守って、きみは。
今でも鮮明に思い出せる感覚に息が詰まって、
浮かぶ暗い思いを振り払うように深く息を吸った。
いくら苦しくても、迷ったって、今は前だけを向くんだ。
過去の後悔も、今の不安も、
すべてを前へ進む追い風に変える。
いかなる困難だって乗り越えてみせる。
流れ落ちる星に祈りを篭めて、
淡く照らす月に誓いを立てた。
奪われた唯一を取り戻す、その決意を。
消えぬ篝火、絆の形。進む勇気は、楔はそこに。
結末なんてわからない。奇跡はないのかもしれない。
それでも、どんな終わりを迎えたとしても、
あの場所へ辿り着くと決めたから。
ずっと歩み続ける。
きみを求めて、もがいて、進む。
いつか来る、夜の果てへ──!
ある日起きたら、自分の背に翼が生えていた。
正気を疑う内容。けれど、それは確かな事実だった。
天使のような、大きく生える純白の翼。
揺らすように、動かそうとしてみると、肩甲骨が軋んだ。
少しの違和感の先、ばさりと風が起きて、
はらり、羽根が舞い落ちた。
落ちた羽根は、すうっと透明に透けていく。
消える前に拾い上げると、透明なままに形を保っていた。
光に翳すとその輪郭がほのかに色づいて、きらきらと眩く反射する。硝子細工のような羽根。
触ると少し冷たくて、それでもやわらかかった。
まるで信じられない光景に驚きながらも、
頭はどこかひんやり冴えていて、
不思議な高揚感に包まれていた。
そして、ひとつ過ぎった想い。
──いまなら、飛べる!
思い立った瞬間、窓を開けて、飛び出した。
飛び方なんて知らないのに、衝動のまま動かす。
神経を繋げるように、小さな羽ばたきを繰り返す。
感覚が肩甲骨を伝って、大きな翼を広げた。
翼が風を切って空を翔ける。
遮蔽物のない自由な空を思うままに飛び回った。
早朝の空は淡い色で、冷たい風が肌を撫でる。
雲が光を受けて輝く、澄んだ空気が美味しい。
冷たいはずなのに、興奮した体は熱くって、
勢いのまま、また強く翼を羽ばたかせた。
楽しくて、楽しくて、全てを振り払うように飛び続ける。
鳥になったよう、風になったよう!
空を踊り舞うように、繊細な羽根の動きを制御する。
もう身体の一部のように馴染んだ翼。
最初からそうだったようにも感じる。
ああ、楽しい。
そう思っていられたのは、
次に高く飛ぼうとした時までだった。
あれ、あれ、おかしい。
動かせていたはずの翼が、動かない。
必死に力を込めても、少しだって動かない。
翼は重くなる一方だった。
どうして、なんで、気が焦る、血の気が引いていく。
抵抗のなせない身体は、そのまま空中から地へ、
重力に従って、真っ逆さまに墜ちていく。
風に切られて羽根が剥がれた。
光に反射して綺麗に、残酷に散る羽根を眺めて、
身体は勢いよく、地に叩き付けられた。
……はずだった。
衝撃に体が起き上がる。
目を何度も瞬かせると、違和感に気付く。
ここは、布団の上?
あまりに非現実的で、けれど現実的だった。
翼は繋がっていた、空を翔けていた。
背に残る感覚に縋るように、自分を柔く抱いた。
肩甲骨にはなにもない。翼は、なかった。
震える吐息。つめたい汗が頬を伝う。
大きく脈打つ鼓動が耳に残って離れない。
騒ぐ心臓に、喉を締め付けられて、くるしい。
鼓動を落ち着かせようと、ゆっくりと呼吸を繰り返した。
とくとく、ようやく落ち着いた鼓動を聴きながら、夢の内容を思い出す。
綺麗な景色。広い空。
流れる風。大きな翼。
本当に夢だったのか、今でも疑ってしまう。
窓から差し込む光が部屋を照らす。
眩しくて咄嗟に目を瞑ると、一瞬、何かが光った。
そんな気がした。
ふわり、手に何かが触れた。
見えないけれど、何かが、ある?
覚えのある肌触りに、必死に記憶を手繰り寄せる。
そう、そうだ、思い出した、これは……!
──あの夢はきっと、嘘ではなかった。
触れたものを拾い上げる。
透明な想いを、指先にのせて、
見えない羽根を、光に翳した。
──まだ終わらないで、時を止めて
この感情を、この衝動を!
鋭く研ぎ澄まされた刃物のように、苦しくなるほどの高音を高らかに滑らせる、繊細で迫力あるヴァイオリン。変幻自在のピアノ、熱く刻むドラム、ほかにも、沢山の楽器の音。
8000を超える人間に、一心に見つめられながら、感情を乗せ、その喉を震わせ声を上げて!
表現者にして支配者となる、彼女らの歌声。
体の芯が、魂が震えるほど、想いと熱の籠った音に圧倒された。
溢れそうな声を喉元に押さえつけて、必死に、
この激情をたった少しでも届けるために、
腕が痛くなるほど、ペンライトを振り続けた。
爆ぜるようにきらり舞う照明が、華やかな衣装を身に纏った歌姫を、世界の中心に仕立て上げ。
光が彩なす舞台、歌姫に背中合わせになるように、この場を指揮する者が立つ。
所作の全てに、感情を乗せた指揮。
堂々と、繊細に、指揮棒を振る。
数多の奏者を導く、強い背中。
こちらにまで降り注ぐ光が胸を焦がした。
五感全てを使えるだけ使って、この一瞬を、必死に残そうとする。興奮で、体があつい。
苦しくなるほどに渦巻く激情、
喉を締めて、想いを噛み締めて、
頬を伝う雫すらぬぐわずに、ただ舞台だけを見つめていた。
これが最後なのだと気づきたくない。けれど、
手が痛むほどに強く、今できる最大の称賛を送る。心を、気持ちを、届かせるように。激しく、手を打ち鳴らした。
たくさんの轟音が鳴り響いた後、
幕が降りた舞台に響き渡る静寂。
ひとつ、息を吐いた。
感動に、心臓がふるえる。
詰め込みきれない感情が溢れて、
涙としてこの場に染みる。
瞳がチカチカとする。輝く舞台が、脳に焼き付いてはなれない。
まだ終わりたくない。
この場所で息をしたい、
まだ浸りたい、この言葉にできない感情に、
今この瞬間を、いまこの感動を、閉じ込めたい、残したい。この軌跡を、どうか、どうか、
時を、止めて!!