後日投稿します
涼やかな風が吹き抜け、枝にはつぼみがつけられた。都にもとうとうあたたかな春が訪れようとしていた。町のあちこちで、少しずつだが活気が戻りつつある。
しかし、少年にそんな暇などはなかった。文机に向かい、筆を握りしめ、ひたすら紙に文字を書く。ここ最近、ずっとそれだけ。
どんなに日光が恋しくても、これを終わらせない限り、外には出られない。御簾(みす)を上げて出ていけばいいって? いやだめだ。障子の向こう側には、地獄の王より良い耳と目を持った“人“がいる。
「集中力がなくなってきたか」
向こう側から、背を向けたその人が独り言のように呟いた。だがそれは確実に少年に向けて放った言葉であるに違いない。何より図星なのだ。少年は外の様子が気になって、筆を握る手がプルプル震えている。恐ろしいのは、それを少年の姿を一度も見ることなく当てたことだった。
「茶を淹れてこよう。気休めだけれど、悪くないだろう」
着物の擦れる音が立ち、だんだんと小さくなっていく。それが聞こえなくなると、少年は「ハア゙〜〜」と大きな溜め息を吐き出した。
「き、キンチョウした……」
張り詰めた糸がプツン、と途切れたような感覚。筆を置いて畳の上に寝そべると、途端に脱力感に襲われる。この開放感は、ちょっと気持ちいいかもしれない。天井をボーッと見つめながら一息吐く。
「何してる?」
水のように冷たく澄み渡った声が聞こえると同時に、少年はびくりと肩を震わせてバネでもついているかのように体を起こした。
「ご、ごご、ごめんなさい!!!」
「……これ飲んで、少し落ち着きなさい」
差し出された茶は湯気が立ちのぼっている。湯呑みを持とうとしたとき、ふと視線が気になった。目の前のこの人がまっすぐこちらを見ている。試されているような、否確実に試されている。茶を飲むときの礼儀がなっているか、確かめるつもりなんだ。
ただ、少年には茶を嗜む趣味もなければ、拝飲の際の礼儀も知らない。数秒間迷った挙句、指先をピンと立てて、両手で湯呑みの側面を挟み、それを口に運んだ。一気に茶を飲み込んだあとすぐ、舌がヒリヒリ火傷に襲われた。
「っはは」
アチチ、舌を出して熱を覚ましていたところ、小さな笑い声が聞こえた。声の主はもちろん、このこわい人。この人と過ごしてちょっとばかし経つが、笑う姿を見たのは初めてだ。
「すまない。全く同じ飲み方をする奴が、昔いたんだ」
まさか、またお目にかかれるとは。
笑声を含めながら、湯呑みを見つめた。言い方からして、多分作法としては間違っているのだろう。トホホ恥ずかしい。しかし、もっとこわいと思っていたこの人は案外、人間らしいということも知れた。
「さて、問題集の方はどうなった?」
「あ〜、えっと〜……」
冊子を手に取り、十数枚渡るそれら全てに目を通す。その間、少年はこの人と視線が合うのが怖くてずうっと目が泳いでいた。
「うん――全問不正解だ」
「全部間違いですか!?」
ニコリ。効果音がつきそうなほど清々しい笑みを浮かべたこの人。あれだけの時間を費やした意味とは、そもそもこの問題の意味とは。全問不正解の言葉を受けて、少年はすっかり気力を落とした。
「これは学舎に行くようだな」
「ガクシャ、ですか?」
「ここでは知ることのできないことも、学舎に行けばたくさん知れる。世間知らずのお前が世間の知るいい機会だ」
暗闇に一つ、光が灯った。
下ろされた*御簾(みす)の奥でゆらゆら揺れる灯火は四人の男の顔を照らす。
年長の男、切れ長の目の男、気弱そうな男、仏頂面の男。彼らは四方に腰を下ろし、中央に向かい合う形で並んでいた。
「知ってはいると思うが、先日*御上がお隠れになった」
年長の男が淡々と述べた。しかし、その言葉には重みがあり、一室の空気がズシンと沈む。
「困ったねえ。親王様は幼くあられ、ご即位されるにはまだ早い」
「正しくは親王様“方“だ。言葉に気をつけろ」
重々しい空気の中、軽く口にする切れ長の目の男の言葉を、すぐさま咎めたのは仏頂面の男。向かい合って座る彼らの間にバチバチ火花が散ったところで、気弱そうな男が割り込む。
「まあまあ、落ち着いて」
「お前たちは若いときからよくもまあ……相変わらずだな」
溜息を吐きながら、やれやれと首を横に振る。
「ともかく。用意が整うまで、我々で*政を執り行う」
年長の男は盃を顔の前に掲げた。
それにならうように、他の三人も盃を上げる。
「この国の未来のため、尽力しよう」
盃に注がれた酒は、すぐさま彼らの喉の奥へ消えていった。
そのころ、黒雲に隠れていた月がやっと顔を出した。
月影に照らされて、*御所を囲む藤の花がキラキラ輝く。
藤の甘い芳香に潜む灯火の匂いは、誰に気づかれることなく御所を駆け抜けた。
秘密裏に行われた月夜の会合はまだまだ終焉を迎えることはなく、これは序章に過ぎなかった。
ーーーーー
*御簾(みす)簾を敬っていう語。
*御上(おかみ)天皇を敬っていう語。
*政(まつりごと)主権者が領土・臣民を統治すること。政治。
*御所(ごしょ)主に天皇など特に位の高い貴人の邸宅。
春の木漏れ日が差し掛かり、風に吹かれて花はチラチラと舞ってみせる。瑞々しい緑が庭を彩って、庭の中心にある噴水が涼しさを更に引き出した。
ここは都から遠く離れた、森の狭間にある小さな古城。普段ここに人は訪れない。自然と閑静の調和を楽しむことのできる安らぎの地。そして、人ならざる者でありながら、この世で一番人と近しい者たちが住まう場所でもあった。
本館から少しばかり離れたところに、日当たりの良い庭が広がる。鮮やかに花が咲き乱れ、青い草は水を帯びて、木陰を作りながら木は端っこでゆらゆらと葉を揺らす。乾いた土に恵みをもたらすのは、若々しく淑やかな青年。
「おや、先客ですか」
コツン、と靴を鳴らして上品にふわり笑みを浮かべながら男は庭に顔を出す。男の声に傾けたジョウロの口を持ち上げて、青年は振り返る。
「そろそろ水をやったほうがいいかと思って来ましたが、必要ありませんでしたね」
ニコリと微笑む男の言葉に青年は申し訳なさそうに視線を逸らした。
「あ、ごめん。先に伝えておいた方が良かったね」
「いいえ? こんな面倒な仕事、誰もやりたがらないでしょうから、仕方なく来ただけですよ。気にしないで」
男は変わらずに笑みを浮かべた。本当は怒っているかもしれないし、本当に気にしていないかもしれない。それは本人のみぞ知るといったところだった。
「水やりは彼女に言われて?」
「ううん。勝手にやってるだけ。帰って来て薬草が枯れてたら悲しいだろうから。……やり方が違うって怒られるのが怖いけど」
「ヒューゴは彼女をよく気にかけていますね」
「頼もしいですよ」目を伏せながら、雫に濡れた薄紅色の花を細く長い指でそっと撫でた。美しい花々を育てあげた、この庭の管理人のことを思い出す。彼女が来る前はこの庭はただの飾りのひとつでしかなかったが、見渡す限りの草花はそれぞれここに植えられた理由を持つ。
「ああ。そういえば、もうすぐ帰ってくるそうですよ。──うちの庭の管理人さんが」
「えっ!」
思わず溢れた声には、驚きと喜びが交わっていて。綻ぶ口元を手でなんとか覆い隠す。ヒューゴの初々しい反応が微笑ましく、男はまた口元に弧を描いた。
◇
空を見上げると、星がくすみ、夜空が明るむほど、光り輝く満月が顔を出していた。この日はとびきり、月が大きくて輝かしい夜だった。
街灯なんていらないくらい、道を明るく照らしている。けれどその分、影は一層濃さを増して、いつもより不気味に感じる。建物の奥はもっと暗くて、幽霊でも出てきそうだ。
暗闇に浮かぶ人魂や、ぬっと飛び出してくる青白い手。例えば、そのビルの隙間から……。建物の影に恐る恐る視線を移すと、ギラリ、二つの黄色い光がこちらを凝視した。
「本当にオバケが!?」
恐ろしくなって後退りすると、光も同じように、のろりのろりと近づいてくる。もう一歩退くと、背中に冷たいものを感じて振り返る。閉まりきったシャッターにサーッと顔が青くなっていくのがわかった。
(あっ、終わったんだ)
冥界へ向かう準備はできました。どうぞ、連れてってください。そう言わんばかりに「無」の状態をつくり、両手を合わせる。抵抗しない方が、痛くない。多分。そうして、ゆっくり数えて十秒ほど経ったのだが、なかなかお迎えが来ない。
変に思って片目ずつ瞼を上げてみると、深い影より真っ黒な生き物がちょこん、と腰を下ろしていた。ニャ〜。可愛らしい鳴き声まで。
「ね、猫?」
なんだ、ただの猫様か。さっきまでの「無」が遠い彼方に飛んでいった。それよりうるうるな瞳で見つめてくる猫を拝めるが先だ。ジリジリ寄ってみるがこの猫、逃げない。
(触れさせていただいても、いいってコト……!?)
驚かせないように、ゆっくり手を伸ばすと、猫はツンとした顔で腰を持ち上げてスルリ魔の手から逃れていく。どうやら、触ってもいいということではなかったらしい。
しかし猫は建物の影に差し掛かる辺りで、こちらを黄金色の瞳で見つめながら愛らしい鳴き声を聞かせた。尻尾がうねる。まるで「着いてこい」とでも言うように。
「着いてきて、ほしい、のかな?」
今度は追いかける方に回った。満月の夜の下、猫に着いていくって、なんだか不思議なことが起こりそうだ。淡い期待を胸に抱きながら、黒猫の後を追う。
建物の奥、左に曲がり、右に曲がり。何度か繰り返した後、ずーっと真っ直ぐ進んでいく。そろそろ引き返そう、と思っていたところに、仄明かりが向こうを照らす。
丁度、光と影の間にいた猫はこちらを一瞥した後、吸い込まれるようにして光の方へ歩いて行った。自分だけ影にいるのがなんだか怖くなって、境を超えて、向こう側へ渡る。
鋭い一閃が前を通り過ぎた。勢いで目を瞑り、瞼の外の激しい光が消えるのを確かめてから目を開く。キョロキョロ周りを見渡してみるけれど、猫の姿はもうどこにもなかった。
「誰……?」
代わりにあったのは、見慣れない森林と、満天の星空。そして、夜を映したようなローブで身を隠し、銀色の髪を揺らす、猫のような女だった。
──ああ、今日は頭の中が疑問符でいっぱいだ。
(遅れてすみませんでした。お待たせしました)