季節は一気に初夏へ進み、合わせて湿度も上昇。熱中症の患者も増える日々。
俺は年々暑くなる気温に辟易していた。
いや、俺だけじゃないな。
陽射しの強さもそうだけれど、とにかくこの湿度が憎たらしい。身体に取り込む酸素すら重みを感じてしまう。
身体の水分が沸騰しそうだった……ので、恋人へのお土産にアイスクリーム屋さんに寄って帰りました。
彼女の好きなパチパチしたアイスと、俺の好きなチョコミント。期間限定のフレーバーも何種類か選んで買って帰った。
そうだ、チョコミント。
俺は一番好きな味なんだけれど、彼女の苦手な味。
同じ好きなものが多い中で、数少ない意見の合わないもの。
おわり
四〇〇、好き、嫌い
この都市に来た時にお世話になった人たちが。
お店にお客さんで来てくれた人たちが、この都市を出ていくと聞いた。
そこには初めて頼った人もいたから、胸に穴が空いたようだった。
寂しいよ。
仲のいい人たちが沢山いたの。
助けてくれたことも沢山あったの。
間違えて殴っちゃったこともあったけれど、故意じゃないと分かっていたから、笑って許してくれた。
少し考えれば、その人たちとの思い出が沢山溢れて止まらない。
別れは、どうしても嫌な思い出が過ってしまう。
私の知らないところで遠くに行ってしまったこと。
同じように私の知らないところでお世話になった人たちが、もう二度と会えなくなった。
その別れは私に大きな傷と恐怖として今でも残っている。
雨の香りがする中、仕事場から車で帰って自宅の駐車場に車を停める。
車を降りると、ぽつりぽつりと雨が落ちてきて、私を濡らした。
私は傘もささずにその雨を身体で受け止める。
びしょ濡れになっちゃうけれど、今はそれで良いの。
粒の大きな雨が頬に当たり、これはお化粧全部落ちちゃったな。
それでもいい。
止めることが出来ない涙の跡を消してくれるなら、このままでいい。
この雨で悲しみと寂しさが流れてしまえばいい。そんなふうに思っていた。
「なにしてんの!!!」
大好きな恋人の声が聞こえて、その方を見つめる。すると彼が傘をさして走ってきて持っていたバスタオルを私の頭に被せてくれる。
「車の音がして、覗いたら雨に当たっているからビックリしちゃったよ」
そんなふうに優しく言いながら、私を拭いてくれる。
「うちへ帰ろう」
返す言葉に困っていると、彼は私の手を引いてくれた。
「身体が冷えきる前にシャワー浴びてね。夕飯は俺が作るよ。好きなもの……になると出前してもらった方がいいか」
いつも以上に優しい声で、私は違和感を覚えた。
普段から優しい人だけれど、私を迎えに来てくれたタイミングとか、タオルを最初から持っていたとか、外を見てくれたとか。
これって、もしかして――
雨が当たらないところまで連れてきてくれると、傘を畳んでから改めて頭を隠したままタオルで軽く拭いてくれる。
「もしかして、知ってますか?」
「まあ……大きいところだったしね」
私を拭く手を止めることなく続けてくれた。
「あと、君を心配して連絡くれたんだ。だから先回りして待ってた」
「やっぱり」
「バレてた?」
「なんとなくですが……」
彼はタオルをかき分けて私の頬に触れてくれると、止められない涙は彼の手を私の涙が濡らしていく。
「俺の恋人は泣き虫だから、今日はとことん甘やかしてあげる」
そう、笑ってくれた。
おわり
三九九、雨の香り、涙の跡
ちょっとしたイタズラなの。
去年の冬に毛糸を使って作ったものの余りを整理していた時に思いついて、眠っている彼の所に足を向けた。
寝室のベッドでしっかり眠っている彼を見て頬が緩んでしまう。
普段と表情が違うのが良いの。私しか知らない気の抜けた表情。
私は嬉しくて、持っていた毛糸を引っ張り出し、二メートルほどで切った。そして、私の小指に巻いてから彼の小指に蝶々結びをする。それは赤い毛糸。
絡まないようにゆったりと伸ばして広げてから、彼の横に寝転がった。
「ふふ」
起きたらどんな顔をするかな。
怒られるとは思わないけれど、びっくりするかな?
苦笑いしちゃうかな?
「起きるの、楽しみ」
そんなことを考えていたら、私もいつの間に眠ってしまっていた。
おわり
三九八、糸
この都市に来て、大切な人が増えてしまった。
大事な人を作りたくなかったのに。
おっちょこちょいな彼女から目が離せなくなって、気がついたら目で追うようになってた。
その笑顔に癒しを求める日が増えていたんだ。
自分の気持ちを押し付けてくる人達がいて、そこには俺の意思や気持ちを見てくれなかった。
疲れて疲弊した時、偶然会った彼女の笑顔か嬉しくて、俺の心のモヤが晴れていく。
彼女の働いているお店を遠巻きに見かけると、お客さんと笑顔で話している姿に胸がチクリとした。
この気持ちを育てたくないのに。
届かないかもしれないのに。
俺の意思を無視して想いは育っていくんだ。
ねえ。
手を伸ばしても……いい?
おわり
三九七、届かないのに
まだ彼女と恋人になる前。
俺は一人になりたくてバイクを飛ばして、知らない道を走り抜け知らない街の知らない喫茶店に入った。
そこで出会ったクリームソーダがとても美味しくて感動したんだ。
――
「おかしいなぁ」
俺は頼りない記憶の地図を広げながら車を走らせていた。
「この辺だったかなぁ」
隣に座っているのは、ようやく想いを伝えて叶った恋人。彼女はくすくす笑いながら小さく囁いた。
「ゆっくりでいいですよ。無理しなくてもいいですし」
「やだ。あのクリームソーダを飲んで欲しいの。うーん、多分この辺だと思うんだよ……」
俺はあの時に行った喫茶店を探しながら掠れた記憶を辿っていた。
ある程度の場所は法定速度を守りつつ、徐行しながら喫茶店を探す。
いやー、あの時はこの都市に来たばかりだし、無我夢中だったからなー。
俺は何度目かの角を曲がり、路駐ができそうな場所を見つけて路肩に車を停めた。
「こっちの方にバイクを飛ばしたと思うんだよなー」
「ふふ」
「あ、今更だけれど連れ回してごめん。先に調べておけば良かった」
自己嫌悪で項垂れていると彼女は優しく笑ってくれる。
「いいんですよー。私はこうやっている時間も楽しいですから」
車を停めているから、しっかり彼女を見つめると本当に嬉しそうに俺を見つめてくれていた。
凄く、凄く綺麗で胸が熱くなるほどの笑顔で。
「俺はあの喫茶店に連れて行きたいなー」
「なら、のんびり探しましょう」
「無駄な時間になっちゃうかもよ?」
「私は無駄な時間だなんて思っていませんよ?」
くすくすと笑う彼女。この微笑みには勝てないし、ずっと見ていたい。
俺は記憶の地図を頑張って掘り起こそうと、また車を走らせた。
おわり
三九六、記憶の地図