俺、名前の呼び捨てってあまり得意じゃないんだよね。だから、あだ名を付けさせてもらって、あだ名で呼ばせてもらってる。
そんな中で、たったひとりだけ。
あだ名で呼べない人がいる。
あだ名で呼ぼうとは思ったんだよ。
でも、なんか違うって思っちゃって呼べなかったんだよね。
それとなく、彼女に呼び方を変えつつあだ名で呼んでもらおうかなって思ったけれど、それも上手くいかなかった。
彼女が俺の名前を呼ぶ。
それが嬉しくて、胸が温かい。
俺も彼女の名前を呼ぶ。
その声に、眩い笑顔を見せてくれる彼女を見ていると胸が苦しい。でもそれが嬉しくて愛おしいんだ。
おわり
三七五、君の名前を呼んだ日
ちょっと身体がダルくてウトウトとテーブルに突っ伏していた。
肩首が痛いのと重いのと、少し苦しいのと。
昨日はしっかり休んだし、出かける前に彼を構い倒したから精神的に落ち込んでいるという訳じゃないんだけれど。
「なんでだろう」
そんなことを思いながらスマホで気圧予報のアプリを覗くと爆弾マークが付いていた。
ああ、これだ。
この後、もっと雨が降るのかな。
天気予報を見ようと思ったのだけど、もういいや。
そんなことを考えながら目を閉じて意識を手放した。
しとしとと、やさしい雨音が聞こえて心地いい。
目を開けるとベッドで横になっていた。重い身体を何とか起こしてもう一度瞳を閉じると雨の音がやさしくて、耳だけは心地いい。
そう、耳だけね。身体がもっと重くて、あのテーブルで眠ったままなら、どうなっていたのかな。
ガチャリと扉が開き、愛しい彼が私を見つめる。
「起きてたんだ。大丈夫?」
そばに近づいてベッドに腰掛けてから私の身体を包み込む。彼の温もりが温かくて安心した。
彼はなにも言わずに、ただ抱きしめてくれる。
ああ、愛おしくて、落ち着く。
おわり
三七四、やさしい雨音
お腹すいたなぁ。
今日はお休みなので、彼と夜更かしをしたから目を覚ましたら時計の針が両方上を向いていた。
いっぱい眠ったなあ。
身体を伸ばしながらダイニングに向かうと、彼が歌を歌いながら楽しそうにご飯を作っていた。
私の気配に気が付かないみたいで、私に振り向くことはない。
そのまま彼に視線を向けていると、ティーシャツから透けて見える彼の肉体がなんとも……セクシーだなって思う。
顔や仕草は幼く見える方だし、太陽のような笑顔や明るさもそれに拍車をかけていて見落としがちなんだけれど。
彼の本職は救急隊で基本的に身体を鍛えている。だから、ふとした瞬間に大人っぽさと艶やかさを気づかせた。
私の恋人は格好いいな。
歌いながらリズミカルにフライパンを軽々動かしてくるんと振り返る。
「うわっ!!!」
「あ、おはようございます」
「起きていたんだ、おはよ」
彼はフライパンを持ったまま、びっくりして動きが止まったけれど、すぐに見慣れた笑顔を私に向けてくれた。だからつられて笑顔になる。
ああ、やっぱり彼が大好き。
「そう言えば、今日は機嫌良いですね」
「え、なんでそう思うの?」
彼は作っていたお料理をお皿に乗せながら、私の前には美味しそうな湯気を揺らした食事が彼の手で並べられていく。
「歌を歌っているの、めずらしい」
ガタンガタンガタンッ!!
言ってる途中から彼が椅子から転がり落ちた。私もびっくりして立ち上がると真っ赤になった彼が私を見上げていた。
「聞いてたの!?」
「え、ダメでした?」
「忘れて!!!」
彼がこんなに顔を赤くすることがないから、私は面食らってしまう。わ、耳まで真っ赤だ。
「えー、忘れたくなぁい」
「ダメッ、忘れて!」
「ヘタじゃないのになんでですか!?」
「忘れて!!」
ほんのり涙目になっている。きっと本当に嫌なんだと思うんだけど、とても可愛い。
いじわるしたくなる気持ちを抑えて私は彼の前にしゃがみこむ。唇をとがらせて見上げている顔はより幼さを強調して可愛い。
可愛いけれど、これ以上やったら怒っちゃいそうだからここまで。
「はぁい、忘れます」
彼を困らせたくないから、本当に嫌なことだと分かったから、この件は心の中にしまっておく。
私の思いの理解した彼は安心したように笑う。
何事も無かったように手を伸ばすと、その手を取ってくれて、引っ張りながら立ち上がらせた。
「ありがとう」
今は胸にしまっておくけれど、いつか心のトゲが取れたら、今度はちゃんと聞かせて欲しいな。
おわり
三七三、歌
今日は恋人とふたり、ダイニングで黙々と作業していた。
餡を手に取り、市販で買った皮でそっと包み込んで形作っていく。
初めて作るものだから、作り始めは不揃いでお互いに大笑いしていたが、負けず嫌いなところがあるふたりが上手く包もうと集中して会話が減っていった。
俺は集中が途切れて一息つく。顔を上げると、均等に並んだ餃子の入ったバットが山のように積み上がっていた。
これ、いったい何個あるんだろう。
そして真向かいにいる彼女は、仕事をしている時の集中している顔で餃子に立ち向かっていた。
俺は彼女のこういう顔、かなり好きなんだよね。というか、餃子を包むスピード早くない?
集中して包むことに慣れていったのか、普段の不器用さはどこから来たんだと疑いたくなるくらい手際がいい。
そして思い出す。
彼女は最初こそ不器用で破壊力満載だけれど、慣れていくうちに今の仕事もプロフェッショナルに成長していた。
今回は、『餃子を作るだけ』だから練度の上がり方が異常に早い。
「あ、ねえ」
俺が声をかけると弾かれたように驚き、俺を見つめて、バットの山を見て更に驚いていた。
「うわっ!」
「そう、俺も今気がついた」
せっかくだから沢山作ろうと大量に材料を買いすぎた……かな、これは。
「初めてだから量が分かっていなかったのですが、これはさすがに作りすぎましたね」
「そうだね。でも、これ冷凍すればなんとかならないかな」
パッと見る限り、もう少しで材料が尽きそうだ。先に皮が無くなるかな。
「餡が残りそうだから、どうしようか」
「あとで調べてみましょう」
「そうだね」
彼女はまた餃子の皮に餡をそっと包み込んで、完成させては俺に向けてにっこり笑う。
「どうですか、うまくなったと思いませんか?」
ドヤ顔で見せてくる彼女が本当に可愛い。少し前まで見せていた真剣な表情との差がより愛おしく思えた。
「凄く上手だよ。残り作りきってもらっていい? 俺、前の冷凍庫にしまうね」
「ありがとうございます!」
嬉しそうな顔でまた餡を取って皮を包んで餃子を並べ始める。
ふたりで食べるには量が多過ぎたかもしれないけれど、こういう時間は楽しいかも。
「また、作ろうね」
食べる前に言うのもなんだけれど、この時間が楽しかったからそう告げると視線を俺に向けてパアッと花が開くような笑顔を見せて頷いてくれた。
おわり
三七二、そっと包み込んで
うー。
ここ最近、体調が悪くて、寝ても寝ても寝足りない。
仕事にも行ったんだけれど、途中で一気に気持ち悪くなったからお休みの連絡をして家に帰って家に転がる。
大丈夫な時は大丈夫なんだけれど、一気に込み上げるものがあって。
「動きたくなーい」
ひとりごとを大きく話していると、スマホからポコンという音が鳴った。手を伸ばしてスマホを覗く。
そこには恋人からのメッセージが届いていた。
『大丈夫?』
彼にも休みの連絡を入れておいたから、休憩時間に見てくれたのかな。
私はすぐに『気持ち悪いです』と返事をすると、スマホが鳴った。
『ごめんね、電話しちゃって』
「今は落ちついているので、大丈夫ですよ」
『迎えに行こうか? 言えば時間を空けてもらえると思うよ』
「え、ちょっと気持ち悪いだけだと思いますよ」
自分の体調的にそうだと思っているけれど、恋人は医者だから尚更私の体調を心配なんだろう。
そんなことを思っていたのに彼はいつになく真面目な声で私に言った。
『ちょっと思うところがあるから迎えに行くね』
「え、いやいやいや。そこまでじゃ……」
『うーん、俺の予想だとそこまでのことだと思うんだよね』
そんなことを話している途中、私は気持ち悪くなって通話を切ってしまった。その後に彼が迎えにきてくれたことは言うまでもない。
――
「え?」
「だから、三ヶ月よ」
私は彼によって病院に連れていかれ、すぐに検査をすることになった。その結果、満面の笑顔で先生から告げられる。
「おめでとう、お母さん」
おわり
三七一、昨日と違う私