とある恋人たちの日常。

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10/21/2024, 1:02:33 PM

 海の中に落ちている感覚に襲われる。こぽこぽと唇や鼻から泡が上がっていく。身体も重くて動かせない。
 
 ただただ、暗い水の中に沈んでいく。
 
「……さん!!」
 
 強い衝撃と声で、俺は急に現実に引き戻された。涙を目の端にためている恋人が目の前にいて、俺を見るなり力強く抱きついた。
 
 俺も全身から汗が吹き出ていた。息も上がって肩が上下する。
 
「うなされていました。凄く苦しそうで見ていられなくて……」
 
 その言葉は少しずつ涙声に変化していた。肩越しに彼女の涙が伝わって胸が熱くなる。
 
 俺も彼女を力強く抱きしめた。
 
 最近、精神的に疲弊しているのが分かっていた。身体が重い感覚はあるけれど、目を閉じると深いところで心がざわつく感情が拭えない。
 
 ひとりの時間も嫌だった。不安が背中から襲ってくる感覚に瞳を強く閉じた。自分の身体を抱きしめても収まらない不安にどうしたらいいのか分からなかったのに……。
 
 彼女の涙と体温は俺の心を軽くしてくれる。
 
 眠る前に入っていたボディソープの香りだけじゃない、優しく、柔らかくも甘さのある彼女の香りが鼻をくすぐる。それは心を落ち着かせつつも、身体を熱くする彼女だけの香り。
 
 俺だけにしか効かない官能的なアロマ。
 
 俺は彼女の身体をシーツの海に沈めて、彼女をもう一度強く抱きしめると彼女も俺を抱きしめ返してくれた。
 
「……ごめん。多分、優しくできない」
「いいです。私もそうして欲しい……」
「声が枯れるまでしちゃうかも」
「それは手加減してください」
 
 自然と口元がほころんだ。彼女も同じように微笑んでくれた。こういう時の彼女の瞳は慈しみの色が強くて……触れていいのか不安を覚える。
 
 それでも、俺は手加減なんてできなかった。
 
 
 
おわり
 
 
 
一五八、声が枯れるまで

10/20/2024, 12:07:00 PM

 俺たちの出会いは……彼女が倒れて救助に向かった時だった。色々な人に囲まれて賑やかで楽しそうだったのを覚えている。
 
 しっかりした人達が多いの中、一際弱くて心許ない感じがあって、まるでロウソクの火みたいに軽い吐息で消えてしまいそうだと感じて、俺も守らなきゃと思っていた。
 
 同じように彼女が怪我をする時、俺が救助に行くことか多かった。本当に偶然なんだけど。
 怪我をした彼女には、いつも人がいた。大切にされていたからこそ、心配されて、賑やかで、楽しそうだった。
 
 出会う時はいつも賑やかで、楽しそうで。
 
 痛いと泣きそうな声で小さく叫ぶこともある。けど、心配されると心配ないと笑顔を向ける。
 
 そんな彼女には面倒見てくれる人達が周りにいて、甘やかされているとは思っていたけれど、彼女はそれに甘んじることはなくて……。
 
 彼女がセクハラされた現場に居たこともあったけれど、己の拳でセクハラした男をぶちのめす程になっていた。
 まあ、彼女がぶちのめした男が俺の患者だったから、治療は複雑な気持ちだったなんて言えない。
 
 いつも笑顔が多くて、賑やかで、楽しそう。
 
 俺の周りも賑やかではあるけれど、なんだろう。賑やかの種類が違う。お笑い全振りした仲間たちとは違って、穏やかな気持ちになる。そんな賑やかさ。
 
 少しずつ、少しずつ視線を彼女に向けることが増え、彼女に想いを募らせていることにも気がついた。
 
 始まりはいつも賑やかで、楽しそうなところから。
 
「ただいま帰りましたー!!」
 
 玄関の扉が開き、元気の良い声が響き渡る。廊下に足を向け、彼女の顔が見えると元気いっぱいな笑顔を俺に向けて抱きついてくれる。
 
「ただいまですー」
「うん、おかえり。お疲れ」
 
 君との始まりはいつも賑やかだ。
 
 
 
おわり
 
 
 
一五七、始まりはいつも

10/19/2024, 2:03:49 PM

 仕事の合間をぬって、ボロボロになった車を彼女の職場に運ぶ。折角なら会いたいと思っていたのだけれど、彼女は出張修理に出掛けていて会えなかった。
 
「ごめんなぁ、さっき行ったばかりやねん」
 
 社長さんが、そう言いながら俺の愛車を修理してくれる。視線をこちらに向けず、パパッと作業する姿は感嘆してしまう。
 俺の恋人も手際良くなったと思っていたけれど、社長さんは比にならない。恋人が尊敬する女性なわけだ。
 
「さすが社長、お早いですね」
「任せときー!」
 
 さすが、この都市で敏腕女社長と有名になった人だけある。
 
 しばらくして、修理が終わると病院へ戻ると先輩から驚かれた。
 
「あれ? 彼女と一緒じゃなかったのか?」
「何言っているんですか? 俺、今まで修理に行っていたんですよ」
 
 先輩は口元に手をやり、少し考えながら受付を指さした。
 
「少し前、怪我して来ていたからてっきり……」
「え!? 来てたんですか!?」
「ああ、だから……」
「なんですか?」
「彼女、少し寂しそうだったから」
「!?」
 
 俺だって会えないのは寂しいよー!!!
 
 口にこそ出さないけれど、俺は心で盛大に叫んでいた。
 
「はあ……今日はすれ違ってばっかり……」
 
 思わずため息をついて肩を落とすと、先輩が笑いながら背中を叩いた。
 
「家に帰ったら会えるんだから、もう少し頑張れ!」
「それはそうなんですけれど、会えるなら会いたいじゃないですかー」
 
 このすれ違いの多さに、神様がいじわるをしているように思って、俺は唇を尖らせる。
 
「全く。会いに行く前に一言メッセージを送ればいいだけだろ」
 
 それは思わないでもない。
 でもそれは彼女に面倒をかけてしまいそうで、申し訳なかった。恐らく彼女も同じ思いだからメッセージをしないのだろう。
 
 彼女は自分より仕事を優先にして欲しい。患者を優先して欲しい。そう言える人だから尚更。
 
 そんなふうに考えていると、後輩が俺を呼んでいる。何事かと思って足早に向かうと、俺の好きな飴ふたつと畳まれたノートの切れ端を渡してきた。
 
「なにこれ」
「見れば分かりますよ」
 
 それぞれを受け取って、畳まれたノートを開く。
 
『お仕事、気をつけて頑張ってくださいね』
 
 見慣れた字が、そこにはあった。最後まで見ると彼女のトレードマークになっているパンダの似顔絵。
 すれ違っても、気持ちはそばに居るんだなと、心が暖かくなる。
 
 俺はすぐにスマホを取り出して、メッセージを送った。
 
『すれ違ったんだね。飴、ありがとう。君も無理しないでね。大好きだよ』
 
 会えなかった寂しさを、〝好き〟という言葉で埋められたらいいなと願った。すると彼女からすぐに返信が来た。
 
『会社に来てくれていたんですね。ごめんなさい。私も大好きです』
 
 頬が緩むのを止められない。単純だけれど、こんな言葉で寂しさが簡単に吹っ飛んだ。
 
「よーし、バリバリ仕事するぞー!!」
 
 
 
おわり
 
 
 
一五六、すれ違い

10/18/2024, 11:24:53 AM

 先日ひいた風邪。
 彼女の看病もあって快癒した。
 
 身体も動かせるようになったから、軽く運動をしたくなって、彼女と一緒に公園に遊びに来た。
 
「すっかり秋だね。空気感もそうだけれど空の色も違うね」
「はい」
 
 彼女はゆっくりと空を仰ぐ。
 
「明確に湿度が変わりましたよね」
「うん」
 
 太陽の暖かさそのものは変わった感じはしないけれど、彼女の言葉の通りに湿度が減り体感が違っていた。
 
 木々にも緑が減り、緩やかに黄色味がかっている。空も夏のそれとは違って……いや、雲が違うのかな。
 
 それと華やかで甘い香りが漂っていた。
 
 公園の端に植えられている、濃い緑の葉っぱにオレンジの小さな花々の集合。金木犀が鼻をくすぐる。
 
「秋になったねぇ……」
「はい、すっかり秋です」
 
 晴れた公園に季節を感じる。隣にいる恋人と目が合って自然とふたりで笑顔になり、穏やかな気持ちになった。
 
 
 
おわり
 
 
 
一五五、秋晴れ

10/17/2024, 1:55:29 PM

 今朝、発熱してしまい仕事を休ませてもらった。と、言っても、俺が自ら休んだと言うより、起きられない俺を心配した恋人が俺の職場に連絡をとってくれていた。
 
「ご飯、持ってきましたよー」
 
 彼女がトレーを持って寝室に入ってくる。
 持ってきてくれたのは、たまご粥とプリンと栄養ゼリー。カットフルーツもある。
 
「俺、寝ている時に買い物行ってきたの?」
「あ、はい。ガッツリ食べられそうならお野菜蒸しますよ」
「ううん、今あるやつで充分だよ」
 
 お椀に分けて、俺に差し出す。
 それを見て俺は少し甘えてみようかなとイタズラ心が生まれた。
 
 俺は口を開けて、少し上を向く。彼女の方に口を差し出す形をとる。
 
「あーん」
「ふえ!?」
「あーん」
 
 折角ならね、食べさせてもらおうかなと。
 
「あーん」
「え、え……」
 
 照れもあるのか、どうしようかと挙動不審になる。
 
「疲れちゃう。はーやーく」
「あ、ごめんなさい」
 
 慌てて彼女はマスク越しにふーふーする。空気がマスクに遮断されたのか、マスクを外してひと口分のたまご粥に向けてふーふーし始める。
 
 ――ぱく。
 
 ん!?
 
 もくもくと口を動かす彼女。当たり前の動作に俺まで呆然としてしまった。そして、こくんと飲み込んだ。
 
「あ!!!」
「あははははははは」
「いや、ごめんなさい、ちょ、笑わないでください」
「あはははは、ふっくくくくく……んふふふふ」
「抑えきれてませんよ!」
 
 ダメだ、完全にツボった。
 彼女は真っ赤になりながら慌てている。
 
「いや、だって、自分で食べる時も、あ、いや、もおぉおぉおぉ!!!」
「あはははははは」
 
 笑い過ぎて、疲れて起こしていた身体を倒した。
 
「あ、あ、大丈夫ですか……?」
「いや、少し疲れちゃった」
 
 彼女は慌てて立ち上がり、部屋を出ていったかと思えば、居間のソファに置いてあるクッションを持ってきた。
 その後、自分の枕も持ってくる。そして、俺の身体を支えながら起こしてくれた。その後、背中にクッションやら枕を挟んだ。
 
「寄りかかれますか?」
「ありがとう」
 
 枕とクッションを背もたれにした。
 そして、もう一度たまご粥を掬い、ふーふーする。
 
「食べないでね?」
「食べません」
「んふっ……」
「笑うなら食べさせませんよー」
「ごめん、食べさせて」
「はい、あーん」
 
 さっきのやり取りのおかげか、最初の照れはなくなったみたいだった。ちゃんと口元へ運んで食べさせてくれた。
 
 卵の甘さと軽い塩味が美味しい。
 
「食べられそうですか?」
 
 不安そうに俺を見つめる。飲み込むと自然と口角が上がった。
 
「うん、食べられる。でも、自分で食べようかな」
「え、いいんですか?」
 
 彼女からたまご粥のお椀を受け取った。
 
「うん。俺が食べた後にうっかり食べちゃったら大変でしょ……んふふ……」
「心配してくれているのは分かるんですけど、なんか腹立ちます」
「ごめん、しばらくツボってると思う」
「むー!」
 
 唇を尖らせている彼女だけれど、彼女の天然的なうっかりに、これ以上にないくらい面白かった。
 
 いや、本当に忘れたくても忘れられない。
 
 
 
おわり
 
 
 
一五四、忘れたくても忘れられない

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