坂道を下る私とすれ違うのは、近所の小学生たちだろう。無邪気にはしゃぐその声を、否定したくて溜息をついた。
自分と同じように坂を下る人間がいることに、内心安堵している。この中に帰宅部は何人ほどいるのだろう…。木の葉の擦れる音を聞き流しながら歩き続ける。今の私は、何をやっているんだろうか。適当に漂って、それっぽいことをそれっぽくこなして、それっぽく人に語る…。
ある友人だったか、こんなことを言ってくれたのは。「私は…部活動をやってるとかやってないとか関係なく、あんたは凄いと思うで。羨ましいって…思うところもあるし。」そう。そういう捉え方だってある。何が正解で何が過ちかなんて明確な定義のない問題だし、そもそも『問題』じゃないのだ。
ただ…そう。私は何がやりたいのか。それが一番…
いつも通りつらつらとそんなことを考える。毎日トートロジーに終わるこの時間に意味はないかもしれない。それでも、考えずにはいられない。
いつになったら、見つけられるんだろう。
やりたいこととか、アイデンティティとか、そういうの。
私が私を探す旅は、まだ終わらない…。
風に乗って、どこまでも走れたら
どんなにいいだろう
目の前を走る君の背中は、なんて小さいのだろう
君に並べる日はいつ来るのだろう
僕はきっと、すごく、弱い
すぐ諦めて、何かと言い訳作って逃げて
漫画の英雄に憧れる気持ちは人一倍なのに、
彼らのようになれた試しはない
それでも、僕は夢から覚めるのを拒否し続けた男。
脳は無理だと叫んでいる。
理性に、己の肉体に従え、と、夢のない戯言を。
だがな脳よ、よく聞け。我が心の叫びを。
足が前だけを追う
身体は宙に浮いている
思考は一切ない、君を目指して、ただ。
春疾風ひとつ、
「なんで…こんな魔法ばかり使うんですか?」
そう問うのは継ぎ接ぎだらけの魔法着に身を包んだ私の弟子、テティである。
「こんな魔法って…どんな魔法かい…?」
検討はついていたが聞いてみれば、
「もうっ!決まってるじゃないですか。」
と、少しむくれたような声でテティは続ける。
「虹を出す魔法とか、四葉を見つけやすくする魔法はまだ分かりますよ?いかにも幸せ感ありますから。でも…蝶々を飛ばせる魔法に、朝露が光る魔法…極めつけは、これです!!寄り道がしたくなる魔法!!誰が得するんですか…?これ。行きたかったら勝手に行きますよ、普通。」
そう述べ終えて少しは気が済んだのだろうか、テティはキノコのソファに勢いよく腰掛けた。お下げにされてなお癖を主張する彼女の赤毛が、キノコの弾力性を受けてぴょんと揺れるのを横目に、私は溶かした魔力をぐつぐつと煮る手にぐっと力を込める。その様子を見ていたのだろうか。テティがまた言う。
「そんなに熱心に混ぜなくてもいいんじゃないですか?実際、師匠様の魔力の純度は相当高いですし。数秒あればほぼほぼ完成みたいなものなんじゃ…」
そう呟くまだお子様な弟子の姿を見ていると、なんだか悟ったように物事を語りたくなってしまうものだ。
「『ほぼほぼ』じゃだめなんじゃ。じぃっくり煮込みきらないと、意味がない。」
「意味って…。」
「ささやかな幸せ、じゃよ。」
何が何だか、といったテティの表情に、近々課外学習が必要だろうかと思いながら魔法を小瓶に詰めていく。
「散歩中にふと足元で蝶々が飛んでいた、猫が尻尾を絡ませてきた。かがんでみると、きらりと朝露が挨拶をしてくれる。そんな些細なワンシーンの彩度を少しでも高くする…。それだけのプレゼントで、人間は生きているのが嬉しくなるんじゃよ。」
一瞬考え込むような仕草を見せたあと、
「じゃあ、寄り道は?」
とテティは言った。彼女は何時でも真面目でいい子だが、感性はまだまだだなと思って微笑んでしまう。
「テティの言う通り。行きたい者は行けば良い。じゃがなぁ、行きたい訳ではないけれども、寄り道を求める人は多いんじゃ。不思議じゃろう?でもそんなもんじゃ。人は愚かですぐに道を見失い、迷っているうちに自分の生きる意味を見失ったりするのじゃよ。」
「そんなときに1番いいのが寄り道じゃ。いつもと違う風景、出会い、空の色。それらがひとつになって、その人の生きる意味になったりするのじゃよ。」
ふーん…?と、分かったような分からないような声を出して、テティは小さな窓を開けた。
「じゃあ…この小さな星空も、私たちが生きている意味の1つ…ってことであってます?」
背を向けた私に返答をもらうのを諦めたらしい、テティは窓の外の星を眺める。
「あっ、流れ星……!」
そう呟いた直後、見てました!?と興奮気味に問いかける彼女の相手をしながら、たった今空けたばかりの小瓶を引き出しにそっと隠した。
「そりゃあ…ね。だって…。生きてもらわなきゃあ、困るでしょう?」
それが大人の答えなのだと。
突きつけられた言葉たちは、尖ってこそいないものの、鈍い痛みを音もなく私の奥底に残して消えていった。
。 。
。 。 そこはまるで 海のなかみたいな
。 まあるく たおやか ゆらゆらと 。
たゆたう水面 柔らかな日差しに 。
。 すべてゆだねて 海月のように
。 あおいろを眺めて 。 。
。 生きたいだけなのに 。
遡って五月、夏用のセーラー服でも少し暑いぐらいのあの日。忘れ物を取るために長すぎる階段を上って、ガラガラと教室の古びた重たいドアを開けた私の目を捉えたのは赤色だった。かっと照っている陽光の白でも、さわさわと揺れる葉桜の緑でも、小さな窓に切り取られた、手のひらサイズの海の青でもなく、鮮血の赤。そこにいる誰かの白い肌に、すぅと一筋、また一筋…。何が…起こっているのかと、不思議に思う私の心に、切迫の影はひとつもない。ただただ、慣れない空気に、時間の流れに飲まれてしまっていたのだ。随分長い時間、私はドアから半歩のところで立ち止まったままだったのだろう。風を受けて膨らみすぎたカーテンが机上のナイフを落とした音にふと目覚めさせられると、急に視界がぐらりと揺れて、黒板の端に腕をゴっとぶつけてしまった。
「…早く死なせてよ…。」
空気の波間を縫うように私の元に届いた声に、顔を上げる。逆光で顔は分からないものの、その声が誰からのものかなんて、彼女の声だけで十分だ。
「綾乃…一体何やって…。」
影がゆらりと揺れた。
カーテン越しに入る陽の光だけの薄暗い教室で、その左手に血が線を引いていくのだけ、何故か鮮明に見えたから。
その時ようやく全てを察した私は、逃げた。
「…ごめんっ……。」
それだけ残して走り去った。
。 。 。
。 。 。 。 。 。 。。 。
。 。 。。 。 。。。 。。
。 。 なにかを決めて なにかをえらばなければ 。
。なにかにしんじられて なにかを守って 。 。
。 。なにかを愛して なにかにあいされ 。 。
。 。 。 。 なにか… 。 。 。
。 。。 なにかって、なんだっけ… 。 。 。
。。 。 。。。 。。 。。。 。 。 。。
。。 。 。 。 。 。 。。 。。
。 。 。 。
あの日から数週間経ったが、まだ綾乃とは一言も話せていない。…というより、そもそも登校していないようで、顔ですらしばらく見ていない。
潮見綾乃は私が中学生になってからできた友人だ。三年生になるまで、クラスが別々になったことは一度もなく、更には同じ吹奏楽部に所属しているので、互いに親しくなるのに時間はそう要しなかった。彼女は、休み時間になるとほぼ毎回と言っていいくらい私の机のそばによってきては、自分の話を始める。少し不思議ちゃんなところのある彼女は時に私が考えたことのないような世界を語ってくれるから、二人きりの会話でも飽きることは一度たりともなかった。
「綾乃は話し上手で、私は聞き上手だから。最高の組み合わせだよね!」
私がそう言う度に、彼女は本当に嬉しそうな顔をする。風船は弾けないし、向日葵も咲かないけれど、それでも本当に、嬉しそうな顔。まるで、幼い子供が綺麗な落ち葉を見つけたときのような…そんな表情。
そんな無邪気な彼女が…肌に傷をつけていた。私はあのような行為をリストカットというのだと、後に調べて初めて知った。綾乃のために何かしてあげたい。そうは思うのに…、自分が綾乃のためにできることが、全く分からないのだ。低い校舎の渡り廊下を進みながら考え続けていると、六月のじめじめした嫌な空気がじっとりと肌にまとわりついてくる。それがふと不気味に感じられて、私は思わず
「嫌っ!!」
と叫んでしまった。その時、
「どうしたの〜。何かあった??」
と、話しかけてきたのは、我らが吹奏楽部顧問の林先生である。先生は今までに幾つもの中学校で吹奏楽を教えており、その界隈ではベテランと言われているような人らしく、一人一人に丁寧にコメントをくださる先生のことを敬愛している部員は、私含めて少なくなかった。部員全員に真摯に向き合う先生になら、と、私は綾乃のことを林先生に相談することを決めた。
「ああ、そのことね。」
先生から返ってきた予想だにしていなかった返答に、思わず衝撃を受ける。
「先生は前から、潮見さんのこと、何か知っていたんですか…?」
そう私が問いかけると、林先生は困ったような顔を窓の外に向けてこう言った。
「ええ。実を言うと彼女が四月から休部しているのもそのせいなの。建前は家庭の事情ってことにして誤魔化しているんだけど。それに…」
林先生から語られる事実の数々は衝撃的なものばかりだったが、それらが正しいであろうことは確かだった。綾乃が寒がりだからとはいえ、体育の周回走で一人だけ長袖長ズボンだったのも、授業中急に先生に呼び出されてどこかへ行くのも、面談の時間が出席番号十八番のくせに一人だけ最終日の最後なのも…。全てに納得がいった、いや、いってしまった。
視線を隅にそらすと、決して美しくない蛾が中ぐらいの蜘蛛の巣に羽を絡ませて動けずにいるのが見えた。バタバタと必死でもがいてもがいても、勝ち目はなさそうだ。そんな様子を見て、綾乃はどうしたいんだろう…なんて、考えてしまった私が馬鹿なんだろうか。
「先生。」
愚痴混じりになっていた先生の話を遮って言葉を発する。
「綾乃は、生きるべきなんでしょうか。」
あの蛾のように、この世を生き地獄だと感じているのかもしれない。私たちはその周りで悠々と飛んでいるから分からないだけで、捕らえられた側はすごく苦しい思いをして毎日を過ごしている…それなら。…そんなことを、考え込んでしまったのだ。
雨風を受けた木々がザワザワと騒ぐのを背景に、先生は口を開いた。
「そりゃあ…ね。だって…。生きてもらわなきゃあ、困るでしょう?」
そう言い終えた瞬間、林先生は大声で呼ばれて、じゃあねと残して部長のもとに駆けていった。
辺りが急に静かになる。蒸し暑いと感じていた潤沢な湿気も、なんだか今は底まで侵食しそうなくらい冷たく感じる。
困るって何…?何に困るのだろう。教師として自殺者が出たら傷になるから困るの?お金がかかったりするの?それともただ純粋に、綾乃の命を守りたいだけ…?
『困るでしょう?』その言葉がひどく頭に残って離れない。
生きるのが善で、死ぬのは悪なのか。
本当に、それでいいのか……。
答えを出す勇気を、持ち合わせてはいなかった。
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。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
。。。。。。。いわないといけない。。。。。。。
。。。。。。わらわないといけない。。。。。。。
。。。。。あさおきて くちからたべて。。。。。
。。。。。。あるかないといけない。。。。。。。
。。。。。。。いきないといけない。。。。。。。
。。。。。。。。。 なんて。。。。。。。。。。。
。。 。。。。。。。 。。。。。。。。 。 。 。。。。 。。。 。
。 。 。。 。 。。 。
なにもかんがえなくていい
なにもおもわなくて かんじなくていい
なんてすてきなんでしょう
なんでしにたいのってそんなの
わかるわけないよ馬鹿
サックスをふくのはきらいじゃない
あの子とはなすのも きらいじゃなかった
それでもわたしは
くらげみたいにながれるままに
このままあおにそまりたい
ふらふらといえをでて じてんしゃをつかんだら
真下の海へ かけおりてしまおう
しょかのようきもきょうでお別れなら
ここちよくさえかんじられて
かぜがきもちいい
みみもとでおおきくいきをしている
眼前の海がズームアップされていく
もうすぐ……
「……って…。…ってよ!」
え?
「待ってよっっ!!!」
荒げた声が耳に響く
あの子だ。
「私は…っ綾乃と…もっと、一緒にいたいっ!」「だから止まって、話そう…?私が聞くがら!!」
「早く…ブレーキっ!ねえってば!!」
おつかいの帰り道で、綾乃を見つけた。
だんだん大きくなるその影を見て、立ちすくんだ。
なんていうスピードで走っているの…?
………速すぎる…。
その瞬間には駆け出していた。
バッグから大量のトマトが転がり落ちて行くのが視界にうつるが、そんなのどうでもいい。
綾乃に越されてはいけない。
声を、伝えなければ。
もはや思考など挟むことはなかった。ただ叫んだ。人生初めて、ありったけの声で。
何が正しいとか、善人はどうするとか、もはやどうだっていい。私はまだ終えてほしくない。
私がまだ、綾乃と一緒にいたいから。
自転車に負けじと坂を駆け下りていく。
足は思うように動かず、右も左もわかったもんじゃない。だけど…。
海はもう目の前なのに、彼女はまだ止まらない。
立ち入り禁止の鉄柵が近づく。
まさか。そう思ったときには、もう手遅れだった。
ガン、と鉄がぶつかる鈍い音がなったとき、綾乃は空を舞った。
彼女の影を浴びた次の瞬間には、そこにあるのは真っ白な太陽と、しぶきをあげる海水の青だけ。
ガハッ…ゴボ…
海に身を沈める寸前の彼女はまだ、生きている。
『溺れている人がいたら119番に連絡して、ペットボトルを投げましょう。』
それが世の言うところの善だろう。
でも、私はそうはできなかった。
見捨てるのは悪?普通はそのはず。
でも、それでも私はただ彼女を見るしかない。
だって…だってあまりにも、
彼女が幸せそうな顔をしていたから。